第7話 真白
「聞いてよ昴ちゃーん! 清楚キャラ化作戦、失敗しちゃったー!」
昨日の夜。
昴ちゃんとたまたま仕事で一緒になったあたしは、休憩時間に声をかけた。
「清楚キャラ化作戦ねえ……あの役作り、妙だとは思っていたがそういうことだったとは」
やれやれと肩をすくめ、ホットコーヒーで唇を濡らす。
ただコーヒー飲んでるだけなのに、昴ちゃんは相変わらずカッコいいなぁ……。
「他にいい方法ないかなぁ? 昴ちゃん、佐伯との付き合い長いんでしょ。何か弱点とか知らない?」
「弱点か、ふむ……私から見れば、二人の仲は十分過ぎるくらい順調だと思うし、今更特別なことをする必要はない気がするけど」
「足りないよー! もっともっと佐伯にあたしのこと、好きになって欲しいもん!」
言うと、昴ちゃんは考え込んだ。
くるくると前髪をいじって、チラリとあたしを見て、何度か浅く頷く。
「私は恋愛経験が豊富なわけじゃないが……しかしだね、有咲ちゃん。キミが最も重要な戦術を忘れていることはわかる」
「じゅ、重要な戦術……!? 何それ……!?」
「簡単さ。普段、真白がキミにやっていることだよ」
意味がわからず、あたしは首を傾げた。
佐伯があたしにやってること……? それが重要な戦術?
……どゆこと?
「それ、おかしくない? だって佐伯、あたしを落とそうとか考えてないよ?」
「いやだから、あの男はそれを無自覚にやっているのさ。ここだけの話、過去にもそれで女の子から好意を寄せられたことがある。……私もまぁ、それにドキドキさせられたり、するし……」
「え、なに? よく聞こえないよ?」
最後の方、ゴニョゴニョと言っていてわからなかった。
しかし昴ちゃんは「何でもないっ」と咳払いし、長い足を組み直す。
「例えばだけど、キミがいつも食べている食事は誰が作っている?」
「佐伯っ!」
「辛いことや嫌なことがあった時、誰に頼る?」
「佐伯っ!」
「不安で苦しい時、誰に甘える?」
「佐伯っ!」
「ふむ。じゃあキミは、真白に食事を作ったり、頼られたり、甘えられたりしたことはあるかな?」
聞かれて、記憶を辿って、愕然とした。
ない。
まったくない。
あたしがオムライスを作った時は結局失敗して佐伯が仕上げをしてくれたし、勉強に関してはあたしが無理やりに迫って頼らせてるみたいなものだし、甘えられたことは本当に一度もない。
「そういうことだよ。時代錯誤な言い方をするが、あの男は母親スキルが高過ぎるのさ。他人を甘えさせてダメにさせることに関しては、間違いなく達人の領域だ」
「確かにそうかも……!!」
「しかし、この母性をもって甘やかす、優しくするというのは、女性が男性を落とす際にとる戦術の中じゃ王道の部類のはず。――キミはまず、清楚だの何だのと搦手に頼らず、真白を癒し労う方向でその想いを勝ち取るべきだ」
「正論過ぎる……!!」
◆
「――ってことがあって、あたし、今日は奥さんになるって決めたの! 奥さんになって、いつも頑張ってる佐伯をいっぱい癒しちゃうよー!」
「な、なるほど……?」
最初は意味不明だったが、ふむ、話を聞くとかなりまともな作戦だ。
確かに僕は、天城さんに勉強以外で世話を焼いてもらったことがない。いや別に、それについてどうこう思ったことはないんだけど。
ただ相手を恋愛的に落とすとなった時、そのひとの世話をするというのは、昴が言うように王道の戦略な気がする。
「……それはわかりましたが、このコタツは一体何です……?」
「さっき買って来たの。冬っていったらコタツだし、ぬくぬくして癒されるかなと思って。働き者の佐伯も、これに入ればダメになっちゃうこと間違いなーし!」
「は、はあ……」
「いいからいいからっ、今日はずっとそこに座ってて! あっ、掃除も洗濯も終わらせてあるから安心して! 佐伯のお世話は、あたしが全部やっちゃうから!」
と言って、僕を強引にコタツに押し込んだ。
温かくて気持ちいい。確かに癒される。
……毎日頑張ってる天城さんに世話を焼かれるのは罪悪感があるけど、まあ、今日一日くらいなら別にいいか。
それに、変な色仕掛けされるよりずっと安全そうだし。
「どりゃー!」
「わっ、ちょ!? 天城さん!?」
突然、僕の背中に抱き着いた天城さん。
豊満な部分をこれでもかと押し付け、熱い吐息を耳に吹きかけた。
「着る毛布の有咲ちゃんでーす♡ お外から帰って来て冷やっこい旦那様をぬくぬくするの、お手伝いしちゃいまーす♡」
