水葬の残響
そのアパートに決めたのは、ありふれた理由からだった。都心へのアクセスもそこそこ良く、なにより家賃が破格だったのだ。不動産屋の男が、どこか歯切れの悪い説明をしていたことなど、その時の私、蒼井雫にとっては些細な問題でしかなかった。築四十年の木造二階建てアパート「月白荘」。その二階の角部屋、二〇二号室が、私の新しい城になるはずだった。
「日当たりは、まあ、こんなものですね。でも、静かですよ。隣はもう何年も空室ですし、下の階の住人の方も、ほとんど物音を立てませんから」
内見の時、男はそう言った。窓の外には隣のアパートの壁が迫り、昼間だというのに部屋の中は薄暗い。じっとりとした湿気が肌にまとわりつき、古びた畳とカビの匂いが混じり合って鼻をついた。特に、北側の浴室はひどかった。タイル貼りの床と壁は、目地の至る所が黒ずみ、窓もないため空気が澱んでいる。それでも、私は契約書にサインをした。当時の私には、選択肢などほとんどなかったのだ。
引っ越しを終え、荷解きもそこそこに迎えた最初の夜。慣れない部屋の硬い床の上で浅い眠りについていた私は、ある音で目を覚ました。
ぽたん…、ぽたん…。
単調で、しかしやけに明瞭な水音。キッチンだろうか。それとも、洗面所か。私は身体を起こし、耳を澄ませた。音は、浴室の方から聞こえてくるようだった。
「…締め忘れたかな」
独りごちて、重い身体を引きずるように浴室へ向かう。ひやりとしたドアノブを回すと、カビの匂いが一層強く鼻をかすめた。暗闇の中、スマートフォンのライトで照らすと、古い金属製の蛇口から、確かに水が滴り落ちていた。銀色の雫が、重力に従って糸を引き、白い浴槽の底で小さな音を立てて砕ける。私は蛇口のハンドルを、これでもかというほど固く、右に回した。きゅ、と金属が軋む音がして、滴りはぴたりと止まった。
やれやれ、と息をついて寝床に戻る。だが、再び眠りにつこうとした矢先、またしてもあの音が聞こえ始めたのだ。
ぽたん…、ぽたん…。
先ほどよりも、心なしか間隔が短くなっているような気がする。まさか。私はもう一度、今度は苛立ちを覚えながら浴室へ向かった。蛇口は、確かに固く締められている。それなのに、その先端からは、まるで意思を持っているかのように水滴が生まれ、落ちていく。
その夜、私は結局、ほとんど眠ることができなかった。耳元で囁き続けるような水音は、これから始まる長い悪夢の、ほんの序曲に過ぎなかった。私がこの部屋を選んだのではない。この部屋が、私を選んだのだということを、まだ知る由もなかった。
月白荘での生活が始まって一週間が経った。あの夜以来、蛇口からの水滴は止まっていたが、部屋に染みついた湿っぽさは消えることがなかった。在宅でイラストレーターとして働く私にとって、仕事場でもあるこの部屋の環境は、決して良いものとは言えなかった。除湿器を一日中作動させても、壁紙はどこか湿り気を帯び、床を歩けば、ぎしり、と湿った木が悲鳴を上げた。
異変は、静かに、だが着実に私の日常を侵食し始めた。
それは、一本の電話から始まった。クライアントからの、納品したイラストの修正依頼だった。
「蒼井さん、今回のイラストなんですが…全体的に、少し色味が暗いというか、濁っているような印象を受けまして」
