第11話 寝落ち
「はぅ~~~♡ 佐伯のマッサージ、気持ちよすぎ~~~♡」
「それは良かったです。天城さんのも最高でしたよ」
「ほんとー? へへぇ、でっしょー?」
マッサージが終わって、ひと息ついて。
僕たちはコタツに入り、テレビをつけてダラダラと過ごしていた。
「あの……それはそうと、一個聞いてもいいですか?」
「なに? 結婚の申し込みなら、返事はOKだよ?」
「いや、違いますよ!」
「えっちなことしたいの? んもぉ、そんなことわざわざ確認とらなくていいのにー♡」
「だから違いますって!」
小さくため息をついて、視線を横へやった。
「……何で天城さん、隣にいるんです?」
普段の彼女の定位置は、僕の向かい側。
さっきの食事の時もそうだったのに、なぜか今はわざわざ狭いところへ身体を捻じ込み、僕の隣に座っている。
「ダメだった?」
「べ、別にダメってわけじゃ……ただ単純に、急に来たので……」
「んー……何か、寂しいなって思っちゃってさ」
言いながら、こちらに体重を預けて来た天城さん。
こてんと、僕の肩に頭が乗る。僕を見上げて、どこか儚げに笑う。
「佐伯、今日は朝からいなかったでしょ? あたし、実はそこからずーっとこの部屋で待ってたの。旦那様の帰りを待つ奥さんって、どんな気持ちなのかなぁと思って」
「……ロールプレイにまで全力なの、最高に天城さんって感じですね……」
「どうせやるなら、ちゃんとやった方がいいじゃん。それに掃除とか洗濯とか、あたしがちゃんとやろうと思ったらすっごく時間かかっちゃうし」
膝の上に置いていた手に、天城さんの手が重なった。
コタツと体温でしっとりと汗ばんだその手を、僕はゆっくりと掴んだ。直後、それを待っていたとばかりに、彼女は指を絡めてくる。
「お昼もここで食べて、いつ帰って来るかなーってずっと待てて……だからね、帰って来た時はちょー嬉しかったんだよ? やっと会えた、って。旦那様が帰って来た時にこんなに嬉しくなれるなら、待つ時間も悪くないかなって思っちゃった」
にぎにぎと僕の手の感触を確かめながら、「でもね」と視線をそらす。
「本当の奥さんだったら、旦那様が帰って来たらその日はずっと一緒だけど、あたしのはただのごっこ遊びだから。もう十時過ぎてるし、そろそろ帰らなきゃだし……それが、寂しくてさ……」
「……いや、でも……っ」
「わかってるよ、わかってる! だからお泊りさせてとか、そういう話じゃないよ? 前は文化祭の準備っていう理由があったけど、今はそんなのないもんね。それでお泊りしちゃったら、不純異性交遊だもんね」
「…………」
「わかってるから……ワガママ、言わないから。もうちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから、隣にいさせて? あたしにとって佐伯の隣って、世界で一番落ち着く場所だからさ」
触れば溶けてなくなってしまう雪の結晶のような、美しさと脆さが共存する微笑み。
本当に、本気で、本心から僕と離れたくないのだと、魂の底から理解する。
こういう顔をする天城さんも綺麗だ。
見惚れてしまう。
――が、不思議と好きにはなれない。
ダメなのに、いけないのに、頭の中で解決策を模索する。
彼女が僕と離れないで済む方法を……僕が見たい笑顔を見る方法を、探してしまう。
「…………あっ」
闇の中で必死に伸ばした手は、我ながら不格好でバカバカしい……だけど、それらしい言い訳を掴む。
「どうしたの、佐伯?」
「えっと……僕の実家も冬になるとコタツを出すんですけど、ほら、コタツって気持ちいいじゃないですか? だから毎日、最低でも誰か一人はそこで寝落ちしちゃって、大体朝まで放置されるんですよ」
