第1話 佐伯さん
十一月中旬。
「――佐伯っ!!」
どんよりとした鈍色の空。
今日の最低気温は七度とここ最近では最も低く、そのせいかどこか元気のない教室。
そこへ響いたいまだ夏色全開な声に、誰もが僅かに口角を上げた。
「すっきぃ~~~~~~~♡♡♡」
授業終わり。
今日も今日とて、僕を迎えに来た天城さん。
扉を開くなり駆け出し、風が小麦畑を撫でるように黄金の髪が舞った。
甘く爽やかな匂いと共に、ドンッと身体に衝撃。僕の懐に潜り込み、両腕を目一杯伸ばして抱き着く。
「うわっ、ちょ! いきなり何ですか!?」
「佐伯、ぬくぬくだーっ! カイロだぁー!」
「み、皆が見てますから……って、くふっ、あははは! 脇腹っ……や、やめて……っ! へ、変なとこ触らないで……!」
「女の子みたいな声出しちゃってー♡ かぁわいいー♡」
「可愛くっ、ないですっ、あひっ、あはははっ!」
あっちをまさぐりこっちをまさぐりの大忙し。
悶え苦しむ僕を、赤い瞳が見上げた。
ハイビスカスみたいに愉快な紅の瞳は、僕だけを映して輝く。
楽しそうに、愛おしそうに。
「お前ら、外でやってくれよー」
「佐伯君ってば、いい加減に付き合ったら?」
「……マジでな。何かムカついてきた」
クラスメートたちから呆れられたり、冷やかされたり、怒られたり。
だけど、それら全てには愛があった。
でも、どう返せばいいかわからなくて、僕はただはにかみつつ、
「ばいばい、佐伯君!」
わざわざ手を振ってくれた何人かに手を振り返して、天城さんと一緒に教室を出た。
「外寒ぅー! これでまだ十一月とかやばくない!?」
「また体調崩さないように気をつけなくちゃですね」
「ほんとだよ! ――ってなわけでさ」
「はい?」
差し出された手のひら。
ムッフー! と、何かを期待して荒ぶる鼻息。
小さくため息をついて、僕はその手を取った。
「うひひー♡ 佐伯、手もポカポカだぁー♡」
「……か、風邪をひかないために、仕方なくですよ。これは仕方なく、なので……」
「言い訳上手くなってきたよね。もう付き合っちゃう?」
「付き合いません」
「んもぉー!!」
帰路につく。
手を繋いで、歩幅を合わせて。
更なる熱源を探るように、天城さんの手がモゾモゾと動いた。僕の指を丁寧に絡め取って、恋人繋ぎの出来上がり。
お互いに汗ばんで、混じり合って……それが少し、嬉しい。
彼女も同じ気持ちなのか、こちらを見上げて笑った。白い歯を覗かせて、黄色い感情をまき散らした。
「こうやって帰るの、楽しいね!」
「それはよかったです」
「佐伯も楽しいでしょ?」
「……まあ、否定はしませんけど……」
「ハッキリ言わなきゃ、無理矢理ちゅーするよ?」
「どんな脅しですか!? ダメに決まってるでしょ!」
軽く唇を尖らせて、ジトッとした目で僕を見る。
今にも飛び上がって、本当に襲い掛かって来そうな気迫がある。
あぁもう……仕方ないひとだな。
「た、楽しいです……すごく、楽しいですよっ」
「へっへー♡ だったらぁ、もっとくっついたら、もっともぉーっと楽しいよねぇー♡」
と言って、僕の腕に抱き着いた。
コートと制服越しでも確かに感じる、彼女のやわらかさ。
嬉しさと、それに伴う罪悪感。
異性の温もり。
歩きにくい。とてもとても。
でもその不自由に、凄まじい価値を感じてしまう。
腕を引っ張られ、重心が左に寄り、彼女と顔が近づく。悪戯っぽく少しだけ覗かせた舌先に、痛いほど心臓が高鳴る。
「佐伯っ」
「何ですか?」
「大好きだよぉ~♡」
「……は、はいはい……」