モニターでデータを確認するが、私にはそうは見えない。むしろ、今までで一番鮮やかな色使いを心がけたつもりだった。
「そうですか…?こちらでは、特に問題ないように見えますが」
「うーん、なんて言うんでしょう。全体的に、水彩絵の具を滲ませたような…青みがかったシミのようなものが、キャラクターの顔にかかっているように見えるんです」
シミ。その言葉に、私は無意識に部屋の壁に目をやった。天井の隅、浴室に面した壁に、いつの間にか奇妙な形の染みが広がっている。まるで、墨汁を水に垂らした時のような、不規則な濃淡を持つ黒い模様。最初は小さな点だったはずが、日を追うごとにじわじわと、まるで生き物のようにその範囲を広げている。
その夜、私は風呂に入る気になれず、シャワーだけで済ませることにした。古びたシャワーヘッドから吐き出される湯は、温度が不安定で、時折ぞっとするような冷水に変わる。目を閉じてシャンプーを洗い流していると、ふと、背後に誰かの気配を感じた。
ありえない。この部屋にいるのは私一人だ。隣は空室で、下の階の住人はいないも同然なのだから。
しかし、気配は消えない。それは、冷たい空気の塊となって、私の濡れた背中に張り付いているようだった。水音に混じって、微かな衣擦れの音が聞こえる。ゆっくりと、振り返る。そこにはもちろん、誰もいない。ただ、シャワーの湯気で曇った鏡が、ぼんやりと私自身の姿を映しているだけだ。
だが、鏡の中の私は、どこか違っていた。顔色が青白く、目の下の隈が異様に濃い。まるで、溺れた死人のような相貌だった。そして、その肩越しに、一瞬だけ、何かが見えた気がした。長い、濡れた髪。水を含んで黒々と光る、女の髪。
「ひっ…!」
短い悲鳴を上げ、私はシャワーを止めた。心臓が早鐘のように鳴り、呼吸が浅くなる。幻覚だ。疲れているんだ。私は自分にそう言い聞かせ、震える手でタオルを掴み、逃げるように浴室を飛び出した。
その日から、私は鏡を直視できなくなった。洗面所の鏡も、姿見も、布をかけて覆い隠した。だが、闇はどこにでも潜んでいる。パソコンのモニターがスリープモードになった時、スマートフォンの黒い画面に、ふと自分の顔が映り込む。その度に、私の背後に揺れる黒い影の幻影に、心臓を鷲掴みにされるような恐怖を覚えたのだった。
そして、あの水音が、また始まった。
ぽたん…、ぽたん…。
今度は、浴室からだけではない。キッチンのシンクから。洗面台から。部屋中の、すべての蛇口が、まるで示し合わせたかのように、一斉に不協和音を奏で始める。私は耳を塞ぎ、頭を抱えて蹲った。それは単なる水滴の音ではなかった。それは、言葉にならない何かを訴えかける、死者の囁きのように聞こえた。
「…して…」
違う。気のせいだ。疲労とストレスが生み出した幻聴に過ぎない。
「…か…して…」
違う。私はおかしくなってなどいない。
「たすけて」
はっきりと、それは聞こえた。幼い少女のような、か細い声。その声を聞いた瞬間、私の脳裏に、封じ込めていたはずの記憶が、濁流のように蘇った。
十五年前の夏の日。夕立の後の、増水した川。手を滑らせて濁流に飲まれていく、幼い妹の姿。伸ばした私の手を掴むことなく、沈んでいく小さな身体。「助けて」と叫ぶ、最後の声。
「あ…ああ…っ」
私は喘ぐような声を漏らした。そうだ、あの声だ。水底に消えた妹、美咲の声だ。なぜ今になって?なぜ、この部屋で?
