第1話 指先に残るブザー(視点:朝霧 柚葉)
登場人物紹介
朝霧柚葉(主人公/女子バスケ部2年)
才能はあるが未完成。膝の古傷があり、期待が怖い。強がりの沈黙が増える癖。
言えない本音:もう一度壊れるのが怖い。
間違った選択:痛くないふりで走り続ける。
結城真帆(親友/女子バスケ部2年)
努力型で声が大きい。ムードメーカー。
言えない本音:柚葉を好きだからこそ、羨ましい。
間違った選択:明るさで自分の焦りを誤魔化す。
篠宮蒼(恋の相手/男子バスケ部2年/幼なじみ)
無口。短文。後悔が多い。
言えない本音:柚葉の「怖さ」に気づいているのに、言う資格がないと思っている。
間違った選択:大事な時ほど黙る。
黒瀬澪(ライバル/女子バスケ部2年・転入)
才能型。鋭く硬い。勝利に迷わない。
言えない本音:負けた瞬間、自分の価値が消える恐怖。
間違った選択:正しさで人を斬る。
榊原航(顧問/コーチ)
間が長い。短い断定。
言えない本音:選手の未来を守りたいが、優しくすると逃げると知っている。
間違った選択:伝え方が不器用すぎる。
遠野陽菜(先輩/女子バスケ部3年・主将)
先輩。笑って背中で引っ張る。
言えない本音:最後の夏に、勝ちたい以上に「皆を残したい」。
間違った選択:自分の不安を飲み込む。
ーーー
本文
体育館の床は、朝いちばんの光を吸って、まだ眠そうな色をしている。
ワックスの匂い。ゴム底の擦れる音。ボールが跳ねるたび、空気が小さく震えて、胸の奥の何かが起き上がる。
その震えが好きだったはずなのに、私はいつからか、震えを「怖い」と思うようになっていた。
膝のサポーターを締める指に、少しだけ力が入る。
マジックテープが、びり、と乾いた音を立てた。
「柚葉、おはよー!」
結城真帆が、体育館の入口から手を振って駆けてくる。髪をひとつに結ぶゴムがまだ新品みたいに黒くて、彼女の笑顔はいつも朝の速度で私にぶつかってくる。
「おはよ」
返した声が、思ったより小さくて、自分で驚く。
真帆は気づかないふりをして、私の隣にしゃがみ込んだ。
「今日さ、シュート入ったらさ、アイス買ってよ」
「なんで私が」
「柚葉が入れさせてくれたってことにするから」
ふざけた言い方なのに、真帆の目だけは真剣で、私は笑うタイミングを失った。
そのまま立ち上がると、膝が少し遅れてついてくる感覚がある。
……まだ、大丈夫。
私は自分にそう言い聞かせるのが上手になった。
大丈夫の範囲を、毎日少しずつ狭めながら。
「集合」
低い声が体育館に落ちた。
顧問の榊原先生が、ホイッスルを鳴らすでもなく、ただ手を一回叩くだけで空気を切り替える。
先生の「集合」は、いつも短い。
短いのに、逆らう余地がない。
輪になった私たちの前で、先生が一枚の紙を掲げる。
「転入生。今日から入る」
ざわ、と空気が動いた。
転入生——この時期に?
体育館の入口に、背の高い女子が立っていた。
髪は黒く、まっすぐで、束ねていないのに邪魔にならないみたいに顔から離れている。目は細くも大きくもないのに、視線だけが鋭い。人を刺す、というより、測る。
「黒瀬澪です」
声は淡々としていて、挨拶の形をしていたけれど、感情の温度がない。
なのに、私はなぜか、その冷たさに引き寄せられた。
……勝つ人の匂いがする。
私は鼻で感じたわけじゃない。
床を踏む足の強さとか、背骨のまっすぐさとか、ボールを見ている目の角度とか。
そういうものが全部、勝つ方向を向いている。
「ポジションは?」
榊原先生が聞く。
「どこでも」
澪は即答した。
その即答が、怖かった。
「今日からメニューに入る。自己紹介は走りながらやれ」
先生が言うと、真帆が小さく笑って、私の肘をつついた。
「うちの先生、優しいね」
「どこが」
「だって、会話してくれるもん」
真帆の軽口の裏で、澪はすでにラインに立っている。
先生の「走れ」を聞いた瞬間に、もう走る準備ができている人の立ち方。
私はその横顔を見て、膝のサポーターの存在を急に強く意識した。
アップのランニングが始まる。
体育館の外周を回るたび、足音が重なって、音の塊になる。
呼吸が温かくなる。
身体が、少しずつ思い出していく。
でも、思い出してほしくないことまで、一緒に戻ってきそうで。
