下降実験 ――16の魂、悪魔の器に変わるまで
奈落へ落ちるまで沈み続けるエレベーター。
少年が入ったのは、小部屋ほどの広さのあるエレベーターだった。
中には家具まである。小さなベッドと電気スタンド。
オレンジがかったカーペットが敷き詰められ、
天井にはシャンデリアがついている。
「すげえ、お前も来いよ」
「すごいね」少女も目を輝かせて言った。 「
誰もいないのかな?」少年はきょろきょろと周囲を見回し、奥へと進む。
「やめようよ……」少女は不安げに後を追った。
扉が閉まったのは、ちょうど二人が電気スタンドのスイッチを探していたときだった。
「うそ、俺、何も押してないって!」
「どうしよう……」 少年は扉に駆け寄り、
「開」ボタンを何度も連打した。
「ぶっ壊れてんじゃねえの?」
「怒られるかな……」
「知らねえよ」
◆
真理子はスーパーで買い物を済ませたところだった。
地下の駐車場へ向かうため、エレベーターに乗る。
二基あるうち、早く来た方へ乗り込むと、中にはすでに細身の男がひとりいた。
(今日は空いてるわ。よかった)
真理子は買い物籠を持ったまま、B2のボタンを押し、
表示ランプを眺めながら夕飯のメニューを思い浮かべていた。
(ごぼうを買ったからきんぴらでいいか。
この間作ったのいつだったかしら……
正登は嫌がるかもしれないけど、ちょっと無理にでも食べさせなきゃ。
魚はどうしようかな……)
ふと、表示がまったく変わっていないことに気づく。
しかし、エレベーターは確かに“動いている”感覚があった。
(……表示の故障? 早く開かないかしら)
扉は開かなかった。買い物籠がだんだんと腕に重たく感じられてきても、
依然として動きはない。
彼女は後ろの男を振り返った。
男はまるで時間が止まっているかのように、入ってきた時と同じ姿勢で立っている。
◆
エレベーターは沈み続ける。
「空気が……濃くなってきたな」
「全員で、何人だった?」
「16人。我々が把握している範囲で、だ」
「……苦しむだろうか」
「知るか」
若い判事の顔に、陰りが差す。
管理者仁が、それを見て言った。
「元に戻るだけだ。魂の形が、本来の姿へ戻る。
それだけのこと。子供は苦しまないはずだ」
「管理者は、何人いる?」
「さあ…俺だけかもな」
「強力な神の波動を感じます。ここも見つかるかも」
「いずれにせよ、俺達は役目は果たすだけだ」
そう言って、年配の男は手を挙げた。
◆
「ねえ、あそこ……何かいる」
白い塊が、エレベーターの隅でうずくまっている。
「羽……生えてる」 少女は壁際に寄り、心細げに塊を見つめた。
「いつの間に、乗ってきたの……?」 涙がこぼれる。
「おなかすいたよ」
「さっきアメ渡したとき、食べなかったくせに」
「こんなところで、食べられないよ……ママ、呼んできて」
「俺のスマホ、圏外だよ」
「もう、だめ……」
少女は床に座り込んだ。
少年はどうしていいかわからず、頭をかいて白い塊を眺めた。
ふさふさとした短毛に覆われ、小さな羽、銀色がかったグレーの瞳。
どこか人間的な気配すらある。
少年はおそるおそる近づいて、手を伸ばした。
やわらかい。指がしずみこんでいく。
奇妙な感触――肌ではなく、“何かの芯”に触れているようだった。
少女も泣き止み、興味深げに近寄ってきた。
少年はポケットを探り、少し溶けかけたアメを取り出す。
「……食う?」
少女にアメを差し出し、二人で白い塊に近寄った。
「柔らかい……」
「だろ? おとなしいんだ、こいつ」
少女は隣に腰を下ろした。
「……ここで、眠っていい?」
塊は何も答えなかった。
目覚めると、天井に白い塊が四つ、ふわりと浮かんでいた。
「数、増えてる……」
「……うん」
◆
ぼとぼとと、蛙が降ってきた。
年配の男が目配せすると、青年の周囲に結界のような空間が閉じた。
蛙たちは唐突に現れ、霧のように消えた。
「……もう、近いな」
