第2話 笑うほうの手(視点:結城 真帆)
手のひらの傷は、笑うと痛い。
いや、正確には、笑うと“引っ張られる”。
絆創膏の下で、皮膚が突っ張って、「まだそこにいるよ」って小さく主張する。
だから私は、朝のホームルームで笑った。
「昨日さ、体育でさ〜」
誰かの話に、いつも通りのタイミングで頷いて、いつも通りの角度で口角を上げる。
痛い、とは言わない。痛いって言った瞬間に、昨日の滑り込みが、柚葉の指先の遅れが、蒼の「帰れ」が、全部セットで戻ってくる。
それは——嫌だ。
私は机の下で、絆創膏の端をそっと押さえた。
押さえたら、傷が「黙る」気がした。
教室の窓から見える空が、冬の手前みたいに薄い。
白い雲が、濡れた紙みたいにちぎれて流れていく。
こんな空の日は、体育館の床がよく鳴る。
「真帆、行こ」
昼休み、柚葉が言った。
言ったけど、目は私の手を見ない。
見ないふりって、たぶん、見るより優しい時もある。
私は「うん」と返して、わざと軽く肘で柚葉を小突いた。
「今日はアイス、予約ね」
柚葉は笑う。
笑うけど、昨日より笑いが浅い。
その浅さが、私の胸をちょっとだけ冷やす。
体育館に入った瞬間、昨日の音がぶわっと蘇る。
ボール。床。息。
そして——黒瀬澪の、温度のない挨拶。
澪は、今日も早い。
私たちが着替えてコートに出る頃には、もう一人でシュートを打っている。
リングに当たる音が、すごくまっすぐで、余計な揺れがない。
「入るねえ……」
誰かが呟く。
羨ましい、と言う音。
怖い、と言う音。
私はその両方を知っている。
柚葉の隣に立つと、柚葉は息を吸い込んでから吐いた。
吐く息が、妙に細い。
細いのに、強がりの形をしている。
「大丈夫?」
言いそうになって、飲み込む。
昨日の“ごめん”が、柚葉の喉で折れたのを見たから。
「大丈夫?」は、柚葉にとって、傷口を指で開かれる質問だ。
榊原先生が手を叩いた。
「走る。五周」
短い。
短いけど、容赦がない。
私は走り出す。走りながら、昨日より右手が少し重い。
——重いって、こういうことか。
「真帆」
柚葉が隣に並んでくる。
息の音が近い。
私はわざと明るく言った。
「ねえ、昨日のアレさ、私、かっこよかったよね。スライディング」
「……かっこよくない」
「え〜? じゃあ可愛い?」
「……可愛くない」
柚葉の返しは、いつもより短い。
その短さが、蒼に似ている気がして、私は少しだけ嫌な気持ちになった。
柚葉は柚葉の言葉で、私にいてほしい。
「柚葉」
私は走りながら、ふっと声のトーンを落とす。
「膝、どう?」
柚葉は、瞬間だけ、目を逸らした。
目を逸らした先には、体育館の壁の時計がある。
時間を見るふりをして、答えない。
「……平気」
嘘だ。
嘘って、音がする。
柚葉の「平気」は、いつもより乾いている。
私はそれ以上聞けなかった。
聞いたら、昨日の“帰れ”が、私の口から出てしまいそうで。
それだけは、絶対にしたくない。
アップが終わる。
パス回し。
私はいつもより丁寧にボールを返す。
丁寧に返すことで、昨日の転倒をなかったことにしたいみたいに。
「結城、声」
榊原先生の声が落ちる。
先生はいつも、私に声を求める。
たぶん、私の声がチームの空気を動かすから。
私は声を出す。
「ナイス!」
「次、いける!」
「一本!」
声を出すと、胸の中の焦りが少しだけ散る。
でも——散った分だけ、別のものが濃くなる。
澪の存在。
澪は、声を出さない。
出さないのに、空気を変える。
