第4話 正しい線(視点:黒瀬 澪)
私は、負ける人の足音が嫌いだ。
体育館に入った瞬間、それが分かる。
迷いがある人は、音が遅れる。
一拍だけ、床を疑う。
その一拍が、勝敗を分ける。
藍空高校の体育館は、思ったより素直だった。
床は滑らない。
リングの高さも、ネットの重さも、変な癖がない。
——勝ちやすい。
「おはよう」
誰かが言う。
私は軽く頭を下げる。
それ以上の挨拶はいらない。
仲良くなりに来たわけじゃない。
勝ちに来ただけ。
アップを始める。
ストレッチ。
ドリブル。
シュート。
リングに当たる音が、一定の高さで返ってくる。
調子は悪くない。
視界の端で、朝霧柚葉が動く。
サポーター。
踏み込みの前の一拍。
昨日より、少しだけ短くなっている。
——でも、まだ足りない。
結城真帆の声が体育館に響く。
明るい。
明るすぎる。
ああいう声は、負ける前の音だ。
私はそうやって、何度も“正しい線”を引いてきた。
勝つ人。
負ける人。
努力する人。
才能のある人。
線を引けば、迷わない。
迷わなければ、負けない。
「集合」
榊原航。
この学校の顧問。
声が短い。
無駄がない。
嫌いじゃない。
「今日は、明日の1on1を想定する」
1on1。
視線が一瞬、私に集まる。
集まるのは当然だ。
勝つ役は、いつも決まっている。
「黒瀬、相手は朝霧」
先生が言う。
私は頷く。
朝霧柚葉も、黙って立つ。
彼女の目は、昨日より揺れている。
揺れているのに、逃げていない。
——中途半端。
それが、いちばん嫌いだ。
開始。
ボールをつく。
私が仕掛ける。
一歩。
二歩。
クロスオーバー。
朝霧の反応は速い。
速いが、深く踏み込まない。
膝を守る動き。
私は、そこを突く。
フェイク。
一瞬、彼女の重心がずれる。
私は抜く。
「……っ」
小さな息。
聞こえた。
シュート。
決まる。
音が、正しい。
ネットが、素直に揺れる。
「次」
私は言う。
言葉は短くていい。
次のプレー。
今度は、朝霧が仕掛けてくる。
ドリブル。
視線は前。
フェイクは少ない。
——勝ちたい目だ。
踏み込む。
その瞬間、彼女の膝が、ほんの少し遅れる。
私はそれを見逃さない。
体を入れる。
ボールを叩く。
「遅い」
口から、勝手に出た。
言うつもりはなかった。
でも、正しい評価だ。
朝霧の動きが、一瞬止まる。
その止まりが、致命的。
ボールは私のもの。
レイアップ。
入る。
結城真帆の声が止まった。
体育館の空気が、冷える。
——これでいい。
そう思ったのに。
朝霧が、次のプレーでパスを出した。
私じゃない。
結城真帆へ。
「……?」
一瞬、判断が遅れた。
その一瞬で、結城のシュートが放たれる。
ボールが、弧を描く。
リングに当たる。
——入る。
音が、少しだけ乱れた。
でも、入った。
私は、息を止めた。
なぜ、今、パス?
勝ちたいなら、自分で行くべきだ。
そうじゃないと、意味がない。
意味がない——はずなのに。
結城真帆の顔は、泣きそうで、笑っている。
朝霧柚葉は、膝を庇いながら、息をしている。
その二人の距離が、さっきより近い。
——線が、ずれた。
「黒瀬」
榊原先生の声。
私は顔を上げる。
「勝ち方は、一つじゃない」
短い言葉。
でも、重い。
私は、答えない。
答えられない。
休憩。
水を飲む。
喉が、乾いている。
私はベンチに座り、指を握った。
震えている。
——なんで?
勝っている。
技術も、判断も、私の方が上。
それなのに、胸がざわつく。
結城真帆が、息を整えながら笑う。
朝霧柚葉が、少しだけ笑う。
その笑いが、私を苛立たせる。
笑うな。
勝負の途中で。
でも——
笑っているのに、逃げていない。
私は思い出す。
前の学校。
勝てなかった試合。
最後の一本を外した瞬間。
観客席の、静まり返った音。
「黒瀬、なんで外した?」
その声。
監督。
仲間。
自分。
——勝たなきゃ、価値がない。
それ以来、私は線を引いた。
正しい動き。
正しい選択。
正しい勝利。
でも、目の前の二人は、線の外にいる。
練習が終わる。
片付け。
誰も、私に話しかけない。
それでいい。
帰り際、体育館の出口で、朝霧が振り返る。
一瞬、目が合う。
彼女の目は、真っ直ぐだ。
「……さっき」
朝霧が言いかけて、止まる。
止まって、息を吸う。
「ありがとう」
意味が分からない。
「なにが」
思わず聞いた。
声が、少しだけ尖る。
「パス、出させてくれた」
私は、言葉を失う。
出させて、くれた?
私は、奪っただけだ。
「……勝ちたいなら、自分で行けば」
それが、私の正解。
朝霧は、首を振った。
「今日は、あれが一番だった」
一番。
その言葉が、胸に残る。
朝霧は、私を見て、静かに言う。
「黒瀬さんは、強い。でも……」
でも、の先を言わない。
言わないのに、分かる。
——一人だ。
朝霧は去る。
私は、その背中を見る。
膝を庇いながら。
それでも、前を向いて。
体育館に、一人残る。
床の中央に立つ。
ボールをつく。
音が、少しだけ違う。
——正しい音じゃない。
私は、指を握りしめる。
震えは、止まらない。
線を引くことで、私は守ってきた。
でも、線の外にあるものを、私は知らない。
明日。
1on1。
勝っても、負けても。
何かが、変わる気がした。
その予感が、怖い。