壁の染みが、じわり、とまた広がった。それはもはや、ただの染みではなかった。苦悶に歪んだ人間の顔のように、私をじっと、見つめていた。
妹の幻聴を聞いてからというもの、私の精神は急速に摩耗していった。夜は水音に苛まれて眠れず、昼は壁の染みと、ふとした瞬間に視界をよぎる黒い影に怯える。仕事の締め切りは迫っているのに、ペンを握る手は震え、まともな線一本引くことすらままならない。描かれるイラストは、どれもこれもクライアントが指摘した通り、暗く、湿り気を帯び、まるで水底から見上げた景色のように歪んでいた。
「最近、どうしたの?なんだか、すごく疲れてるみたいだけど」
画面越しに、唯一の友人である沙織が心配そうに眉を寄せた。私は無理に笑顔を作り、寝不足なだけだと誤魔化す。この奇怪な現象を話したところで、信じてもらえるはずがない。正気を疑われるのが関の山だ。
「そういえば雫、水、平気になったの?昔、川とか海とか、すごく怖がってたじゃない」
沙織の無邪気な一言が、私の胸に鋭く突き刺さった。そうだ、私はずっと水が怖かった。妹を亡くしたあの日から、深い水溜まりさえ避けて歩くほどに。それなのに、なぜ私は、こんなにも水回りに問題のある部屋を選んでしまったのだろう。まるで、自ら罰を受けにきた罪人のように。
「…もう、昔の話だよ」
かろうじてそう答えるのが精一杯だった。
その日の午後、私は意を決してアパートの大家の元を訪ねた。月白荘の一階、一番奥の部屋。そこに、小柄で猫背の老婆が一人で住んでいる。
「すみません、大家さん。二〇二号室の者ですが」
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、ゆっくりとドアが開いた。皺くちゃの顔が、隙間からこちらを窺う。
「…ああ、二階の。何か用かね」
声には、あからさまな警戒心が滲んでいた。
「あの、浴室の蛇口の調子が悪くて。何度締めても水が漏れるんです。あと、壁に染みが…」
私の言葉を遮るように、大家は言った。
「古い建物だからねぇ。そんなことはよくあるよ。気になるなら、自分で業者でも呼びな」
あまりにも無責任な物言いに、私は言葉を失った。この大家は何かを知っている。そして、それを隠そうとしている。そんな確信が、胸の内で芽生え始めていた。
「この部屋…二〇二号室で、以前、何かありませんでしたか?」
私は、単刀直入に切り込んだ。大家の目が、僅かに見開かれる。
「…さあねぇ。昔のことは、あたしもよく覚えてないよ」
そう言って、老婆は一方的にドアを閉めてしまった。
部屋に戻ると、言いようのない閉塞感が私を襲った。浴室のドアが、僅かに開いている。私は閉めたはずなのに。ゆっくりと、一歩ずつ近づく。ドアの隙間から、甘ったるい、腐敗臭のようなものが漂ってくる。それは、切り花を長く水につけておいた時のような、生命が朽ちていく匂いだった。
意を決してドアを開ける。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
浴槽いっぱいに、水が張られている。蛇口からは、今もなお、ぽた、ぽたと水が滴り落ち、静かな水面に波紋を広げている。しかし、その水は、透明ではなかった。赤黒く濁り、まるで血の池のようだ。そして、水面には、無数の長い髪の毛が、水草のようにゆらゆらと漂っていた。
「う…っ!」
胃の腑から何かがせり上がってくるのを感じ、私は口元を押さえて後ずさった。排水溝だ。排水溝から、髪の毛が逆流してきているのだ。
その時、濁った水面が、ごぼり、と音を立てて泡立った。まるで、水中で誰かが息を吐いたかのように。そして、泡が弾けた跡に、ゆっくりと何かが浮かび上がってきた。
それは、人間の顔だった。
蒼白く、膨れ上がった、女の顔。目は固く閉じられ、口は苦悶に歪んでいる。見覚えのない顔だ。しかし、その表情は、私の記憶の奥底にある、水に沈む妹の最後の顔と、どこか重なって見えた。
「あああああああああっ!?」
私は絶叫し、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。幻覚なんかじゃない。これは、紛れもない現実だ。この部屋には、「何か」がいる。私を、水底へ引きずり込もうとする、怨念のような何かが。