正確な動きが、正しい圧になる。
それが、私には怖い。
「次、実戦。五対五」
榊原先生の短い命令。
私は、昨日と同じチームに入る。
柚葉も。澪も。
始まった瞬間から、澪は速度が違う。
パスのコースが鋭い。
私の手に来るボールが、ちょっと痛い。
痛いのに、嬉しい。
痛いってことは、真剣ってことだ。
私は走る。
昨日より速く。
昨日の擦り傷を、追い越すみたいに。
でも、足がついてこない。
昨日の「かっこいい」とは違う、内側からの息切れ。
私の身体は、私の気持ちほど強くない。
それでも私は走る。
走ってる間だけ、考えなくて済むから。
柚葉に追いつけないこと。
澪に追い抜かれること。
蒼の視線が柚葉の膝に落ちること。
私が、それを見てしまうこと。
ドリブルの音。
床の軋み。
誰かのシューズのキュッ。
その全部が、私の胸を煽る。
「真帆、外!」
柚葉の声。
昨日より少しだけ、強い。
私は外へ開いて、パスを受ける。
受けた瞬間、右手の傷が引っ張られる。
痛い。
一瞬だけ目の前が白くなる。
その一瞬に、澪の影が入ってくる。
「遅い」
澪の声は、初めて聞くくらい小さかった。
でも、はっきり刺さった。
遅い——私が、ってことだ。
私は反射でドリブルをつく。
ついた瞬間、息が変になる。
吸えない。吐けない。
胸の真ん中で、空気が引っかかる。
(やばい)
足が止まりそうになる。
止まったら、全部終わる気がする。
私は無理やり走ろうとして——視界が揺れた。
床が、近づいてくる感覚。
体育館が遠くなる。
音が薄くなる。
一番大きく聞こえるのは、自分の心臓。
ドク、ドク、ドク。
速すぎる。
速すぎて、怖い。
「結城!」
誰かの声。
榊原先生か、柚葉か、分からない。
分からないけど、私は足を止めた。
止めた瞬間、胸の奥が痛くなって、呼吸が勝手に浅くなる。
「……っ」
息が、吸えない。
吸おうとすると、喉が詰まる。
吐こうとすると、胸が縮む。
私、いま、泣いてないのに、泣くみたいな呼吸してる。
しゃがみ込もうとした瞬間、誰かが水を差し出した。
柚葉だ。
柚葉の手。
私の好きな、細い指。
その指の先が少し震えているのを見て、私は——飲めなかった。
飲んだら、助けられたってことになる。
助けられたら、私は弱いってことになる。
弱いって認めたら、柚葉の隣に立てなくなる気がする。
「……いらない」
言ってしまった。
声が、思ったより冷たい。
冷たさで、柚葉が傷つく顔をする。
その顔を見たくなくて、私は目を逸らす。
澪が少し離れたところから見ていた。
表情がない。
ないのに、私は勝手に読み取ってしまう。
——努力しても、こうなるんだね。
違う。
違うって言いたいのに、呼吸が追いつかない。
「給水。全員」
榊原先生の声。
短い命令が、私を救う。
先生の命令は、個人の弱さを“全員”に広げるから。
私は立ち上がろうとして、ふらつく。
柚葉が手を伸ばす。
私は、その手を避けた。
避けた瞬間、胸が痛くなる。
痛いのは、呼吸じゃなくて、心だ。
(なんで、避けたの)
避けたくなかった。
でも、避けないと、柚葉に寄りかかってしまう。
寄りかかったら、私は——追いつけないまま終わる。
給水の列。
みんなはいつも通りのふりをする。
私はいつも通りのふりができない。
息がまだ浅い。
浅いのに、笑おうとする。
「大丈夫?」
誰かが聞く。
私は「大丈夫!」って返す。
その「大丈夫」は嘘じゃない。
嘘じゃないことにしたい。
練習は続く。
私は無理やり声を出す。
