02
視線は私ではなく、王子の手にあるどんぶりに釘付け。漂ってくる強烈なニンニクと醤油の香ばしい匂いが父の胃袋を直接殴打しているのがわかる。喉がゴクリと鳴った。
「何って残り物の処理ですよ、お父様」
薄汚れたエプロンの埃を払った。
「魔力ゼロの穀潰しが庭の雑草と廃棄寸前の骨を煮込んだだけの代物です。高貴な公爵様や聖女様にはふさわしくありません」
「そ、そう! その通り!」
ララルーカが扇子を開き、必死に匂いを追い払う仕草をする。
「そんな脂ぎった汁、平民以下よ! お姉様、殿下に変な薬でも盛ったのでしょう!? 衛兵! 無能女を捕らえなさい!」
ララルーカの叫びに応じ、控えていた近衛兵たちが動こうとする。だが。
「……動くな」
低く地を這うような声。イングス王子が立ち上がっていた。どんぶりは既に空で一滴のスープも残っていない。
「料理人を侮辱することは王家への反逆とみなす」
「で、殿下!?」
「美味かった……実に美味かった。全身に力がみなぎる」
王子は恍惚とした表情で私に向き直ると手を取り、跪いた。
「バーベルア嬢。いや、真の聖女よ 。王宮へ招待したい。いや、来てくれ。君の料理なしでは生きていけない」
公爵家の庭が静まり返った。ララルーカは口をパクパクと開閉させ、父は顔面蒼白になっている。彼らは気づいたのだ。王家に召し抱えられれば、今まで私にしてきた冷遇の数々が露見することを。ははーん。
「お、お待ちください殿下!」
父が慌てて割って入る。
「バーベルアは我が家の娘です! 王宮へやるなど……それに、料理法は公爵家の秘伝! そう、秘伝なのです! まずは味見をせねば」
卑しい。今まで餌呼ばわりしていたくせに、王子の評価が決まった途端にこれだ。父の手が鍋に残ったスープへ伸びようとするその手を、持っていたおたまでペチッと叩き落とした。
「痛っ!?」
「あら、失礼。ハエがたかったのかと」
「き、貴様……!親に向かって!」
「親? 勘違いなさらないでください」
冷めきった瞳で父を見据えた。
「先ほど、あなた方から勘当を言い渡されたはずです。儀式が終わったら出て行けと。ですからもう公爵家の人間ではありません。このスープも私有物です」
「なっ……」
父が言葉に詰まる。鍋に残ったスープを無造作に地面にぶちまけた。
「あっ!!」
父とララルーカが同時に悲鳴を上げる。地面に染み込む黄金色のスープ。立ち昇る湯気と共に芳醇な香りが拡散する。
「もったいない!」
父が思わず膝をつき、地面の土を掬おうとしてハッと我に返った。公爵としてのプライドと強烈な食欲の板挟みになり、顔を赤くして震えている。
ざまぁみろと心の中で呟く。空腹という本能はどんな理性よりも残酷だ。一度この香りを知ってしまった彼らはあの味気ない宮廷料理には戻れない。一生、作った幻の味を求めて飢え続けることになる。
「行きましょうか殿下」
エプロンを脱ぎ捨て王子に向かって微笑んだ。
「王宮の厨房はここよりも使い勝手が良いといいのですが」
「ああ、約束しよう。国一番の設備と世界中の食材を用意する」
王子はエスコートし、馬車へと導く。背後でララルーカが「待って! 聖女は私よ! 私なのよぉぉ!」と喚いているが誰も見向きもしない。彼女が誇る光の魔法も空腹を満たし、心を満たすグルメの前では無力。
連れてこられた王宮での生活は快適そのもの。宮廷料理聖女という前代未聞の役職を与えられた。仕事は一つ。王族と国賓の胃袋を掴むこと。
今日のメニューは隣国との和平交渉の席で出すメインディッシュ。隣国の王は雷帝と恐れられる武闘派で、気難しく粗食を好むと聞いている「軟弱な美食など不要。肉は焼けばいい、野菜は生でいい」というのが彼の主張らしい。
「朴念仁こそ陥落させがいがあるというもの」
用意したのは前世の洋食屋の定番。肉汁溢れる、黒毛和牛のそっくりさんの煮込みハンバーグ。厨房には屈強な近衛兵たちが警備という名目で張り付いている。
「い、いい匂いだ……」
「今日の当番でよかった……」
換気扇から漏れる匂いを嗅ぐだけで士気を高めているらしい。
調理開始。粗挽きにした魔獣肉と飴色になるまで炒めた玉ねぎを混ぜ合わせる。つなぎにはパン粉ではなく、モチモチした食感を生むスライムの乾燥粉末を使用。これにより、肉汁を一切逃さない強固な壁ができる。
表面を強火で焼き固めるとメイラード反応による香ばしさが爆ぜる。
「ジュウゥゥゥ……!」
この音だけでご飯三杯はいける。そこへ赤ワインと香味野菜、隠し味に味噌を加えたデミグラスソースを投入し、じっくりと煮込む。
ソースが煮詰まり、艶やかな黒褐色に変わっていく。
会食の時間だ。大広間には緊張した空気が漂っていた。イングス王子と隣国の雷帝王が対峙している。雷帝王は不機嫌そうだ。
「イングス殿、我が国は貴国の軟弱な文化に興味はない。さっさと用件を済ませよう」
「まあ、そう焦らずに。まずは食事を」
「ふん、どうせ飾り立てただけで味のしない皿が出てくるのだろう」
ワゴンを押して入場すると銀のクロッシュの覆いが被せられた皿が雷帝王の前に置かれる。
「どうぞお開けください」
雷帝王が面倒くさそうにクロッシュを持ち上げる瞬間、閉じ込められていた熱気と共に濃厚なソースと肉の香りが爆発した。
「……!?」
雷帝王の眉がピクリと動く。