恐怖に駆られ、私はアパートを飛び出した。行く当てもなく、ただひたすらに走った。雨が降り始め、濡れたアスファルトが街灯の光を乱反射する。冷たい雨が、私の身体を容赦なく打ちつけた。まるで、あの部屋の湿気が、どこまでも私を追いかけてくるかのように。
たどり着いたのは、町の小さな図書館だった。閉館間際の薄暗い室内で、私は震える手でパソコンを操作し、この町の古い新聞記事を検索し始めた。「月白荘」「事件」「事故」。キーワードを打ち込むたびに、心臓が嫌な音を立てる。
そして、見つけてしまった。
十年前に発行された地方紙の、三面記事。ごく小さな、白黒の記事だった。
『アパート浴室で女性の遺体発見』
記事によれば、月白荘の二階の一室で、一人暮らしの女性が、浴槽に水を張った状態で亡くなっているのが発見されたという。警察は、事件性はなく、持病による事故死と判断した、と書かれている。記事には、女性の名前も、顔写真もなかった。ただ、部屋番号だけが、はっきりと記されていた。
『二〇二号室』
やはり、この部屋だったのだ。不動産屋も、大家も、この事実を隠していた。事故死?冗談じゃない。あの顔は、安らかな死に顔ではなかった。あの髪は、あの水は、尋常なものではなかった。
彼女は、なぜ死んだのか。
そして、なぜ、今になって私の前に現れるのか。
図書館の窓ガラスを叩く雨音が、次第に強くなっていく。それはまるで、浴室で鳴り響いていた、あの不吉な水音のように、私の耳から離れなかった。
真実の一端に触れてしまった私は、もう以前の日常に戻ることはできなかった。月白荘に帰るのが恐ろしく、その夜は沙織の家に泊めてもらった。事情を話す勇気はなく、ただ「大家と揉めて、少し頭を冷やしたい」とだけ告げた。沙織はそれ以上何も聞かず、温かいココアと毛布を用意してくれた。その優しさが、かえって私の孤独を際立たせた。
沙織の部屋には、湿気も、カビの匂いも、不気味な水音もなかった。それなのに、私は一睡もできなかった。目を閉じると、浴槽に浮かんでいた女の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。その顔が、次第に妹の美咲の顔へと変化していく。助けて、と声なく訴える唇。私を責めるように、冷たく見開かれた瞳。
翌朝、隈の浮き出た顔でアパートに戻ると、部屋は奇妙なほど静まり返っていた。あれほど鳴り響いていた水音は止み、浴室を覗いても、赤黒く濁っていたはずの水は跡形もなく消えていた。浴槽は乾ききっており、まるで昨夜の惨状など、すべてが私の狂気が見せた幻だったかのようだ。
だが、壁の染みは、より一層濃く、大きく、人の形を明確に象っていた。両腕をだらりと下げ、首を不自然な角度に傾げた、ずぶ濡れの女の姿。それは、私を嘲笑うかのように、そこに存在し続けていた。
このままでは、私が狂ってしまう。私は藁にもすがる思いで、再び大家の元を訪ねた。今度は、逃がさない。すべてを話してもらう。
ドアを叩きつけるようにノックすると、昨日よりもさらに険しい表情の大家が顔を出した。
「またあんたか。しつこいね」
「お願いします、教えてください!十年前、この部屋で亡くなった女性のことです!」
私の剣幕に、大家は一瞬たじろいだが、すぐに顔を歪めて吐き捨てるように言った。
「…だから、事故だと言ってるだろ。心臓の弱い娘さんでね、入浴中に発作でも起こしたのさ。あんたが気にするようなことじゃない」
「嘘です!だとしたら、あの部屋の現象は何なんですか!?毎晩聞こえる水音も、浴槽の水のことも…!」
私の言葉に、大家の顔から血の気が引いた。その反応が、すべてを物語っていた。
「…あんたにも、見えるのかい」
絞り出すような、か細い声だった。
「あの娘の…残したものが」
大家は観念したように、重い口を開いた。
亡くなった女性の名前は、水無月響子。二十代半ばの、物静かな女性だったという。彼女もまた、私と同じように、水にまつわる悲しい過去を背負っていた。幼い頃、目の前で友人が海で溺れ死んだのを見て以来、強い恐怖症を抱えていたのだ。