「柚葉!」
真帆が並んで走りながら話しかける。
「澪ちゃん、すごそうじゃない? なんかさ、漫画みたい」
「うん」
「ねえ、柚葉。燃えてない?」
燃えてる、と言いそうになった。
燃えたら怖い。燃えたら、期待される。期待されたら、また——。
「……ほどほど」
そう言った私の声は、走る音に薄く溶けた。
真帆は「そっか」とだけ言って、少しだけ先へ出た。
その背中が、たぶん、私を責めていないのが分かる。
責めていないことが、いちばん刺さる。
アップが終わり、パス回し。
ボールが手のひらに吸いつく。
指先がじん、とする。
この感覚だけは、嘘をつかない。
「ナイス、柚葉」
先輩の陽菜さんが声をかけてくれる。主将の声は、背中を押すというより、背中を支える音だ。
私は軽く手を上げた。
そこに——男子の声が混ざる。
体育館の扉の隙間から、男子バスケ部が見学に来ている。
よくあることだ。
でも、その中にいる一人の影を見つけた瞬間、私は息の仕方を忘れた。
篠宮蒼。
幼なじみ。
同じ団地。
同じ帰り道。
同じコンビニの前で、何度も立ち止まった。
蒼は、相変わらず無口そうに立っている。
表情が動かない。
でも、視線だけが——私の顔ではなく、膝のあたりに落ちている。
見ないで。
そう思ったのに、私は目を逸らせなかった。
蒼の視線は、優しさというより、痛みを避ける人の目だ。
壊れやすいものを見ている目。
私はボールを受け取るタイミングが少し遅れた。
ボールが指先を叩く。
痛い。
なのに、その痛みが安心に近いのが悔しい。
「はい次、スクリメージ」
榊原先生の声が落ちる。
今日は五対五の実戦形式。
私たちのチームの中に、澪が入る。
澪は、言葉をほとんど使わずに、動きだけで周囲を変えていく。
パスが来る場所を、先に決めている。
視線が一瞬で周りを切り取る。
そして、迷わない。
「……速」
真帆が小さく呟いた。
汗を拭う暇もないまま、真帆の目が少しだけ揺れる。
私は、揺れを見ないふりをした。
見たら、何かを返さなきゃいけない気がしたから。
開始の合図。
ボールが跳ねる。
床が鳴る。
息が重なる。
視界が狭くなる。
私はドリブルで運び、澪にパスを出す。
澪は受け取る瞬間、私を見ない。
見ないのに、私の癖を読んでいるみたいに、次の動きを先に置いてくる。
澪がカットイン。
ディフェンスが寄る。
その一瞬、私は空いたスペースに走り出す。
——踏み込む。
膝の内側に、熱が走った。
ほんの一瞬、頭が白くなる。
でも、止まったら負けだと思った。
私は走った。
痛いふりをしないで、いつも通りの顔で。
「柚葉!」
真帆の声。
私の背中に当たる声。
次の瞬間、澪のパスが来る。
速い。
鋭い。
完璧すぎて、受け取る私の準備が足りない。
私はボールを掴み損ねた。
指先が滑る。
ボールが落ちる。
真帆がそれを追って、床に滑り込む。
ぎゅっ、と嫌な音がした。
床と膝と手のひらが擦れる音。
「っ……!」
真帆の声が、短く切れた。
時間が止まったみたいに感じた。
体育館の音が全部遠くなる。
私は、呼吸が胸に引っかかって、前に出るタイミングが遅れた。
「……真帆!」
私は駆け寄って、しゃがむ。
真帆の手のひらに、赤い線が増えていく。
擦り傷。
血は少し。
でも、その少しが、私の視界を真っ赤にした。
「大丈夫、大丈夫」
真帆は笑おうとする。
笑う角度が、いつもより浅い。
「ごめん」
私の声は、喉の奥で折れたみたいに小さい。
真帆が一瞬だけ目を伏せる。
そして、また笑う。
「柚葉が謝るの、なんか変」
変。
そう言われた瞬間、胸の奥がずきん、と痛んだ。
私は謝り慣れていない。
謝るより先に、逃げるのが得意だったから。
「止め。給水」
榊原先生の声が入る。
澪は少し離れた場所で、黙って立っている。
その目は、怒っているのか、呆れているのか、分からない。
でも、確かに「測っている」。
私のことを。
真帆のことを。
このチームのことを。
真帆が立ち上がろうとする。
私は肩を貸そうとする。
「いいって」
真帆が軽く手を振って、私の手を避けた。
避けたのは一瞬。
でも、その一瞬が、刃物みたいだった。
給水の列の中で、私は誰の目も見られなかった。
