君ハ僕ノ番イ
完全に、油断していた。
抑制剤の副作用で思考が鈍っていたとはいえ、鍵をかけ忘れるなんて。なんて愚かな事をしたのだろう。自分に対しても、突然に入ってきたこの男に対しても、怒りが湧いた。
狼条ヨル──。飛び級できるほど優秀な、侯爵が長年探していた息子。侯爵が彼を見つめる目は、始終優しかった。
私は、父親からあんな風に見られたことなんかない。目の端が、痙攣する。
「あ、ご、ごめん!わざとじゃ……」
何がわざとじゃない、だ。
完全に知られた。“女”である事を。
舌打ちをしたくなった。シャツを止める手が震える。息を吐いて冷静であるように言い聞かせる。
落ち着け。私なら出来る。吸血して忘れさせればいい。薬で鈍った本能を、呼び覚まそうと集中する。
ヨルは完全に固まっていた。目元を緩め近づき、着物の襟を掴んで引き寄せる。体を見てはいけない、とでも思ったのだろうか。瞬間、彼は顔を真っ赤にして目をつぶった。普段のふわふわした狼の耳が、逆立っている。
それを少しだけ、かわいいと思った。
私とは違う、白い肌。でも兄ほどは病的に青白くなく。
健康的な色をしていて。美味しそうだった。
吐息混じりに首元に唇を寄せて、思い切り噛む。
「がッ!はぁ……!」
抵抗しようとする体を、強く抱きしめる。歯を突き立て滲み出た血に舌をはわせ吸う。逃さないと、必死だった。
たけれども──。同時にうっとりとした。
なんて、おいしい血なんだろう。
昔お母さんが作ってくれた、甘酸っぱい柘榴ザクロのジュースを思い出す。
のちに、吸血鬼は決して柘榴を口にしないと知った。
昔、吸血鬼の先祖は、空腹に耐えかねて柘榴を食べた。すると、太陽の下を歩けるようになり、血以外も食せるようになった。彼らはこぞって柘榴を食べた。
高貴なる永遠の命を、失うことも知らずに。吸血鬼にとって、柘榴は、堕落の食べ物だ。
「……うぅ」
うめき声を上げながら、床に崩れ落ちたところで、口を離す。感覚を研ぎ澄ませる一方で、もう少し吸っていたかったな、とぼんやり思ってしまっていた。
青い目を覗き込む。この世の穢れを知らない、ひどく澄んだ瞳。
一字一句言葉を切って、言い聞かせる。
『今見たことを。僕が女だということを、忘れろ』
こんな甘ちゃんに。こんな幸せそうなやつに。
今の生活を、計画を。壊されてなるものか。
『ここからすぐに立ち去れッ!』
「……うっ」
ヨルは目を硬くつぶり、頭を抱えた。その様子に薄く笑う。彼は瞬間、大きく目を見開いて私を見た。
生気に満ちた、金色の瞳。
「……は、はなれ……て」
その目元を歪ませ、そう訴えてきた。術にかかったはずなのに。
寒気がした。噛んだのに。吸ったのに。
なぜ。なんで。
「なっ、なんで効かない!?あっ!」
肩を強く掴まれ、押し倒された。鋭い爪が肌に食い込む。
衝撃と痛みで閉じた目を開けば、優しくはにかむ彼はいなかった。
そこにいたのは、”狼”だった
唸り声を上げ、剥き出された牙が鋭い。
呆気に取られながらも、なぜ効かないのかを考えていた。フーレイを吸血した際、先生に言われたことを思い出す。
──君はその力を万能だと思っているが、過信しちゃいけない。あくまで私の調査した結果だが。特定の相手には効果が薄いらしい。
──特定の相手?
──そう。君と同じ境遇の者には、効きにくい。
獣人と、人の間に生まれた子。
なんだ、こいつもそうなのか。
混血、忌子、穢れた子。
「お前も、マガイモノか?」
思わず笑ってしまった。悔しくて、視界が滲む。
すると瞬間、目元を舐められて肩が跳ねる。
「おい!何して……ん!」
顔を背けようとして、顔に手を添えられた。指先が熱い。耳を伏せ、切なそうな顔で見つめられる。
外で雨が降る音が聞こえる。月が隠されたのか、部屋が暗くなる。彼の瞳だけが、その光を集めたように輝いていた。
それがとても、きれいだった。
瞬間、口の端の血を拭うように、口付けされた。
「んんッ!」
羞恥と怒りで、体が熱くなる。初めての、口付けだったのに。
爪を尖らせ首を掻き切ってやろうと、振り上げたところで手首を取られ、のしかかられた。身動きが取れない。
「は、なせこのっ!」
「……くぅーん」
「……あ?ちょっとっ」
牙を剥き出しにして威嚇すれば、鳴かれ鼻先をつりつけられた。半獣化していないのに関わらず、彼の行動は昔飼っていた犬にそっくりで。
あの子も落ち込んでると、駆け寄って鼻を合わせてきたな──。薄く思い出していると、頬をぺろりと舐められた。
「……い、いい加減にッ、いっ!」
声を上げたところで、肩を噛まれた。大きな尻尾が左右に揺れている。戯れている。本人的には甘噛みなのだろう。血は滲んでいないが、とても痛い。食べられているようだ。
なんで。なんで私ばっかりこんな目にあうんだろう。
ダンピールだからか。半端者だからか。
口の中の肉を噛んで耐えても、涙が溢れてきた。
”男”として全てを成し遂げるまでは、泣かないって決めていたのに。
惨めだ。全部、全部お前のせいだ。狼条ヨル。
私と同じなのに。私にないもの持ってるのに。私から、さらに奪う気か。
「やめて……もう、やめて、よ」
怒っているのに、弱々しくしか声が出せなかった。そんな事を言ったって。やめるはずないのに。馬鹿みたいだ。
アイツらだって。せせら笑うだけで、やめてくれなかったじゃないか。
すると、弾かれたように彼は顔を上げた。
「……イ、リヤ?」
驚いた顔をしている。名前呼ばれて、心臓がどくんと跳ねた。紙に青いインクが染み込んでいくように、瞳の色が変わった。力が緩まる。
「あ……あぁ。僕、君になんてことッ!ごめん、ごめんイリヤ!」
強く抱きしめられた。振り解けばいいのに、全身の力が抜けてそれができなかった。
やめてくれた。
私の言う事を、聞いてくれた。
安堵で息が漏れる。
あったかい。眠い。ねむい──。
「……イリヤ?イリヤッ!」
「おい!お前ら何してる!」
「せ、先生‼︎イリヤが……!」
「……気絶か?いや、君の方こそ大丈夫か?吸血されたのか!?」
目の前が、真っ暗になる。
遠くでそんなやり取りを聞いていた。