「あの娘は、それを克服しようとしていた。わざわざ、この古いアパートを選んでね。水と向き合うために、毎日、風呂に水を張って、ただそれを眺めていたそうだよ。馬鹿な娘さね…」
しかし、ある日、彼女は浴槽で冷たくなっているのが発見された。死因は心不全とされたが、大家は信じていなかったという。発見時、部屋中が水浸しで、まるで小さな洪水でも起きたかのようだったと。そして、彼女の死後、二〇二号室では奇怪な現象が相次ぐようになった。蛇口から水が漏れ、壁に染みが広がり、夜な夜な女のすすり泣くような声が聞こえる。何人もの住人が、次々と逃げ出していった。
「あんたが、初めてだよ。あそこまで長くいるのは。…あんたも、何かあるんだろう?水に、何か…」
大家の言葉が、私の心の最も柔らかな部分を抉った。
響子さん。彼女も、私と同じだったのだ。過去のトラウマに囚われ、水に怯えながらも、そこから逃げられずにいた。彼女の絶望と恐怖が、怨念となってこの部屋に染みつき、同じ痛みを持つ私に共鳴したのだ。壁の染みも、水音も、浴槽の幻も、すべては彼女の苦しみの残滓。
そして、妹の幻聴。あれは、私のトラウマを呼び覚ますための、彼女からの「呼び声」だったのかもしれない。
その夜、私は自ら浴槽に水を張った。透明な水が、白い浴槽を満たしていく。私はその縁に腰掛け、じっと水面を見つめた。響子さんがそうしていたように。
やがて、水面が静かに揺らぎ始めた。鏡のように私を映していた水面が、ゆっくりと歪み、向こう側から何かが現れようとしている。恐怖で身体がこわばる。だが、私は逃げなかった。ここで逃げたら、私も響子さんと同じになってしまう。
水面が、スクリーンとなった。そこに映し出されたのは、私の記憶。妹の美咲と遊んだ、あの川辺。笑い声。水しぶき。そして、一瞬の油断。濁流にのまれる小さな身体。
「私のせいだ…」
ずっと蓋をしてきた罪悪感が、堰を切ったように溢れ出す。涙が、ぽたぽたと水面に落ち、波紋を広げた。
「私のせいで、美咲は…」
その時、背後の壁から、びちゃり、と水が滴る音がした。振り返ると、あの女の形をした染みから、本物の水が流れ出している。染みは立体感を持ち始め、壁からずるりと、黒い影が這い出してきた。
それは、水無月響子の霊だった。髪から、服から、絶え間なく水を滴らせ、虚ろな目で私を見つめている。その口が、かすかに動いた。
『…わたしのせい…』
共鳴。彼女もまた、友人の死を自分のせいだと責め続けていたのだ。同じ罪悪感、同じ絶望。私たちを引き合わせたのは、水にまつわる悲劇の記憶だった。
響子さんの霊が、ゆっくりと私の方へ手を伸ばしてくる。その手は、水底のように冷たく、触れられれば、同じ暗闇へ引きずり込まれるだろう。
私は、逃げないと決めた。だが、彼女に呑まれるつもりもなかった。私は私の罪と、彼女は彼女の罪と、向き合わなければならない。
「違う…!」
私は、震える声で叫んだ。
「あなたのせいじゃない!」
それは、彼女に言っているようで、自分自身に言い聞かせる言葉だった。
「私のせいでも、ない…!」
その言葉に、響子さんの動きが、ぴたりと止まった。
「あなたのせいじゃない」
私の叫びは、静まり返った浴室に響き渡った。それは、長年自分自身にかけた呪いを解くための、祈りのような言葉だった。壁から這い出した響子さんの霊は、虚ろな目のまま、動きを止めている。彼女の身体から滴り落ちる水滴の音だけが、やけに大きく聞こえた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。浴槽の縁に置いたスマートフォンを手に取り、ある写真を表示させる。それは、数年前に実家のアルバムで見つけた、色褪せた一枚の写真。幼い私が、満面の笑みで妹の美咲を抱きしめている。背景には、あの悲劇の現場となった川が、穏やかに流れていた。
「見て。これが、私の妹…美咲です」
私は、震える手でスマートフォンを響子さんの霊に向けた。
「私は、この子を守れなかった。ずっと、自分のせいだと思って生きてきた。あなたも、同じなんでしょう?お友達を、守れなかった…」