今日までに何度言われたかわからない台詞。
いまだ完全には慣れないため、受け流しつつも照れてしまう。
だって、仕方ないだろ。
天城さんは可愛くて。
とにかく可愛くて。
本当に可愛いのだから。
『――佐伯のこと、好きになっちゃった!!』
九月。
彼女の告白から始まった、今の生活。
刺激的で魅力的な、平熱の日々。
ずっとこの時間が続くような気がしたし、このまま続けばいいと僕は思っていた。
だけど。
今より二週間後。
二学期最後の定期試験が終わり、十二月に入ったところで。
僕の生活は、一変する――。
今年最後の期末試験の結果は学年四位と、前回から二つも順位を上げた。
死に物狂いで勉強したわけではなく、家事やバイトや天城さんとの生活を健康的に両立しながらこの順位。
本当に、本当に、天城さんには頭が上がらない。
言うまでもないが、当の彼女は今回も全教科満点でぶっちぎりの一位。
もう殿堂入りってことにして、僕たちと同じランキングに含めるのはやめてくれないかな。こんなのスポーツカーとママチャリでスピード勝負してるみたいなものだろ。
「セイ様ー!! ウインクくださーい!!」
「ウインク苦手なんだよね。できるようになるまで、マンツーマンで教えてくれる?」
「「「「「きゃあ~~~~~!!」」」」」
「セイ様セイ様! ぎゅ、ギュッて! 抱き締めてください!」
「ダメだよ。それでキミがドキドキして死んじゃったら、私、とても悲しいから」
「「「「「きゃあ~~~~~!!」」」」」
早朝のバイトが終わり、その足で学校へ。
教室にいたのは、『ファンサして』『指ハートして』などなど、セイ様こと昴を囲んで推しうちわを手に熱狂する女子たち。
何人かがバタバタと失神したところで、残りのメンバーは倒れた者たちを担いで保健室へ連れて行く。
珍しくとも何ともない、うちのクラスの名物である。
「おはよう、昴」
「やあ真白、おはよう。今日は一段と寒いね」
暖房の効いた教室内。
期末試験が終わり、あとは冬休みを待つだけということで、どこか腑抜けたクラスの空気。皆の緩んだ顔つき。
だけど昴はまるで変わらず、相変わらずの凛とした雰囲気。キラリと白い歯が輝くイケメンスマイルを炸裂させて、机の横にかけていた紙袋を僕に渡す。
「え、なにこれ?」
「昨日、仕事で北陸の金沢に行ってね。有名な和菓子屋さんがあったから買って来たんだ。キミ、こういうの好きかなと思って」
「ってことは、お土産!? 昴が僕に!?」
「……きゅ、急に大きな声を出さないでおくれよ。お土産くらい、珍しくとも何ともないだろ」
「いやいやいや、小学生以来だよ!? もう何年も貰ってないよ!?」
仕事の都合上、年に何度も地方や海外へ行く昴。
お返しが難しいから別にいいといくら言っても、仲良くなってからの数年間は毎度の如くあれやこれやを買って来てくれた。
そんな文化も次第に薄れ、中学校へあがる前には消滅。
僕自身はそれでいいと思っていたし、だからこそ、このお土産には驚きしかなかった。
「本当にタダのお土産? 触ったらビリビリするとか、爆発するとか、そういう仕掛けがあったりしない……?」
「そこまで疑うこと!? 大体、真白にドッキリを仕掛けて誰が喜ぶのさ!」
「昴は喜ぶでしょ。似たようなこと、今まで散々やってきたくせに」
「…………ひゅ、ひゅー」
「否定できないからって、下手な口笛吹くのやめなよ」
女の子全員にとっての王子、クールでカッコいいセイ様――のイメージが全て崩れ去るような、間抜けな視線そらしと鳴らない口笛。
