愛ノ言霊
「本当に、君は無茶をしすぎだ……!」
「……ごめんなさい」
風呂に入り寝衣にガウンを着たヨルは、さらに私に毛布を被せられて、小さく縮こまっていた。
【愛ノ言霊】
狼の姿のまま、ヨルを屋敷に招き入れた。何事かと駆けつけた執事と使用人は、完全に固まっていた。
「その……、同級生の、狼条ヨルだ」
「ワホン!」
「ヨル、吠えなくていい」
「オン?」
その言葉に彼らは顔を見合わせると頷き、「すぐお湯を用意いたしますので!」「まずはこちらへ!」と、ヨルをテキパキと世話し始める。義母の手前、影からではあったけれども。昔から、彼らは私の見方をしてくれていた。
「狼条様、紅茶でございます」
「ありがとうございます」
「……色々とすまなかった、加藤」
「いえ、イリヤ様のご友人とあれば、当然の事をしたまで。夕食はもうじき用意できますので。またお声がけさせて頂きます」
「あぁ、頼む」
「かしこまりました。それでは、失礼致します」
彼は一礼すると、部屋を後にした。
紅茶に口をつけたところで、ヨルを半目で見つめる。
「色々聞きたい事はあるが……まず荷物と、着ていた服はどうした」
「うん?えっと、荷物は駅長さんに預けてきて。服は……途中で、脱ぎ捨ててきちゃって……」
ヨルはカップを持ったまま視線を泳がせ、毛布に包まり、声を小さくした。
ちょっとかわいい──、じゃない。思わず眉間を揉む。
「私がバルコニーに出てなかったら、どうするつもりだったんだ」
「あんまり、その事考えずに飛び出してきちゃったんだ。着いたら考えようと思って」
「まったく、無謀すぎるにも程がある」
ため息をつけば、彼は「イリヤに怒られるの久しぶりだ」と尻尾を振って、無邪気に笑った。その顔に呆れながらも、口元が緩む。
「……でも、半獣にだけじゃなくて、完全に狼の姿になれるなんてな。驚いたよ」
「あの姿になれたのは、これで2回目なんだ。前にできたのも、雪が降る満月の日で。遠くの病院へ母さんの薬を取りに行きたいと思ったら、いつの間にかできてた」
「そうか。……ん?その時は、病院に着いた後、どうしたんだ?」
「あー……。うん」
「いい。やっぱり言わなくていい」
顔を真っ赤にさせたから、それ以上は聞かなかった。
机の上の紅茶を見つめたまま、本当に聞きたかった事を尋ねる。
「なんで。……僕に会いに来たんだ。こんな雪の最中」
するとヨルは毛布を取って、椅子から立ち上がった。そして私の前に膝をつくと、両手で包むように片手を取る。
「なんでって。イリヤに会いたかったから」
愛おしげな眼差しで、優しく微笑まれると、胸がつかえた。
「それだけの理由でか」
「それが1番の理由だよ。それと、学園長に君が退学届を出したって聞いて。居ても立っても、居られなくなったんだ。イリヤ、退学なんて絶対しちゃいけないよ」
手を強く握られ、目を伏せる。
「……学園長からも、これは預かっておく、って言われたよ」
「じゃぁ……」
「でも、僕は……あの場所にいていい存在じゃない」
足元から黒々とた水が迫り上がってきて、溺れそうだ。自分で言った言葉が、冷たく胸に突き刺さる。
「だめ……なんだ」
「イリヤ……。前から聞こうと、思っていたんだ」
「……え?」
「背中のその傷は、誰に付けられたの?」
「傷⋯⋯」
思わず手を離して、自分の体を抱きしめる。寝中に指が白蛇のように這う感覚がして顔が歪む。
また、やつの声が聞こえてきてしまう──。強く目をつぶろうとしたところで、ヨルに抱きしめられた。
「大丈夫、大丈夫だよ。僕がここにいる」
優しく甘いその声と、力強い腕の温かさに、息がもれる。彼は大きな手で、背を撫でてくれた。不快感が、払われていく。
「前に、僕が君を理解したいって言ったよね。イリヤの言う、汚い、醜い君だって。僕は全部。君の事なら全部知りたいんだ」
「……ヨル」
やっぱり、彼はあの時の事を覚えていた。腕の力を緩められると、満天の夜空のような目で見つめられた。