声を出すと、空気が入る気がする。
空気が入ると、私が“普通”に戻れる気がする。
でも普通の中で、私はずっと柚葉を見てしまう。
柚葉の膝。
踏み込みの瞬間。
ほんの少し、怖がっている影。
柚葉は「平気」の顔をしている。
あの顔が、昨日より上手になっている。
上手になった分だけ、危ない。
練習が終わる頃には、私はもう声が枯れていた。
喉の奥が痛い。
その痛みは、私が今日も頑張った証拠みたいで、少しだけ安心する。
片付け。
ボールをカゴに入れる音。
モップの擦れる音。
柚葉が近くにいるのに、私は近づけない。
さっき避けた手が、まだ私の中で生きている。
私は笑って、いつも通りに戻るふりをする。
「柚葉、帰り、コンビニ寄る?」
「……うん」
返事が薄い。
薄い返事に、私の胸が焦げる。
(ねえ、柚葉。私さ)
言いたい。
言いたいのに、言ったら崩れる。
私は手のひらの絆創膏を見た。
白いテープ。
その下の赤い線。
赤い線は、私の努力の線。
努力って、こういう形で残るんだって、誰かに見せたい。
でも柚葉は、私の努力を見せられると、傷つく気がする。
柚葉は自分の才能が、誰かを傷つけると思ってるから。
だから私は、別の形で勝負することにした。
「ねえ、柚葉」
柚葉が顔を上げる。
その目が、少しだけ怯えているのが分かった。
怯えを見ないふりをして、私は笑った。
「明日さ」
口の中が乾く。
乾くのに、私は言う。
「勝負しよ」
柚葉が何も言わない。
言わないのに、目が揺れる。
私は、柚葉の揺れを見たまま、笑って手を振った。
「決まりね」
その場から逃げるみたいに、私は体育館を出た。
廊下の冷たい空気が、顔に当たる。
息が、少しだけ深くなる。
スマホを取り出す。
メッセージ画面を開く。
柚葉の名前。
私は指で、短い文章を打つ。
『明日、1on1。逃げないで』
送信。
送信した瞬間、指先が熱くなった。
熱くなるのは、勇気じゃなくて、怖さだ。
私は立ち止まって、天井の蛍光灯を見上げた。
光が白くて、目が痛い。
(追いつけないまま終わるの、嫌だ)
誰にも聞こえない声で、私は息と一緒に呟いた。
その時、背後で扉が開く音がした。
振り向く前に分かる。
——男子の足音。
そして、短い沈黙。
私は振り向いた。
篠宮蒼が、廊下の端に立っていた。
私を見ている。
じゃなくて、私のスマホを見ているわけでもなく、手のひらの絆創膏を見ている。
蒼は何も言わない。
言わないのに、私は分かる。
蒼は、柚葉のことだけを見ている人だ。
だから、私の傷を見ても、私のことじゃない。
柚葉の“罪悪感”を見ている。
そのことが、私を少しだけ苛立たせた。
私は蒼の前を通り過ぎる時、わざと明るく言った。
「蒼。柚葉、明日、逃げさせないから」
蒼の目が、ほんの少しだけ動く。
動いたのは、驚きじゃない。
多分、痛み。
蒼は短く言った。
「……無理させるな」
その一言が、私の胸の奥に落ちて、重く沈んだ。
無理させるな。
無理させないと、届かない。
でも、無理させたら壊れる。
私は笑った。
笑って、手のひらが引っ張られた。
痛い。
痛いのに、私は走り出した。
走り出したら、涙が出そうだった。
明日。
勝負。
そして、柚葉の膝。
私の努力は、誰かを救うんだろうか。
それとも、誰かを壊すんだろうか。
その答えはまだ見えない。
でも、私は送信したメッセージを見つめながら、指先の熱だけを確かめた。
——逃げないで。
その言葉が、柚葉の心に届く前に、
私の胸に、もう一度息が引っかかった。




