第5話 うひひー♡
『天城先輩!? 天城先輩、ダメですって!! あぁーもうおしまいだー!!』
「ん?」
ボーッと風呂上がりみたいに呆けた顔の天城さん。
彼女の右耳から、何やら声が漏れていることに気づく。しかもどうにも、その声には聞き覚えがある。
まさか……。
ひとまず天城さんを部屋へ連れて行き、ベッドに寝かせた。耳に触れると、そこにはワイヤレスイヤホンが。
『応答してください、天城先輩っ! ま、まだ引き返せます! 今から清楚キャラをやり直して、兄の欲求不満を煽りま――』
「その声、もしかして桜蘭……?」
『ひっ!? し、シロ兄ぃ!?』
佐伯家の三女、桜蘭。
イヤホンを自分に装着すると、聞こえてきたのは妹の声だった。
「まだ引き返せるとか、清楚キャラをやり直すとか、僕の欲求不満を煽るとか……天城さんが急に役作り始めたの、もしかして桜蘭の差し金?」
『へっ? ……あ、あぁー! もうすぐご飯の時間だ! ごめんシロ兄ぃ、また今度ね!』
「ちょ、おいっ!!」
ブツッと通話が切れた。
はぁー……ったく、そういうことだったのか。何の予告もなくいきなりキャラ変したから、ちょっと妙だとは思ってたんだ。
あのバズった動画のせいで、うちの家族は天城さんの存在を認知している。
故に、家族の誰かが彼女に接触することは予想していたが……。
いやまさか、僕を落とす手伝いをするとは。油断も隙もあったものじゃない。
「僕を惚れさせるためなら何をしてもいいとは言いましたけど……でも、これはちょっとタチが悪いですよ。僕、本気で反省して、本気で応援しようと思った……の、に……」
言いながらベッドを見下ろし、彼女の様子に言葉を失った。
僕の布団を抱き締めて、薄い唇で軽く食む。
時折身体がビクッと痙攣し、濡れそぼった瞳はどこか虚ろにこちらを見ている。
「あ、あははー……ごめんね、騙しちゃって……」
「それはあとで話すとして……大丈夫、ですか? 顔真っ赤だし、呼吸も荒いし……体調が悪いとか?」
「いやぁ……ずっと佐伯のこと意識しないように頑張ってて、すっごく我慢してて……♡ だから、好きって言えたのが嬉しすぎて……♡」
太ももの間に挟まった布団。
スカートが僅かにめくれ、健康的な肌が自己主張する。
「……っ」
僕もまた、天城さんの肌をちゃんと見たのは一週間ぶり。
久々に誘惑らしい誘惑を受け、顔に一気に熱が回った。
見ちゃいけないのに、目が離せない。
見たい、触りたいと思ってしまう。
「やっば……今のあたし、マジ変態すぎぃー♡ すぅーって、お布団嗅いだだけでさ……へ、へへへっ♡」
僕を見つめたまま、彼女はビクッと身体を震わせた。
目尻には涙が浮かぶが、ちっとも悲しそうじゃない。妖しい輝きを帯びたその雫は、流れ落ちシーツにシミを作る。
何か、もう。
控え目に言って、端的に説明して、意味がわからないくらいエロい。
ピクピクと指先が、唇の端が痙攣する。
無意識に腕を伸ばしかけ、もう片方の手でそれを阻止した。
変な気を起こしたら全て終わりなのに、身体が言うことを聞かない。
……僕、完全に桜蘭の策略にハマってるな。
運が悪いことに、天城さんが僕の異変に気付いた。
パチリと目を見開いて僕を映す。
その瞳には、蠱惑的な熱が灯る。
「佐伯……?」
名前を呼ばれ、やばいなと思った。
僕は今、期待している。彼女に、ベッドに誘われることを。
「ちょー見てるの……わかるよ?」
「ご、ごめんなさい……っ」
「いいよ、佐伯なら。全部、全部……見ていいよ」
「……い、いや……」
「でもね、えっとね……?」
「は、はい?」
「――……見てるだけで、いいの?」
ただの問いかけ。
なのに、ハンマーで思い切り殴られたような凄まじい衝撃が脳に走り、ただでさえヒビが入っていた理性を半壊させた。
まずい。
まずい、まずい、まずい……本当にまずいっ。
もし今、いいよと、彼女が一言いったなら。
確信がある。僕は止まれない。
ようやく手に入れた一人暮らしよりも何よりも、今は堪らなく許しが欲しい。彼女に触れてもいいという、許しが。
「さわり……たい?」
しゅるりと音を立て、自らの手でスカートをめくった。
ほのかに透けた、煽情的なデザインの白の下着。
指先でリボンを摘まみ、静かにほどく。
するとそれは下着としての機能を失い、ただの布と化して隠さなければいけない場所から零れ落ちる。
「あたしの全部、佐伯のだから……」
僅かに身動ぎする。
チロリと、赤い唇をねぶりながら。
「好きにして、いいよ……?」
ついに許しが出たことで、我ながらバカみたいに音を立て唾を飲む。
これじゃあ獣と一緒だぞ、と僅かに残った理性が毒づいた。
わかっている。
わかっている、けど。
これはもう、無理だ。
九月から続く誘惑の嵐。モテたことのない僕にしては、かなり我慢した方だろう。