「だから。何があったのか、話してほしい。……ゆっくりで、少しずつでいいから」
「……聞いたら君はきっと、僕を軽蔑するよ」
諦めたように息が漏れて。時々声を震わせながらも、自分の罪について話をした。ヨルは時々悲痛な顔をし、私の背をさすりながら、静かに話を聞いていた。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
「……父は、病死だったけれど。兄と義母を間接的に殺めたのは、僕だ。これで分かっただろう。私は……本当に、汚いんだ」
涙で視界が滲む。それを指で拭われたかと思うと、頬に手を添えられた。顔を覗き込む彼の目は、濡れていた。
「少しも汚くなんかない。君はとても、綺麗だ」
出会った頃にかけられた言葉。呆れたように返したけれど。嬉しくて、恥ずかしくて、どうしていいか、分からなかった。
「僕はなんだって君にあげるって言ったけれど。イリヤも僕に与えて欲しいものがあるんだ。君の罪を、僕にも背負わせてほしい」
「なんで君がそんな……」
「君がもし彼らを裁いていなかったとしたら」
顔を横に振れば、真剣な眼差しを向けられた。
暗く冷たい表情を浮かべた彼の瞳には、金色の光が淡く宿っている。
「僕は迷わず、やつらの首元を噛み切っていたよ。だから僕も。君と同罪だ」
「ヨル……」
ひどく物騒な言葉だったけれど、ずっとかかっていた心の枷が、外れるようだった。
彼は瞳をそっと閉じ、額をつけた。鼻先が触れる距離で、祈りを捧げるように告げられる。
「それに、君は僕の番いで。僕は君の眷属だから」
「けんぞく?」
「そう。君に血を吸われた時からずっと。僕は君の虜だよ」
目を開け、くすりと笑われれば、顔が熱くなる。
「君は自分を、許せないのかもしれない。でも僕は、君の全部を愛してる。笑う君も、怒る君も、泣く君も。全部全部。僕はイリヤが大好きだから」
圧倒的な温かさと、光に触れた気がした。今自分が泣いているのか、笑っているのか、分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしてる。
私はヨルが好きだ。
心の底から。彼が大好きなんだ。
「……エリナ」
「え?」
「本当の、私の名前。エリナって、言うの」
唇の端が震える。自分自身が、帰ってきた気がした。
「えりな、エリナ。かわいい名前だね」
肩に手を置き、嬉しそうに名前を呼ぶ彼が、愛おしかった。
「ヨル」
「……うん?」
意を決して、彼の名前を呼ぶ。
「私もヨルが……好き」
「……エリナ」
「本当に、本当に……、大好き、なの。ずっと、ヨルの事、愛してたのに。私、わたしッ!」
目の端に唇を落とされ、涙を吸い上げられた。
静かに見つめ合えば、言葉以上の感情が伝わって、そっと目を閉じる。唇に柔らかく触れる、確かな力。それは優しく、穏やかで。互いの心臓の音が、重なり合う。
──愛してる、エリナ。
耳元で囁かれた言葉は、愛の言霊となって、呪いを解いていった。再び強く抱きしめられると、幸せで。
どこへでも、行けるような気がした。
「帰ろう、エリナ。僕たちの、学園に。みんなの寮に。一緒に、帰ろう」
明るくも震えた声に、何度も。何度も頷いた。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
イリヤが泣き止んで落ち着いた後に、2人で夕食をとった。急な訪問にもかかわらず、用意された食事は豪勢で。獣化してお腹が空いていたのもあって、もりもり食べていると「もっとゆっくり、食べろ」と怒られた。
「それじゃぁ、エリナ。おやすみ」
「……あぁ。おやすみ」
イリヤの寝室の前で、彼女の手を握り、挨拶をする。本当の名前を呼ぶのは、2人きりの時だけにしてほしい、と言われていた。
外がだめなら、心の中でエリナ、エリナと連呼したい気持ちがあったけれど。そうすると口に出てしまいそうだから、心情でも我慢することにした。