「……ん? ごめん、何の話?」
「いや、だからっ……天城さんが僕の部屋にコタツを設置しちゃったので、うちでもそういうことがあるのかなぁと思って……っ」
僕が何を言いたいのか察したらしい。
天城さんはパッと目を見張り、紐が切れたみたいに唇から力を抜く。
「寝落ちしちゃったら起こすのはしのびないというか……まあでも、風邪をひかれたらもっと困るので、その時は仕方なく来客用の布団を出す、という感じで対応すると思います。ですので……その、はい……!」
「……暗に泊まって行けって言ってるけど、それ大丈夫? あたしが言うのも何だけど、そのこじつけは結構無理あるよ?」
「我が家がコタツでの寝落ちを許さない家だったらまずいですが、あいにく平気で放置するので……だ、大丈夫です。筋は通るはず……!」
「家族とあたしは違うじゃん」
「今は夫婦という設定ですし、セーフじゃないですか……?」
「こじつけだなぁ~!」
ゲラゲラと声をあげて、ひと息ついて、テーブルに突っ伏す天城さん。
「じゃあ……寝落ち、しちゃおっかな?」
「ど、どうぞ……っ」
こちらに目を向け、へにゃりと笑った。
夏の日差しの下に置かれた雪見大福みたいに、甘ったるく蕩けた……僕の見たかった笑顔が、そこにはあった。
「可愛い……」
と呟いて、数秒後。
頭の中ではなく声に出していたことに気づき、ハッと口を覆った。
やらかした、恥ずかしい……けど。
天城さんはいっそう幸せそうに笑って、繋いだ手をモダモダと動かす。そういう仕草も可愛くて、本当にずるい。
「もう一回、可愛いって言って?」
「えっ……」
「あたし、可愛くない?」
「か……可愛い、です」
「誰よりも?」
「……はいっ」
「へへっ、そっかぁ~~~♡」
そう言って繋いだ手を離し、僕の頭を撫でた。わしゃわしゃと、乱暴に。犬とじゃれるみたいに、楽しそうに。
「あたしのことも撫でて!」
「は、はいはい」
「んふふー♡ きもちー♡」
「それはよかったです」
「なでなでしながら、可愛いって言って欲しいなぁー♡」
「可愛い……す、すごく可愛いです……!」
「いひひひっ♡ うれちーうれちー♡」
赤面する僕を愛おしそうに見つめて、もう一度頭を撫で回した。
そして僕の頬に触れ、軽く摘まんで感触を確かめ、今度は労わるように優しく包む。
視線が絡んで、呼吸が重なる。
テレビの音が感じなくなるほど、意識が天城さんに集中する。
彼女の髪が、肩から零れ落ちる音さえ。
今は、聞き逃したくない。
「…………ちゅー、したい」
と、不意に小さく呟いた。
目に爛れた光を宿し、ほんのりと顔を赤らめて。
「何か今、好き好きゲージマックスでやばい! すっごくちゅーしたい! ねえしよっ、ちゅーしよ!? 夫婦だから、ちゅーくらい普通だよね!!」
「だ、ダメに決まってるじゃないですか!! それはどう考えても不純異性交遊です!!」
「いや無理だねっ、ちゅーする!! ちゅーしてくれなきゃ爆発する!!」
「するわけないでしょ――って、天城さん!? か、顔近づけないで……!」
「先っぽだけ!! 先っぽだけでいいからー!!」
「それがダメだって言ってるんですよ!! あっ、ちょ、わぁあ~~~!!」
両手で僕の顔をガシッと掴み、無理くりに迫ってくる天城さん。抵抗虚しく押し倒され、僕は間の抜けた声をあげた。
僕を見下ろして、彼女は笑う。
妖しく、熱っぽく、艶やかに、唇がにんまりと弧を描き、白い歯が輝く。
「じゃあさ、唇じゃなかったらいいの?」
「唇……じゃ、なかったら?」
「おでことか、どう?」
「……え、えっと……」
「おでこと唇だったら、どっちがセーフ?」