◆
真理子は買い物籠を床に置いた。
腕が疲れたからではなく、何か“先”に備えるような直感だった。
(そもそも、あの男が乗っていなければ……)
苛立ちが彼女の中に膨らむ。
「故障でしょうか?」
男は応えない。 不安が怒りに変わる。
「非常ベルを鳴らしますよ」
ボタンを押す。返答はない。
「……開きませんよ」
男が初めて口を開いた。
「なんでよ?」
「……」
「私、帰らなきゃいけないの。子どもが待ってるの。
あなたは出なくていいって、どういうこと?」
「私には、降りる必要がない」
真理子は背伸びして通気口に手をかけたが、びくともしない。
「手伝ってもらってもいいです?」
男は静かに首を振った。
「私、生もの買ったのよ。今日一日がめちゃくちゃになるの。聞こえてる?」
返事はない。
真理子は扉を叩き、非常ボタンを連打する。
「誰か、誰かいないの!? 閉じ込められてるのよ!」
反応はなかった。 彼女はしゃがみこむ。
男は変わらず、静かに彼女を見つめていた。
(もしトイレに行きたくなったらどうしよう……)
それが、彼女の最後の“人間的な”思考だった。
◆
透明のエレベーターを、二人のスーツ姿の男が下っている。
向かい側の箱がすれ違う。
「あと二人」
「どこまで変質するか、だな」
◆
腕ほども太いナメクジが、真理子のエレベーターの壁を這う。
真理子は買い物籠に反射的に手を伸ばす。
「やめろ!!」
男の声が轟く。 ナメクジが跳ね上がり、籠に群がる。
きちきちと音を立て、籠が溶けていく。
男は懐からナイフを抜いた。
無言のまま、一匹ずつ、ナメクジを切り裂いていく。
最後の一匹を刃の先で叩き落とすと、ナメクジは奇妙な甲高い音を立てて蒸発した。
濃密で甘ったるい匂いが残る。腐った花のような。
手のひらで汗を拭い、男は静かに身を起こした。
そのときだった。
「ありがとう」
女の声――だが、声色が違う。 低く、粘つくような、湿った響き。
男が振り返ると、そこに立っていたのは、もはや“真理子”ではなかった。
皮膚は半透明に透け、内側に無数の細い管のようなものが蠢いていた。
目は左右で大きさが違い、片方は縦長に収縮し、黒く濁っていた。
腕の関節が逆向きに折れ曲がっている。
けれど、彼女は穏やかな微笑を浮かべていた。
「もう、大丈夫……」
「……それは、お前の言葉か?」
女はかぶりを振る。
「わたしは……わたしのままだよ。ただ、なにかが剥がれただけ」
足元に、ナメクジの溶け残りが痙攣している。
それを踏みつけると、彼女の肌の管が一斉に脈打った。 内側から光が走る。
「ありがとう……あなたのおかげで、降りられる」
「最後に何か伝えることはあるか?」
男の背後の空気がわずかに波打った。あれが来る。
「私の罪とは何だったのかーー子供には探さないようにと」
「問題ない。君の子供は別のエレベーターに乗っている」
女の表情がゆがんだ瞬間に、背後にぬるりと魚が現れ、
魂を赤い箱に収納する。 男の頬に一滴、何かが飛び散った。
ぬるく、生温かい。
「濁った魂が必要なのだ……子供には、好き嫌いをなくすよう伝えよう」
管理者は帽子の位置を直した。
残されたのは、ぬらぬらと光るナメクジの体液と、
小さな白い羽が一枚、床に落ちているだけだった。
◆
魂の形が変わるとき、人は自分が“自分”だったことさえ忘れる。
これは悪魔の領分。
ただ観察され、記録され、静かに終わっていく16の実験体たち。
彼らはまだ、自分が“奈落に落ちた”ことさえ知らない――。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この実験が成功だったのか、失敗だったのか。
判断するのは、記録者ではなく、読んでくださったあなたかもしれません。
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