彼女は首元まで襟のある白い夜着に、ワイン色のガウンを着ている。腰元で結んだ紐が、嫋やかな曲線を生じさせていた。
さっきまでは彼女を慰めることに必死で、あまり意識をしていなかったけど。改めてその姿が目に眩しすぎて。今更ながら内心どぎまぎしていた。以前も女の子の姿になった時はあったけれど。あの時は男装している彼女が、女装していたので。今は男装していない彼女が、女性のままでいるから。つまり、その。いろいろ察してほしい。
名残惜しくも手を離し、客室用の寝室へ向かおうとした。そこでガウンの端を掴まれる。
「どうかした?」
「あ、その……」
振り向けば、ガウンを握ったまま彼女は俯いていた。
「……さ、寒いんだ」
「え?あ、どうしよう。執事さんに毛布持ってきてもらう?」
雪のさなか、僕を迎えに薄着で出てきた彼女の姿が浮かんだ。風邪を引いてしまったのかもしれない。血相を欠くと、イリヤは首を横に振った。
「……ヨルがいい」
「え」
そしておずおずと僕を見上げた顔は、ほんのり赤かった。
「私、ヨルに、ぎゅっとされたい。……あ」
その言葉を認識するよりも早く、彼女を抱きしめていた。彼女の体は少し冷たくて、いつかよりもずっと、柔らかい。鼻腔をいい香りにくすぐられながら、息がもれた。
「……いいよ、もちろん」
もちろん、いいんだけれど。よくない──。微笑みながらも、心の中ではいろんなところで火事が起きて、消火するのに必死だった。
イリヤに手を引かれ部屋に入った後も、心に言い聞かせる。落ち着け、ステイだ、ヨル。こら、尻尾を振るんじゃない。尻尾?あ、そっか。
「え、な、なにしてる!」
ガウンを床に脱ぎ捨て、夜着のボタンを1つ開けたところで、止められた。
「ん?え、そうじゃないの?」
「そ、そうじゃないの、って、もう少し情緒ってものが!」
「……でも、少し脱がないと」
ボタンに手を掛けたまま、目を伏せる。ちょっと言葉にすると、恥ずかしい。イリヤは耳まで真っ赤にして、なんだか慌てている。
「そうしないと、半獣化できないし」
「……へ」
「うん。エリナ、狼の僕を触りたいんだよね?前みたいに」
顔を傾けて、笑いかける。以前彼女が落ち込んでいた時に、半獣化して撫でさせた時のことを思い出したからだ。きっと、また尻尾や耳を触りたくなったんだろう。うん、そうに違いない。きっともふもふの僕に。ぬいぐるみ的な。きっとそうだ。
するとイリヤは目を細めて、口を横に結んだ。これは彼女が照れを我慢している時の表情。さらに今回は口がもごもご動いている。
どうしよう、かわいい。そんなことを目を細めて考えていると、すねたように言われた。
「私は、今のままのヨルに、ぎゅっとしてほしいの。のっわ!……ん」
僕の番いが、僕のエリナがかわいい──。やはり言葉よりも行動が先で。彼女を横抱きすると、柔らかな唇にキスを落とした。
「分かったよ、僕のお姫様。いっぱいぎゅっとするから、いっぱい甘えて?……だから僕も、エリナにいっぱい甘えていい?……あ」
鼻先をつけて、宝石みたいな赤い瞳を見つめる。すると彼女から深く口付けされた。そのまま彼女を連れ、ベッドへと優しく降ろした。尻尾はゆっくりと揺れていた。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
翌朝、2人で朝食を食べていると、丁度舞踏会の時の話になった。
イリヤに「あの時嫉妬してるって言ったくせに、君はお嬢さんに真っ赤になってたじゃないか」と、不貞腐れられた。
「あれは……。ダンスが上手だって褒められて。大好きな友達が教えてくれたんですって答えたら、羨ましい、って言われたから……」
少し照れて両耳を動かしながら、言えば。彼女は呆れた顔していた。
「お前な。どこまで私のことが好きなんだ」
「うん。大好きだよ?」
なにを当たり前な、と顔を傾け答えれば、イリヤは顔が真っ赤になって咳払いをした。
後ろで控えていた執事さんと、メイドさん達は、皆無表情──、と思いきや、口元がもごもご動いている。