「い、いいですよ! 今、コタツに入ってますし!」
「あれあれー? でも、あたしがギューッてしたら、顔が赤くなってきたぞー? これ、温かくなってる証拠でしょ?」
「それは、ち、違っ……!」
「ってかさ、今の佐伯は旦那様なんだよ? 旦那様が、奥さんに対してそういう言葉遣いなの、ちょっと変じゃない?」
「へ、変って……?」
「だからぁ――」
僕の首に回した腕に、いっそう力が入った。
ふにっと耳に彼女の唇が当たり、甘くこそばゆい快感が背筋を疾走する。
「苗字呼びはやめてってことだよ、真白?」
ただ、下の名前で呼ばれただけ。
家族や親戚やご近所さんがそうするように、昴がそうするように、別に珍しいことじゃない。何てことない。
――はずなのに。
勝手に口元が緩む。顔が熱くなる。嬉しいと思ってしまう。
「おやぁ? 真白の耳、もぉーっと赤くなったぞぉ?」
「え、えっと……」
「真白って呼ばれるの、そんなに嬉しいの?」
「別に……う、嬉しく、ないですよっ」
「真白っ」
「うぐっ……」
「好きだよ、真白♡」
「やっ、ちょ、ちょっと……!」
「うひひー♡ こんなことで顔真っ赤にしちゃうとか、ウブウブでかわゆいなぁー♡」
おかしいことはわかっている。
こんなことで、と心底思う。
でも、嬉しいのだから仕方がない。
彼女から下の名前で呼ばれることに、どうしようもないほどの特別感を覚えてしまう。
「ほらほらっ、次あたし! 奥さんのこと、旦那様は何て呼ぶのかな?」
「…………」
「黙ってちゃいつまでも終わらないぞー? ってか、真白のこと惚れさせるためなら何してもいいって約束なんだし、ちゃんとあたしに付き合ってよー!」
九月の、あの雨の日。
確かに僕たちは、そういう約束をした。
引き換えに勉強を教えてもらっており、おかげで何の苦労もなく一人暮らしの条件を達成できている。であるなら、今この瞬間くらい、彼女を下の名前で呼ぶのが筋というものだろう。
小さく深呼吸して。
彼女の手を掴み、軽く力を入れてほどいて振り向く。
顔が熱い。緊張で舌が乾く。
それでも爛々と輝くその目を見つめ、僕は唇を開いた。
「わかりましたよ……あ、有咲、さん……っ」
と、口にした瞬間。
電源が切れたみたいに、天城さんは僕にくっつくのをやめて床に尻餅をついた。
ついさっきまで悪戯っぽく笑っていたのに、その顔からどんどんと余裕が抜けてゆく。下から上へ熱がのぼり、それを隠すように両手で顔を覆って縮こまる。
「ど、どうしました?」
「……何でもないよ?」
「いや、何でもないことないでしょ……大丈夫ですか、有咲さん?」
「うにゃぁっ!!」
突然甲高い声をあげ、手の隙間から僕を見た。
潤んだ瞳と、ニヤけた唇。
そんな蕩けた表情を僅かに覗かせ、またすぐに隠す。
「何これ、やっば! 下の名前呼ばれるの、嬉し過ぎて顔ブサくなちゃうよぉ~!」
「ブサくは……ないと、思いますけど……」
「そんなことない! 絶対ブサブサだもん! 奥さんがしていい顔してないもん!」
「…………有咲さん」
「あぅう!!」
「有咲さん?」
「ひゃあ!!」
「有咲さんっ」
「ちょ、もう! 遊ばないで! ほんっともう、無理だからぁー!」
面白いな、これ。
天城さんが僕をいじって遊ぶ気持ちが理解できた。反応がいいと、ついやりたくなってしまう。
「あり――」
と、もう一度呼ぼうとして。
天城さんに顔を両手で思い切り挟まれ、僕は続く言葉を飲み込んだ。
「下の名前、禁止っ! 次呼んだら、ひとに言えないようなすごいキス、無理やりしちゃうからね! わかった、佐伯!?」
「……わ、わはりまひた、あまひさんっ」
自分がやらせておいて何を言っているんだ、と文句を垂れたいところではあるが、ここは素直に口を閉じておく。……彼女の目が、本当に無理やりキスしかねない目をしていたから。
「んじゃ、佐伯は座ってて! あたし、ご飯作るから! 料理する奥さんの後ろ姿に見惚れちゃっていーよ♡」
と言って、台所に立った天城さん。
上機嫌にポニーテールを揺らしながら、調理器具や食材を出してゆく。
その後ろ姿から、楽しそうな雰囲気が伝わる。風に吹かれた向日葵みたいに、金の髪は揺れ動くたびに温もりを零す。
「……有咲さん、か……」
いつか、いつの日か。
自然に、何でもないように、お互いを下の名前で呼び合う日が来たらいいなと。
そんな未来を想像して、唇が緩んだ。