十分に頑張った。本当に、本当に、これ以上ないってくらい頑張ったさ。
それにこれは、僕だけの欲求じゃない。天城さんがずっと欲していたもの。だから、彼女を悲しませることはない。
――じゃあ、いいか。
と、心の中で独り言ちて。
ガラクタに成り果てた理性を捨て――られなかった。
「……あっ、わぁ!? あ、天城さんっ!! 鼻っ、鼻が……!!」
「へっ?」
目の前の光景に、知性が、理性が、急速に元の形を取り戻してゆく。
天城さんも自身の異変に気付いたようで、火照っていた顔を真っ青にする。
僕は急いでティッシュを取り、彼女に渡した。出てきた鼻血が、制服につく前に。
「天城さん……だ、大丈夫ですか……?」
「…………」
「きょ、今日は勉強、お休みにしましょう……!」
「…………」
「気分転換に、甘いものとかどうですか! 夕飯のデザートに用意してたパフェ、食べちゃいましょっか!」
「…………うん」
興奮し過ぎの鼻血。
そのおかげで僕は理性を取り戻し事なきを得るも、当の彼女は部屋の隅に縮こまってしまった。
まあ、そりゃそうだろう。
天城さんからしてみれば、待ちに待った瞬間だったわけで。それをすんでのところで、他でもない自分がぶち壊したのだからショックを受けて当然だ。
僕のベッドを血で汚してしまったことも、彼女的にはかなりダメージらしい。別にいいのにな、あれくらい。
「どうぞ、ヨーグルトパフェです」
容器の底にはシリアル。その上にプレーンヨーグルトを敷いて、蜂蜜とレモン汁に漬け込んだイチゴとキウイを飾り、最後にちょこんとミントを添えて完成だ。
天城さんはそれを見て、のそのそと部屋の隅からテーブルのそばまでやって来た。いただきますと手を合わせ、スプーンを取りパフェを掬う。
「どうですか? お味は」
「…………しぃ」
「え?」
「美味しい……あぁもう美味しい! 美味しいよぉー! 美味しいけど、ぐやじぃいいいいいいいい!!」
「で、ですね……」
涙目になりつつも、バクバクと食べ進めてゆく天城さん。
ものの数分で容器を空にして、「おかわり!!」とヤケクソ気味に叫ぶ。
カロリー気にして作ったから二杯も食べたら意味ないんだけど……まあ、今日はそういうこと言うの野暮か。
二杯目を作って差し出すと、彼女は一心不乱にそれを胃袋へ収め始めた。
美味しい美味しいと、気持ちのいい食べっぷりを披露する。
「……好きだなぁ……」
「ぶふぅっ!?」
無意識のうちに口から飛び出した言葉に、天城さんは思い切りむせた。
「ちょ、もう何っ!? いきなりどうしたの!?」
「いや……何かずっと、役作りとか言って大人しかったじゃないですか。僕のご飯食べても、そんな風に気持ちよくリアクションしてくれなくて……」
「あ、あぁ……うん……」
「でも今、元気に美味しいって言われたのがすごく嬉しくて。やっぱり僕、普段の天城さんが好きです」
天城さんは焼けた鉄みたいに赤面して、それを誤魔化すようにパフェを掻っ食らった。
空にするや否や、「おかわり!!」と三杯目を催促。……別にいいけど、あとでお腹痛いとか言わないでくれよ。
「今回でわかったけど……日頃から適度にくっついたりしてサエキミン摂取して、ちゃんと耐性つけとかないとやばいね。あたし、佐伯のことちょー大好きだからさ。鼻血出ちゃったの、サエキミンの過剰摂取で中毒になってたんだと思う」
「そんな真面目な顔で、謎物質の考察やめてくださいよ」
「ほんとさぁ、鼻血さえ出なかったらなぁ……」
「むしろ僕は感謝しています。本気で危なかったので」
「これ食べたら、気を取り直してえっちする?」
「しません」
「ケチー!」
ムーッと頬を膨らませる天城さん。
一週間前まではこういうやり取りをよくしたなと懐かしさを食み、日常が戻って来た嬉しさに口元が緩む。
パフェをひと口頬張ると、彼女の表情は元通り。ニコニコと爛漫に笑って、ただひたすらに光を咲かせる。それを見て、一つの思いが胸の内側を優しく吹き抜けてゆく。
――ずっとそばで、笑ってて欲しい。
我ながら、これじゃあプロポーズだなと苦笑する。
でも、仕方ない。
久しぶりの温もりが、あまりにも心地いいのが悪い。
「…………ん?」
ふと、ベッドのそばに何かが落ちていることに気づいた。
何だこの白い布……って、こ、これ!?
「あ、天城さん!! もしかして、今……!!」
「え? 何それ……ん? あ、やばっ」
「やば、じゃないですが!? 何でノーパンで平然としてるんですか!?」
「いやだって、見せる覚悟はいつでもしてるし。見せられないような身体もしてないし。……もしかして、見たい?」
「わぁー!? ちょ、ちょっと、スカートめくらないでください!!」
「うひひー♡ 反応よすぎー♡」
……役作りが終わったってことは、またこういう感じの天城さんに戻るってことだよな。
ちゃんと今年いっぱい耐えられるのかな、僕……。