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ブラッドムーン

 梅雨の最中、月の出ない夜が続き、久しぶりに晴れたその日。朝から調子が悪かった。

 起き上がったら鼻の上がむずむずして、のぼせたみたいに体が熱い。風邪を引いたわけではなさそうだから、普通に授業へ行ったけれど。その間も手足がそわそわして、いまいち集中できなかった。

 その日は何人かの生徒がぼうっとしていて。

 いつもキリッとした顔で授業を受けているイリヤも、なんだか少し眠そうだった。

 僕は眠いというよりかは、感覚がどんどんと研ぎ澄まされるようで。風呂を終えた後に頭を傾げていると、ワタルに会った。

 

「そんな困った顔してなにかあった?」

「あ、いや別に。大したことではないから」

 

 耳を立てて答えれば、逆に顔を傾げられた。

 

「そう?そういえばヨル。今日、大丈夫なの?」

「大丈夫って何が?⋯⋯あ」

 

 不思議な顔をすれば、彼は窓の外を指差した。夕暮れの空に淡く輝く月。不調の原因がはっきり分かった。

 

「そうだ、今日満月だ」

「忘れてたの?逆にすごいな」

 

 独り言のように呟けば、目を丸くされた。獣人は特に満月に性サガが起こりやすい。狼族であればなおのことだから、その日を把握していないなんて、と思われたのだろう。

 僕には半分人族の血が入っている事もあって、遠吠えのような本能的行動をしたくなる時は、多くなく。気づいたら満月だった、ということがしばしばあった。

 

「いつもこんなんじゃないんだ。先月だってなにもなかったから」

「薬は?」

「そうだ、持ってないや。もらってくる!」


 イリヤに事前に抑制剤をもらうよう、言われていたけれど。忙しくてすっかり取りに行くのを、忘れていた。

 振り返って駆け出したところで、向かい側からやってきたフーレイに、ぶつかりそうになった。


「うぉ!あぶねーぞ!」

「ごめん!」


 謝りながら廊下を駆ける。足が自然と獣化していたから、靴が窮屈だ。


「……んだよ、あいつ」

「んー?むらむらし始めたから、薬もらってくるって」

「なーんか獣人ぽくねーんだよな。抜けてるっていうか。俺も今日は流石に飲んだぞ」

「そこがヨルのいいとこじゃない?まぁ僕も今日は飲んだかな」

「だろ?なんたって今日の月は……」


【ブラッドムーン】


 ⬜︎ ⬜︎ ⬜︎


「赤い月の日じゃないか!だからだ……!」

 日の落ちかかった空を見上げて、思わず叫んでしまった。今までもこういう満月の時はサガが出やすかった。


 まずい、すごく遠吠えしたくなってきた──。


 意識したからか、余計にむずむずする。実家にいた時も、母に悟られないようにするのに、必死だったっけ。

 診療所の立て付けの悪い扉を開けると、そこは薄暗い廊下が続いていて。禍々しい雰囲気に恐る恐る廊下を進めば、床に血痕があって毛が逆立ってしまった。そこでワタルの言葉を思い出す。

 

“イリヤがフーレイを吸血して、自分自身の腕を噛んで正気に戻れって命令したんだ。もう、あの時は2人とも血だらけで大変だったけど”


 きっとその時の血が、これだろう。

 眉をひそめる。

 あの時イリヤはフーレイに馬乗りになられて、襲われたと言っていた。彼は一切怪我はしなかったらしいけれど。

 その時の2人の姿を想像したら、何だかとても、いらいらした。


「失礼します……。先生?」


 診察室と書かれた部屋の扉を開ければ、そこに人影はなく。どうやら先生はいないようだ。

 戸棚に並べられた薬剤を見ても、どれが狼族に効く抑制剤なのか、皆目分からない。

 まいったな──。思わず頭を抱える。こういう時は大抵耳も尻尾も力なく項垂れるのに、今日は逆だった。

 耳が前を向きひくひくと動き、尻尾は硬くなってしなっている。やたら、鼻がひくつく。


 するとふいに。微かに香りがした。


 甘クテ イイ香リ──。


 気づけば廊下に出て、その香りの元をたどっていた。


 ⬜︎ ⬜︎ ⬜︎


 何の香りだろう。微かな甘い香りが、頭に靄をかける。

 ふらふらと廊下を歩きたどり着いた部屋がどんな部屋かも分からずに、引き戸に手をかけてしまった。鍵は、かかっていなかった。

 扉を開けた瞬間、湿った空気が顔に吹きつける。次に目に飛び込んできた光景に、息を飲む。

 

 褐色に輝く、たおやかな背中。

 そこに、イリヤがいた。

 

 彼は下履きしか履いておらず、手拭いで濡れた赤い髪を拭いていた。水滴が滑らかな肩から肌をつたい落ちる。ほんのり赤み帯びた背に浮かぶ、白い傷跡。

 

 ──あぁ、これは林檎の、花の香りだ。

 

 目を細めて思い出した瞬間。

 頭の耳から尻尾から、全身の毛が逆立つ。

 ある重要な事に、僕は気づいてしまった。

 

 イリヤは〝彼〟ではなく、〝彼女〟だった。

 

 瞬間イリヤが振り返った。彼女は緋色の目を見開いていた。瞳孔小さくなっている。

 

「あ、ご、ごめん!わざとじゃ……」

 

 思わず顔を手で覆う。よりはっきりと“女性“だと知れて、恥ずかしさが込み上げる。慌てふためく僕とは反対に、彼女は落ち着いて。無言でシャツを羽織りボタンを留めながら、こちらに近寄ってきた。

 あまりのことで動けずにいると、着物の襟を強引に掴まれた。下を向かされたところで、谷間が見えてしまい、目をきつくつぶる。


 すると、イリヤは僕の首元に唇を寄せてきた。

 

 くすぐるような吐息に、眩暈がして。

 湿った舌と柔らかい唇の感触が肌に伝って。

 肩をすくめようとしたところで、

 思い切り、首を噛まれた。


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