第19話 食べていーよ♡
「……もっといっぱい、ドキドキしよ?」
ちゅっ、と。
額に、彼女の唇が降ってきた。
「あはっ♡ しょっぱい……♡」
もう一度額を、こめかみを、瞼の上を、順に味見する。
抵抗しなくちゃいけないのに、美味しそうにするその顔が堪らなくて声が出ない。
「……佐伯も、して?」
「い、いや……」
「前におでこにしてくれたでしょ? それと一緒だよ。大丈夫、だから……ね?」
頭を撫でられて、そう言い聞かせられて、なぜだかバカみたいに安心してしまった。
僕もやっていいんだと、納得してしまった。
額に軽くキスをする。
不快じゃないかと顔色を確認すると、彼女は何も言わずに僕の頭を撫でた。それが嬉しくて、心地よくて、もう一度同じところに唇を落とす。
しょっぱい。
彼女が僕と同じなことが、嬉しい。
「こーたい、だよ?」
言って、僕の耳たぶを食んだ。
鳥の羽で撫でられたようなこそばゆさが背中を走り、つい声が漏れてしまう。
それが面白いのか、天城さんは喉を鳴らす。
「次……佐伯ね」
吸血鬼に恋をしているみたいに、嬉々として首筋を差し出した。
僕を映す目はやはり妖しく輝いていて、僅かに覗く歯は魅力的で、思考の余地なく身体が吸い寄せられてゆく。
晒された白い肌に口づけをして、唇に脈動を感じた。
ドクン、ドクン――と。
「ひゃっ……!」
僕のことが好きで仕方ないひとが確かにここにいる証明に、奇跡のような現実に、どうにも堪らなくなって天城さんの背に腕を回した。
上から降って来た、小さな悲鳴。
心配になって見上げて、視線が絡んで、笑みを焼べ合う。
彼女のマニキュアで彩られた指先が、僕の前髪をいじった。
次いで額の汗を拭い、頬を滑り落ち、唇の感触を確認する。
親指が割って入って来て、歯の表面をなぞった。口内を弄ばれて、だけどそれが嬉しくて、抵抗できない。
「ちゅー……しちゃ、ダメだよね? わかってるよ、大丈夫だから……」
僕で遊ぶのをやめて、その親指を口元へ持って行く。
ちゅっと唇を触れさせて、煽るように笑って見せて、熱く粘度の高い息を漏らす。
「……へへっ♡ 佐伯の味、するかも♡」
「ど、どんな味です?」
「んー……あたしの好きな味?」
「それ、説明になってないですよ」
「だって、それ以外に言いようがないし」
「……そう、ですか」
「佐伯はあたしの味、好き?」
「す、好きかどうか聞かれても……知らない、ので……」
「じゃあ、知りたい?」
「えっ?」
「知りたくないの? 興味ない?」
「…………」
「佐伯?」
「きょ、興味は……」
「興味は?」
「……あ、あり、ます……」
「いひひっ♡」
悪戯っぽく笑って、僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でて、また額にキスをした。
視線を交わす。
呼吸を重ねる。
沈黙を味わう。
きっと今、ここは世界のどこよりも静かで、僕の心臓は世界の何よりもうるさい。
それでも、この鼓膜は彼女の身動ぎ一つ聞き逃しはせず、その指先の動きにすぐ気がついた。
「唇は……ダメ、だもんね?」
身体を隠すバスタオル。端を内側に折り畳むことで落ちないようにしているのに、なぜかその内側を解放した。
何をしようとしているのか、すぐにわかった。
でも、動けない。
動きたくない。
彼女の瞳は、僕だけを映す。パチパチと、何度も瞬く。
バスタオルの端を両手で持って、全てをその指先に委ねた。躊躇いながら、だけど確実にゆっくりと開いて、
「食べていーよ♡」
パッと、離した。
汗で重たくなったバスタオルは、音を立てて床に落ちた。
綺麗だと、美しいと、やけに冷静に思って。
すぐに溶岩みたいな欲求が押し寄せてきて、理性だとか知性だとか、僕のなけなしのバリケードたちをなぎ倒す。濡れた障子紙同然に、造作もなく破り去る。
欲しい。
今はただ、それだけが頭の中を支配する。
「佐伯……目、怖いよ……?」
「……っ」
「でも、そーゆー目も、大好き……♡」
手を伸ばす。
もう何もかも、どうだっていい。
食べていいと言われたのだから、食べなくちゃ。
そうしなくちゃいけない。
――いや、そうしたい。
天城さんを、僕だけのモノにしたい。
「……あ、あれ……」
「……佐伯?」
「手が……う、ご……動かな……」
「佐伯っ!?」
伸ばしていたと思っていた手が、一ミクロも動いていなかった。
力を入れても何をしても、まるでどうにもならない。
それどころか視界まで歪み、意識が朦朧とし始める。
……あぁ、まずい。
天城さんに集中し過ぎて、ここがサウナの中だというのを完全に忘れていた。
◆
「佐伯!! ちょ、ちょっと、起きて!! 佐伯ぃー!!」
完全にやらかした。
サウナに入って何分だ……わからないけど、確実に十分か二十分は入っている。サウナに慣れていない初心者が入っていい時間を越えている。
「早く……外、出さなきゃ……!」
あたし一人が逃げたって仕方がない。
彼の身体から飛びのいて、目一杯腕を掴み引っ張る。
だが、まったく力が入らない。ビクとも動かない。
オマケにあたしまで気づくと膝から崩れ落ちていて、天井を見つめている。
やばい。やばい。やばい。
ぼやけた頭でも、今がどれだけ危機的状況かは理解できる。
佐伯を助けないと。彼だけでも、とにかく彼を外へ出さないと――そう思って手を伸ばすが、まるで届かない。
「……っ」
必死に伸ばした手を取ったのは、他でもない佐伯だった。
ゆらりと、大きな身体が立ち上がる。
目の焦点が合っておらず、明らかに半分意識を失っている。だけどこの手を強く握って、もの凄い勢いであたしを拾って小脇に抱え、サウナを飛び出す。
「はぁーっ! はぁーっ! はぁー……あ、ありがと、佐伯……!」
ゆっくりと床に下ろされ、あたしは息を切らしながら彼を見上げた。
返事はない。ただ明後日の方向を見たまま、右へふらふら、左へふらふらとして。
「さ、佐伯ぃ~~~~~!!」
ドボンと、水風呂に落下した。