第30話 好き
「びゃぁああああああああああああああああああああ~~~~~~~~~~!!??」
勢いよく後ろへひっくり返った天城さん。
背中を強く打つもまるで意に介さず、ゴロゴロと転がって僕から距離を取り、薄闇の中でもハッキリとわかるくらいに赤面する。
「なななななっ、なっ、なっ、んなぁ!? 何してんの!? 何してくれちゃってるの!? はぁああああ!?」
「すみません」
「謝って済む問題じゃないでしょ!! だ、だって、キスはダメじゃないの!? 不純異性交遊になっちゃうんじゃないの!?」
「そうですね」
「そうですねって……ひ、一人暮らしは? 実家に戻ることになっちゃっても、いいの?」
言われて、実家での日々を思い返す。
天城さんが言うように、確かに兄弟たちの面倒を見るのは大変だった。しかも部屋は狭いし、食事もトイレも風呂も落ち着かないし、とにかく不便なことばかり。
だから、僕にとって一人暮らしは快適そのもの。
どうしたって手放したくないもの。
でも――。
「ずっと前から、この気持ちが何なのか、天城さんのことを本当はどう思っているのか、わかっていました。わかっていて……それを言うのが恥ずかしかったり、一人暮らしが惜しかったりで、誤魔化していました」
なぜだか、妙に落ち着いていた。
清々しい風が心の中で吹いて、それに押されて彼女の元へ歩み寄る。
「……その結果、こうして天城さんを余計なことで悩ませてしまった。僕の失態です。なので、ちゃんと言わせてください」
手を差し伸べて、唇を開いた。
だけど僕ってやつは、肝心なところで声が出ない。掠れた音を吐き出して、これじゃあダメだと深呼吸する。
ふと、彼女を見た。
僕を見上げる瞳は驚きに満ちていて、そういえば柳田先生から助けた時もこんな目をしていたなとか、そんなことを呑気に思い出した。
『――佐伯のこと、好きになっちゃった!!』
あまりにも唐突な、微塵の恥じらいもない告白から始まった関係。
『勉強が大変だから、あたしにちょっかい掛けられる余裕がないんだよね。だったら、テストで点数取れるように協力してあげる』
思い立ったら即行動なクセに、やけに用意周到。
『事務所とマネージャーさんにもめーわくかけちゃった! せっかくチャンスくれたのに! 佐伯も仕事も大事にしたいのに、どっちにもひどいことしちゃってる……!』
泣くほど仕事に熱心で、泣くほど僕に真剣な。
そういう、カッコいいひと。
『佐伯~~~っ!!』
まぶたの裏を見れば、彼女の声が聞こえる。
嬉しくなって、楽しくなって、自然と笑みがこぼれる。
『好き!!』
寒空の下でも、彼女のくれた夏色の日差しが胸の内側を照らす。
ほんの少しだけ、こんな僕でも強くなれる。
「――……好きです。付き合ってください」
雲の切れ間から月が顔を出し、彼女を覆っていた影を蹴散らした。
パチパチと瞳が瞬いて、真紅の双眸は潤いを取り戻す。
こちらへ手を伸ばして、僕もそれを掴もうとするが、彼女は乾いた息と共にそれを引っ込めた。
「……ダメ、だよ。佐伯、あたしが落ち込んでるから気をつかってるんでしょ? こんな嫌なやつのこと、好きになるわけないもんっ」
再び暗がりに沈む顔。
投げやりな声。
僕は奥歯を噛み、更に一歩前に出た。
「じゃあ、どんなひとだったら好きになってもいいんですか?」
「ど、どんなひとって……」
「誰かを好きになる過程に、正解があるなら教えてくださいよ」
かつて、天城さんが僕に向けた言葉をそのまま繰り返す。
この問いを投げかけられた時、僕は答えられなかった。答えられるはずがないことは、彼女が一番よくわかっている。
「大体、これまで散々自分勝手に僕の生活をメチャクチャにしておいて、今になって反省してもう関わらないでとか、ふざけるのも大概にしてください。取り返しがつかないくらい傷つけるかも……? だから何だよっ!! その時は喧嘩して、話し合って、仲直りすればいいだろ!?」
「……さ、佐伯、怒ってる?」
「怒るよ、僕だって!! しかもさっきから、嫌なやつ嫌なやつって……僕の好きなひとの悪口言うの、やめろよ!! 天城さんは嫌なやつじゃない!!」
言いたいことを言って、久しぶりに腹の底から目一杯の声を出して、情けないことに酸欠になり眩暈に襲われた。ふらりと後ろへ倒れかけて、「あっ!」と天城さんに手を掴まれ体勢を立て直す。
手を取り合って、向かい合って、視線を交わした。
しばらくして彼女は、頬を朱色に染め、ふいっと目を逸らす。
「天城さん」
呼ぶと、遠慮がちに再び僕を見た。
両の瞳には薄い涙の膜が張り、視線は濡れて熱を持つ。
大粒の涙が零れて、頬に線を描いて、顎の先から滴り落ちる。
「……本当に、あたしでいいの?」
「はい」
「本当の本当に、あたしでいいの?」
「はいっ」
「……でもあたし、面倒くさいよ?」
「知っています」
「じ、自分勝手だよ?」
「出会った時からそうなのに、何を今更」
「ワガママだし、図々しいし、迷惑いっぱいかけちゃうし――」
「あの」
手を強く掴む。
見つめて、小さく深呼吸して、唇を開く。
「天城さんじゃなきゃ、嫌です」
ついには鼻水まで垂れて来て、流石にそれはまずいと思ったのかズズッと吸い、恥ずかしそうに笑う。ようやく彼女の笑顔を見られたことが嬉しくて、僕の口元も黄色い感情を零す。
「……佐伯」
「はい?」
呼ばれて、首を傾げた。
彼女は躊躇いながらも、僕だけを見ていた。
声を出しかけて、飲み込んで、もう一度口を開く。
「す、好き……ですっ」
かつてないほど、小さな声の弱気な告白。
今までのことを思い出し、ついプッと軽く噴き出す。
それが癪に障ったのか、天城さんはムーッと眉を寄せた。可愛いなぁと思いつつ、「ごめんなさい」と謝って、
「僕も好きだよ」
天城さんの好意に対して、初めて好意で返した。
変な感じがして、何だかおかしくなって、二人で笑い合った。しばらくして無言になって、結んだ視線を引っ張り合って近づき、僕は彼女の腰に腕を回す。
言葉はない。
だけど、彼女が何を求めているのか手に取るようにわかって、たぶん僕の求めるものも見透かされている。
額が当たって、鼻先が当たって、少し離れて。照れるねと笑って誤魔化して、心臓を急かす感情に身を預けた。
唇が、彼女の体温に染まる。
甘くて、少し苦い。もう、あと戻りのできない味。
浮足立ちそうな幸せの中で、このひとを大切にしなくちゃと、ただそれだけを胸に抱き締めた。