なのに、蒼の視線だけは感じる。
視線は言葉よりうるさい。
蒼が入口の方から、少しだけ中へ入ってくる。
男子の輪がざわつく。
蒼は輪に混ざらず、まっすぐ私の方へ歩いてきた。
近づく足音。
その足音が、私の膝の痛みを思い出させる。
蒼は私の前で止まった。
目を合わせない。
私の膝のあたりを見たまま、短く言う。
「帰れ」
「……え」
「今日は、帰れ」
たったそれだけ。
なのに、胸の奥が熱くなって、恥ずかしくなる。
みんなが聞いている。
聞いていないふりをして、聞いている。
「別に、大丈夫だし」
私は笑おうとした。
笑えなかった。
笑う筋肉が、固まっていた。
蒼はようやく私の顔を見た。
その目は、怒っているわけじゃない。
でも、怖いくらい真っ直ぐで、私の逃げ道を塞ぐ。
「大丈夫って言うな」
言葉が短い。
短いのに、私の中の何かを正確に掴む。
私は何も返せなかった。
返したら、壊れる気がした。
蒼はそれ以上言わずに、ポケットから何かを出した。
黒いサポーター。
新品の匂いがする。
私の手のひらに置こうとする。
「いらない」
反射みたいに言ってしまった。
いらない、じゃない。
欲しい。
欲しいのに、受け取ったら、認めることになる。
——私は、怖いんだって。
蒼の手が止まる。
そのまま、手の中でサポーターが少しだけ皺になる。
蒼はそれを握ったまま、視線を落とした。
「……じゃあ、捨てろ」
捨てろ。
その言葉が、優しさの形をしていないのが、蒼らしい。
優しさは、形を変えると凶器になる。
蒼はそれを知っているみたいだった。
蒼は去っていく。
入口の光が、彼の背中を細く切る。
私はその背中を見て、膝の内側を無意識に押さえた。
痛みは、じんわりと熱くて、今にも涙に変わりそうだった。
その時、榊原先生の声が後ろから落ちた。
「朝霧」
振り向くと、先生は記録用紙を見たまま立っている。
目を合わせない。
合わせないのに、全部見ている。
「逃げるなら、コートを降りろ」
息が止まった。
逃げる。
私は、逃げているのか。
走っているのに。
練習しているのに。
汗をかいているのに。
先生は顔を上げない。
そのまま、短く続ける。
「壊すな」
何を、とは言わない。
言わないのに、分かる。
自分を。
期待を。
誰かを。
私は唇を噛んだ。
噛んだところで、味がしない。
ただ、胸が痛い。
練習は再開した。
私は動いた。
動くことで、考えないようにした。
考えたら、膝より先に心が折れる。
それでも、ボールが手に戻ってくるたび、指先が言う。
——ほんとは、好きだろ。
好き。
バスケが。
コートが。
勝ちたい気持ちが。
そして、蒼の視線が怖いほど痛いのに、どこかで安心してしまう自分が。
練習が終わった頃には、体育館の光が夕方の色に変わっていた。
みんなの息は白くならないのに、なぜか冷たい。
片付けをしながら、真帆が近づいてきた。
手のひらの傷は、もう絆創膏で隠れている。
隠れているのに、私はその場所を見ないでいられない。
「ねえ、柚葉」
真帆の声が、いつもより静かだった。
「明日さ」
言葉が途切れる。
真帆は私の顔を見ない。
床のラインを見ている。
「勝負しよ」
勝負。
その二文字が、胸の奥に落ちて、沈んだ。
私は返事ができなかった。
できなかったのに、真帆は笑って手を振った。
「決まりね」
決まり。
決まってしまう。
帰り道。
靴の中で足が少しだけ浮く感覚がある。
膝はまだ熱い。
痛い。
だけど、痛みの奥に、何かが灯っている。
保健室に寄って、湿布をもらう。
一人の部屋。
白いカーテン。
消毒の匂い。
私はベッドに腰掛けて、膝に触れた。
自分の膝なのに、他人みたいだ。
他人みたいだから、怖い。
蒼が「帰れ」と言った声が、耳の奥でまだ鳴っている。
榊原先生の「壊すな」が、胸の奥で重い。
私は膝を押さえたまま、息を吐いた。
「……また、逃げる?」
声が、部屋の白さに吸われる。
返事は返ってこない。
返ってこないのに、指先だけが熱い。
その熱さが、私の答えみたいで、私は少しだけ目を閉じた。
明日。
勝負。
そして、転入してきた黒瀬澪の冷たい目。
ブザーの音が、まだ鳴っていないのに、
指先だけが、もう残響を覚えている。




