最終 第10話 指先に残るブザー(視点:朝霧 柚葉)
ブザーが鳴ったあと、
体育館は、少しだけ遅れて静かになる。
歓声はすぐに形を失って、
床を踏む音も、ボールの弾む音も、
全部、遠くに退いていく。
残るのは、
指先の熱だけだった。
私は、まだコートの中央に立っていた。
膝は、正直に言えば、痛い。
でも、その痛みは——
「ここまで来た」という証明みたいだった。
真帆が、私の横に来る。
「……終わったね」
声が、少しだけ震えている。
「うん」
短い返事。
短くても、足りている。
私たちは、触れない。
でも、離れてもいない。
それが、今の距離。
ベンチの方を見ると、
黒瀬澪が、汗を拭きながらこちらを見ている。
視線が合う。
澪は、ほんの一瞬だけ頷いた。
勝ったとか、負けたとか、
そういう頷きじゃない。
——線の外を、見た。
そんな顔だった。
先輩の陽菜が、コートに入ってくる。
笑っている。
でも、目が少しだけ赤い。
「お疲れ」
それだけ言って、
私の肩を、軽く叩いた。
叩き方が、
「もう、渡したよ」って言ってるみたいで、
胸の奥が、じん、とした。
顧問の榊原先生は、
少し離れたところで腕を組んでいる。
視線が、私の膝に落ちる。
それから、顔に戻る。
何も言わない。
でも、分かる。
——壊してないな。
それだけで、
私は胸いっぱいだった。
片付けが始まる。
いつも通りの作業。
いつも通りの音。
なのに、
今日は、全部が違って聞こえる。
モップの擦れる音。
ボールがカゴに入る音。
誰かの笑い声。
全部が、
「あの頃」から続いている音だ。
私は、靴紐を結びながら、
ふと思う。
——私、前は。
怖いって、言えなかった。
痛いって、認められなかった。
逃げてる自分を、
必死に“頑張ってる”って言い換えていた。
でも、今日は。
怖いって言った。
無理をしないって選んだ。
それでも、
コートの中にいた。
蒼が、出口の方に立っている。
目が合う。
言葉は、いらない。
私は、ほんの少しだけ、
指先を動かした。
蒼も、
同じくらいの動きで、返してくる。
それだけで、
胸が、すっと落ち着く。
外に出ると、
夜の空気が冷たい。
汗が引く。
膝の熱が、少しだけ和らぐ。
真帆が、私の隣で立ち止まる。
「ねえ、柚葉」
「なに」
「今日さ」
少しだけ、間。
「楽しかった?」
私は、すぐに答えられなかった。
楽しい、って言葉は、
今日には軽すぎる気がしたから。
でも、
別の言葉も、見つからない。
だから、
私は、正直に言う。
「……怖かった」
真帆が、笑う。
「うん」
「でも」
私は、夜の体育館を振り返る。
「もう一回、やりたい」
真帆の目が、少しだけ潤む。
「だよね」
それだけ。
それ以上は、言わない。
帰り道。
街灯の下で、
影が二つ、並んで伸びる。
少し歪で、
少し違う形。
でも、
同じ方向を向いている。
家に着いて、
シャワーを浴びる。
湯気の中で、
今日のプレーが、
何度も頭に浮かぶ。
踏み込まなかった瞬間。
パスを選んだ場面。
フリースローの静けさ。
そして——
ブザー。
私は、タオルで指先を拭きながら、
気づく。
ブザーの音は、
終わりの合図じゃなかった。
選び続けるための、
区切りだった。
ベッドに横になる。
天井が、白い。
膝は、まだ少し痛い。
でも、その痛みは、
もう、私を止めない。
私は、目を閉じて、
小さく息を吸う。
——あの頃。
必死で、
何者かになろうとしていた私。
今の私は、
まだ、何者でもない。
でも。
怖がりながら、
選びながら、
前に出ている。
それで、いい。
明日、また、
コートに立つかもしれない。
立たないかもしれない。
それでも、
今日の私の指先は、
確かに、
ブザーの余韻を覚えている。
その余韻が、
私を、
少しだけ先へ運ぶ。
——終わり。