「本当……おまえな」
「なにかおかしなこと言った?だって、あの時パートナーとして踊りたかったのも、イリヤだけだったから」
「……私も、そうだったよ」
机に肘をつきながら口元を隠し、照れながらそう言われた。思わず立ち上がる。どちらも行儀が悪い。
「……エリナ!」
「名前!それと尻尾を振って立ち上がるな!そ、そういうのはな、2人きりの時にやれ!」
「うん!2人の時にいっぱいするね?」
「……やっぱり、だめだ」
「え?なんで?」
そんな会話を繰り返していると。食事を終えてすぐ、僕たちは執事さんとメイドさん達に、それぞれ別々の部屋へと引きずられた。
彼らは人族であるから力で、というよりか、勢いが凄かった。彼らは来客用のスーツをすぐさま獣人用に仕立てたかと思うと、それを僕に着せ、髪も短時間でセットした。何が行われるんだろう、と始終目を白黒させていると、今度は大広間に引っ張られ。ホールの真ん中で天井を見上げていると、イリヤが部屋に入ってきた。その姿に、完全に固まってしまった。
イリヤは純白のドレスを身に纏っていた。それはシンプルながらも優雅なシルエットで、彼女の身長をより引き立てている。赤い髪と褐色の肌は、ドレスの白さと対照的で、まるで絵の中から抜け出してきたかのようだった。
彼女が歩むたびに、ドレスの裾が床を優しく擦り、静けさの中でその音だけが響く。端正な彼女の顔は、化粧を施されたことによって、さらに麗しく。イリヤの瞳は、ドレスの白さを映し出すかのように輝いていた。
あまりにも綺麗すぎて、思わず両手で顔を隠してしまった。最早、直視できない。だけれど、物凄い勢いで尻尾を振ってしまっていた。その反応に、使用人さんたちが一様に頷きながら、いい笑顔を浮かべている。後で聞いたが、これはイリヤが16歳で成人した時に着るための、ドレスだったらしい。
深呼吸をして、彼女の太陽の加護を受けた手を握る。
「僕と、踊ってくださいますか」
彼女は息つくように、笑った。
「……よろこんで」
手を合わせ、体を寄せ、心を重ねて──。曲に合わせ踊る。心底、生きていて本当によかったと思う。幸せ過ぎて胸が痛くなる事があることを、初めて知った。
⬜︎ ⬜︎ ⬜︎
さっきも畳を箒で掃いたはずなのに、また気になって掃いてしまう。
机も埃がないはずなのに、また拭いてしまう。
とりあえず落ち着こうと、机の前に座っても、思い浮かべるのは彼女のことばかりだった。
あの時のエリナ、ものすごく可愛くて、綺麗だったな──。
その時の事を思い出して、机に突っ伏し、ため息をついていると。
不意に階段を登ってくる賑やかな声が聞こえて、肩が跳ねた。
耳がぴこぴこ動き、尻尾が大きく揺れる。扉の前で、足音が止まったかと思うと、フーレイがワタルに引きずられていく音がして、笑ってしまった。
深呼吸して、扉を勢いよく開ける。
「おかえりなさい、イリヤ」
「あぁ。ただいま、ヨル」
笑顔で出迎えれば、イリヤは満面の笑みを浮かべた。
扉を静かに閉めると、思わず彼女を強く抱きしめた。
「……おい、学園内だぞ」
抱きしめられながら、彼女が呆れた声を出した。でもその顔を覗き込めば、真っ赤だった。
「2人きりだよ?」
「その後、ダメって言っただろ」
「うん、そうだけど……」
おずおずと体を離して跪き、手を取って見つめる。
「僕……イリヤが戻るまで、君の部屋、綺麗にして待ってたんだ。授業のノートも、完璧に取ってたよ?」
耳を下げて、顔を傾ければ、彼女は口を真横に結んで、目を細めた。
──だから、エリナ。ご褒美をくれる?
甘く彼女の名前を呼び掛ければ、目を閉じて大きくため息をつかれた。扉に寄りかかるようにして、鍵を閉めた彼女に、尻尾が揺れる。
「本当に少しだけ、だからな」
くすぐったく笑われて。
優しい口付けを落とされると、彼女の甘い匂いに包まれて。
確かに、彼女がそばに居てくれているという現実に。
温かく、幸せな涙が、流れていった。