「……おでこ、かなと」
「じゃあ、して?」
「ぼ、僕がですか……!?」
「嫌なの?」
「そういう、わけでは……」
「あたしはされたいよ。佐伯に、ちゅって」
「…………」
「佐伯にして欲しい、佐伯にしかして欲しくない、他の誰でもなくて佐伯がいいの。好きだから、大好きだから……ねえ、ダメ?」
いじらく眉を寄せた表情も格別に可愛くて、僕は気づくと首を縦に振っていた。
天城さんは「やった♡」と小さく笑い、こちらに顔を近づけてまぶたを落とす。期待に満ちた湿った吐息がかかって、僕の顔を僅かに濡らす。
額なら不純異性交遊ではないだろう……と。
腹の中で一人納得して、覚悟を決めて、彼女の後頭部に手を添えた。
しっとりとした髪の感触を確かめながら、少しだけ力を込めて額を口元へと引き寄せる。
――ふっ、と。
ほんの僅か、一秒にも満たない時間、唇を押し付けた。
それ以上は恥ずかしくて、僕には荷が重くて、顔をそらして目を瞑る。
たったこれだけで、百メートルを全力疾走したみたいに心臓がバクバクする。
大昔、今よりずっと小さい桜蘭に同じようなことをしたのを思い出すが、それとは何から何までわけが違う。
……にしても、天城さんがやけに静かだ。
嬉しいと騒ぐことも、もっとしろと要求もしてこない。ただ呼吸音だけを響かせて、すぐそこにいる。
もしかして……気持ち悪いって思われて幻滅された?
あり得る話だ。
僕、こういうのに慣れてないし。作法的なものがあって、それを破ってしまったのかもしれない。もしくは……く、口が臭かったとか?
まぶたの裏側で、ぐるぐると不安が渦巻く。
闇の中で、彼女のげんなりとした顔が浮かぶ。
嫌な汗がにじむ。
謝ろう。何が悪かったのか、あとでちゃんと聞こう。
「……ん?」
目を開けて、彼女を見て、謝罪の言葉よりも先に疑問符が浮かぶ。
真っ赤だったから。
天城さんの顔が、絵具で塗ったみたいに。
「ど、どうしました、天城さん?」
「……死んじゃう」
「はい?」
大きく見開いた目は薄っすらと涙で濡れ、朱色の唇はあわあわと小刻みに開閉する。
視線が合うと何度かまばたきをして、静かに僕の胸に顔をうずめる。
「……嬉し過ぎて、死んじゃう♡ おでこにされただけでこれって、あたしってば佐伯のこと好き過ぎかよぉー……♡ 心臓バクバクでウケるんだけど……♡」
僕の胸の中でボソボソと呟いて、チラッと顔をあげて。
目が合った瞬間、「きゃ~っ♡」と桃色の悲鳴を漏らしまた顔をうずめて身悶えする。
……よかった。嫌だったわけじゃなくて、嬉しかっただけか。
腹の底から安堵して、半ば無意識に彼女の頭に手を置いた。何度か撫でて、その感触を確かめて、ようやく緊張がほぐれ唇の端から力が抜ける。
「あの、ところで、その……」
「……どうしたの?」
「そろそろ、僕の上から降りてくれませんか?」
「……ここで寝落ちしちゃ、ダメ?」
「ダメです」
「…………」
「あのー……」
「すぴー、すぴー」
これ以上ないってくらい、わかりやすい嘘寝。
もう無理やりどかそうと肩を揺するが、コアラみたいに僕にしがみついて離れようとしない。……これで寝落ちは無理があるって。
「はぁー……じゃあ、ちょっとだけですよ?」
観念して息をつくと、彼女は再び顔をあげ僕を見た。
その目が宝物を見つけたみたいに輝いていて、僕はどうしようもなく嬉しくなる。彼女の双眸に映る自分は、とても価値があるもののように感じてしまう。
身体にかかる重み。温もりと苦しさ。安心感と圧迫感。
彼女の鼓動。
ただむしょうに、幸せだなと、そう思った。
夜は更けてゆく。
日差しから零れ落ちたような彼女を、拾い忘れて。