狼、雪ヲ馳セル
「イリヤが退学って、まさかそんな..……!」
聖誕祭翌日から、学園は冬休みを迎えた。
イリヤの父である侯爵が亡くなったと、父の口から聞いたのはそれから2日後のことだった。その妻であり、イリヤの継母が後追い自殺したと聞いて、言葉が出なかった。海に身を投げ、今も遺体は見つかっていないらしい。
年内に行われた葬儀には父だけが参列した。喪主であるイリヤたっての願いで、学園の学生は、参列しないでほしいと伝えられていたからだ。葬儀から帰った父は「いくらかやつれていたが、気丈に喪主を務めていた」と言っていた。
晴れぬ気分のまま正月を迎え、ため息ばかりついていると新学期が始まった。重い足取りで車から降り、寮に着けば。皆玄関ホールに集まっていた。
「あ、ヨル、大変だ!」
「ヨル!お前、寮長が退学したってよ!」
何事かと呆然としていると、僕に気づいたワタルとフーレイが駆け寄ってきた。頭が真っ白になった。
「どうして……そんな」
「葬式ん時に学園長が、イリヤから退学届を渡されたって噂になってる」
「それ学園長は認めたの!?」
「いや、まだそこまでは分からない」
聖誕祭の夜、イリヤへの想いを告げたあの日。彼女は僕を拒絶した後で、最後にかけた言葉には返事をしてくれた。そして本当に小さく告げられたあの言葉。
──さよなら。
やはり、聞き間違えじゃなかった。目元に柔らかな微笑みが浮かんだかと思うと、赤い瞳は、涙を堪えるかのように微かに震えていた。それから、すぐ険しい顔をして、彼女は行ってしまった。
最初から、退学するつもりでいたんだ──。なのに僕は、突き離された事に傷付いて。少しも、彼女を分かってやしなかった。
自分に対する悔しさが込み上げて、唇を強く噛む。
荷物を握りしめ、扉に手をかけた。
「ヨル、どこいくの!」
「イリヤのところに!」
「お前馬鹿か!第一、あいつの家わかんのかよ!?」
「えっと、分からない!」
力強く答えれば、フーレイに虎の尻尾で叩かれる。
「やっぱ馬鹿じゃねーか!」
「待って。僕イリヤと文通してた時の手紙持ってる。確か最寄りの駅からは、そこそこ歩くけど。大体の地図書けるかな……。とりあえず、ヨル、部屋に荷物置いて支度しなよ!」
「う、うん!ありがとうワタル」
「支度手伝ってやるよ、金忘れんなよ。あと、あったかくしていけよ!今日の雪、積もるみたいだぜ」
家を出る時すでにみぞれが降っていた。フーレイの、らしくない気遣いに思わず笑う。
「ありがとう。フーレイ、お母さんみたいだ」
「あぁ?やっぱアホか。……ヨル」
階段を先に登っていたフーレイが、立ち止まる。
「イリヤを絶対連れ戻して来いよ。嫌がっても首根っこ捕まえて引きずって来い」
「そうだよ、我らが寮長がいないと。この寮ははちゃめちゃだ」
すでに2階に登ったワタルからも、手すり越しに笑顔で声をかけられる。下にいた他の学生からも、同じ声が上がって、胸が熱くなった。
「みんな……。うん必ず、イリヤを学園に連れて帰るよ」
「先生には、ヨルは腹いてーから寝込んでるって伝えとくかんな!安心しろ!」
「そうだな!腹痛くちゃしょうがねーよな!」
「……みんな」
恥ずかしくて耳を伏せれば、大声で笑われた。
僕は、この学園が大好きだ。
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「鬼堂家のお屋敷だろ?うーん、確かにそこまで遠くはないんだけど。この雪じゃねぇ……」
汽車に揺られ、夕暮れ時に百葉の海沿いの駅に着いたはいいものの。その時にはすでに吹雪いていた。駅員に屋敷の場所を尋ねれば、顔を顰められた。
「えっと、僕は雪国育ちなのでこれぐらいの雪は平気です!」
「どういう問題じゃないんだよ。君いいとこの学生さんだろ?はいそうですか、って行かせて、凍死なんてなったら困るんだよ」
「でも」
「いいから今日は宿に泊まりなさい。丁度そこにあるから。今日は満月のはずだが、ご覧の天気でもう真っ暗だろ」
「……満月」