響子さんの蒼白い顔が、僅かに歪んだように見えた。閉じられていたはずの瞳から、黒い涙のような液体が、一筋、流れ落ちる。
「でも、それは違う。誰のせいでもなかったんだ。私たちは、ただ無力だっただけ。子供だったから。どうすることも、できなかった…」
言葉が、次々と溢れ出す。それは、沙織にも、誰にも話せなかった、私の心の奥底からの叫びだった。
「苦しかったよね。怖かったよね。ずっと、水の中に独りで…」
私の涙も、もう止まらなかった。それは、妹を悼む涙であり、目の前の彼女の孤独に寄り添う涙であり、そして何より、自分自身を赦すための涙だった。
その時、信じられないことが起きた。響子さんの霊の輪郭が、ふわりと、揺らぎ始めたのだ。憎悪と絶望に染まっていたその表情から、力が抜けていく。固く結ばれていた唇が、かすかに綻んだように見えた。
『…そう…』
か細い、しかしはっきりとした声が、頭の中に直接響いた。それは、水音に混じっていたあの囁き声だった。
『…ひとりじゃ、なかった…』
次の瞬間、彼女の姿は、まるで水蒸気が霧散するように、すうっと、掻き消えた。壁から流れ出ていた水は止まり、あれほど濃く私を睨みつけていた人型の染みも、ただの薄汚れた古い壁の模様に戻っていた。
部屋を包んでいた、じっとりとした湿気と腐敗臭が、嘘のように消え去っていく。窓の外から差し込む月明かりが、室内を柔らかく照らしていた。
悪夢は、終わったのだ。
私はその場にへたり込み、しばらく動けなかった。涙は枯れ果て、代わりに、奇妙なほどの静けさと、虚脱感が全身を支配していた。
数日後、私は月白荘を去る準備をしていた。もう、この部屋に恐怖を感じることはなかったが、ここが私の居場所でないことは確かだった。段ボールに荷物を詰めながら、ふと、あの壁に目をやる。染みは、確かにある。しかし、もうそれが人の形に見えることはなかった。ただの、時間の経過が刻んだ、痕跡に過ぎない。
最後に、浴室の掃除をした。カビの生えたタイルを磨き、蛇口をピカピカに光らせる。もう、ここから不気味な水音が聞こえることはないだろう。浴槽の栓を抜き、水を流す。ごぼごぼと音を立てて渦を巻いていく水は、何もかもを洗い流してくれるようだった。すべての水が流れきった排水溝の奥で、何かがキラリと光った。
手を伸ばして拾い上げると、それは小さなイヤリングだった。雫の形をした、慎ましやかなデザインの。おそらく、響子さんのものだろう。彼女がこの部屋に残した、最後の、小さな忘れ形見。
私はそれを、そっとポケットにしまった。
アパートを出る日、大家が部屋から顔を出した。
「…行くのかい」
「はい。お世話になりました」
私が頭を下げると、老婆は何も言わず、ただ、皺くちゃの顔で少しだけ、本当に少しだけ、微笑んだように見えた。
新しい部屋は、南向きの明るいマンションの一室だ。窓を開ければ、乾いた風が吹き込み、カーテンを揺らす。もう、あのまとわりつくような湿気に悩まされることはない。
引っ越して最初の夜、私は買ってきたばかりのグラスに水を注ぎ、それをゆっくりと飲んだ。水は、ただの水だった。私の喉を潤し、身体に染み渡っていく、生命の源。もう、そこに恐怖はなかった。
しかし、完全に過去を忘れ去ったわけではない。時折、ふとした瞬間に、あの部屋のことを思い出す。壁の染み。止まらない水音。そして、浴槽に浮かんでいた、悲しい顔。
私のトラウマは、水無月響子という女性の絶望と共鳴し、そして、互いの痛みを認め合うことで、ようやく解けていった。彼女の魂が救われたのかどうかは、私にはわからない。ただ、願うことしかできない。どうか、安らかに、と。
ポケットに忍ばせた雫の形のイヤリングを、そっと取り出す。窓から差し込む光を受けて、それはきらりと輝いた。まるで、浄化された涙の一粒のように。
私は、これからも生きていく。水と共に。もう、二度と、水底の闇に囚われることなく。
だが、夜、静寂の中で耳を澄ますと、今でも時々、聞こえる気がするのだ。遠い場所から、ごく微かに。
ぽたん…。
それは、過去の残響か、それとも、まだどこかで救いを待つ、誰かの涙の音なのかもしれない……