そうだ。今日は満月だ。抑制剤を飲み忘れてイリヤに吸血されて以来、満月になる朝には必ず薬を飲んでいたのに。彼女の事ばかり考えてすっかり忘れていた。
──君は、どっか抜けてるよな。
呆れた顔で言う彼女の顔が思い浮かんで、思わず笑ってしまった。
抜けてて、よかった。
「……なんだ急に笑ったりして。君、大丈夫か」
「はい、大丈夫です!この荷物預かっててもらっても、いいですか?明日取りにきますから!」
「お、おいちょっと!え、なんでコートまで!?全然大丈夫じゃないだろ!君!」
その声を聞かずに、雪降り仕切る外に出てしばらく駆ける。その度に息が白く煙る。肺に入る空気が冷たい。けれど心は高揚していた。しばらくして人気がなくなったところで、着物の襟と、袴の帯を緩める。
寒風が肌を打ち、全身が雪で白く染まる中、深呼吸をする。骨が軋む音と共に、耳が、尻尾が、体が大きく膨れ、青灰色の毛が全身を覆う。
「ワオオオオオオオン……」
喉から、遠吠えが響き渡って、狼の体を震わせる。完全に狼の姿になったのは、母の薬を取りに、雪の中を駆けて以来だった。あの日も、満月だった。
鼻を動かす。彼女の香りを求めて、風を読む。本当に微かに、林檎の花の香りがした。
──イリヤ、いりや!
その方向に向けて、心の中で彼女の名を呼ぶ。吹雪の向こうに彼女の姿を見ていた。道なき道を進み、再び咆哮する。
「ワオぅぅゥゥゥゥ……」
金色の瞳孔を開き、語りかける。
──同胞よ。我が狼の同胞よ。
──ぼくの。ボクノ 番いハ ドコニイル
「ウウウウウウ……」
「ウォオオオオオーン」
返事が、聞こえた。耳を立てその声を聞く。再び遠吠えを上げ、礼をする。
彼女がいる、その場所へ。夜の闇を割くように、ただひたすら雪を蹴り上げ駆けて行った。
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椅子に腰掛け、暖炉の薪が弾ける音を聞き、ひたすらその炎を見つめる。その下に溜まる灰。自分のようだと思う。全てやり終えた後で、生きる気力ごと、燃え尽きてしまっていた。
──ウウウウウウ。
──ウォオオオオオーン。
──ワオオオオオオオン。
不意に、狼の遠吠えが聞こえた。時々聞こえる事はあったけれど、こんなにも聞こえるのは初めてだった。雪で見えはしないが、満月だからだろうか。
──いっぱい撫でて?イリヤ。
半狼化した姿で、顔を傾けたヨルの姿が浮かんで。口の端が綻びかけたところで、唇を噛む。私のような罪深い女が、笑ってなどいけない。
それでも、頭に浮かぶのは、優しく名を呼ぶ彼の姿ばかりで。
また流れそうになる涙を冷やすために、窓を開けた。
外はあたり一面銀世界だった。手の甲に付いた雪の結晶は、心までも冷え切っているからか、溶ける事はなかった。雲で隠された満月を思い、目を閉じる。すると瞼の裏に、一筋の光が見えた。
──イリヤ。
名前を、呼ばれた。
遠くから、聞き覚えのある声に似た、遠吠えが聞こえる。
まさか、そんなまさか──。眉をひそめ、闇を凝視する。すると、雪の向こうから屋敷に向かってくる影。
青灰色の毛並みをした、狼だ。
「ヨル……?」
目を見開き、窓枠に両手を置くと身を乗り出す。
「ヨルッ!」
大声で、彼の名前を呼ぶ。
立ち止まった彼は、こちらに向けて大きな遠吠えを上げた。
「ワオオオオオオオオゥ」
涙で視界が歪む。彼は確かに、私を呼んでいた。
コートを羽織り、外に出る。階段の手すりを掴む手が、押し寄せる喜びと恐れで震える。正面の扉を開け、雪降り積もる外へ出ると、冷たい風が髪を揺さぶった。
「オオン!」
「ヨル、なの?」
彼は私を見つめると、一直線に駆けてきた。その体を、手を広げて抱き止める。ヨルの毛並みは濡れて、冷え切っていた。それでも、ふわふわした尻尾は嬉しそうに揺れている。
「なんて無茶な事を……。まったく。君といると、調子が狂う」
「……くぅーん」
笑って言えば、鳴かれ冷たい鼻先をつけらる。
そしていつかのように、頬につたった涙を、舐められた。