なるほどな。またタチの悪いイタズラを思いついたわけだ。
僕はため息を一つ落として、受け取った紙袋を彼女につき返す。
目に見えている地雷を踏み抜くほどバカじゃない。
「…………」
「昴?」
「…………」
彼女は受け取らない。
その代わり、青い瞳でどこか悲し気に僕を見て、フッとすぐにそらす。
「……こ、この前の……」
「この前?」
「文化祭の、打ち上げ……誘ってくれたの、嬉しくて……」
天城さんのお母さんがやって来て、ひと悶着あった文化祭。
その打ち上げに、僕は当日参加していなかった昴を半ば騙す形で呼び出した。昴が喜ぶと思って、ワガママを通した。
「それに、すごく楽しかったし……でも何か、お礼言うタイミング逃しちゃって、どうしようかなって悩んでて……っ」
ぽつり、ぽつり、と。
親に怒られた子どもみたいな小さな声で、必死に言葉を紡いでは落としてゆく。
「……時間経っちゃったし、今更ありがとうって言っても変な感じするし。だ、だから、代わりにお土産あげたら、喜ぶかなって……真白の好きそうなの、見つけたから……」
ここまで言われて、僕のデキの悪い脳みそはようやく理解した。
あっ……これ、ガチだ。
本気で悩んで、本気で僕のことを考えて、わざわざ買って来てくれたやつだ。
たらりと、背筋に冷や汗が走った。
昴の厚意を疑って、挙句突き返して……自分の失礼具合に眩暈がする。
「あ、ありがとう、昴っ! 本当に昴は、僕の好みがよくわかってるよね!」
「……別に返してくれていいよ。いらないんでしょ?」
「いるいるいる! いります! ってか、ください! お願いします!」
いじけていた。
もう完全に、いじけた顔をしていた。
普段の輝きはどこへやら。
年相応の、どこにでもいる十六歳の少女が、そこにはいた。
これはまずい……。
どうにかして、機嫌をとらなければ。
「あっ……そ、そうだ!」
「……ん?」
「疑っちゃったお詫びに、久しぶりに何か作るよ……! 昴の好きなもの、何でも……!」
中学校の頃までは、たまにうちでご飯を食べていた。
僕の作るものを好きだと言ってくれた。
だから喜んでくれるんじゃ……と思ったが、彼女はジトッと僕を見たまま動かない。
五秒経ち、十秒経ち……。
ようやく、への字に曲がった唇が少しずつ緩み始める。
「……じゃあ、お弁当」
「へっ?」
「私のお昼ご飯、作って」
「別にいいけど……これから毎日ってこと?」
「嫌なの……?」
「い、いえまったく!! 光栄です!!」
ギロリと睨まれ、僕はすぐさま背筋を伸ばした。
お弁当か……まあ、二人分作るのも三人分作るのも手間は一緒だしいいか。むしろ、満漢全席を作れとかって無茶ぶりされなくて本当によかった。
「でも、何で急に? 昴のお弁当、いつも美味しそうなのに」
「……だって……」
「だって?」
長くしなやかな指で毛先をいじる。
くるくると、落ち着かない子どものように。
「有咲ちゃんばっか、ずるいもん……」
と、呟いた。
小鳥の囁きのように、小さく。子供じみた口調で。
瞬間、昴は「あっ」と上擦った声を漏らし、目を見開いて口を手で覆った。
頬の上を朱色が疾走する。
ぱちりと瞬いて、僕を見た。王子でもセイ様でもない、クールさの欠片もない瞳が、僕を映した。
「痛っ……!!」
突然、昴がこちらへ手を伸ばした。
その手の行き先は、僕の鼻。
グッとつまんで、自分の方へ引き寄せる。恐ろしいくらいに綺麗な顔がすぐ目の前にあって、僕の頬にも熱が回る。
「とにかく、私にもお弁当っ……わかった?」
「……わ、わかりました……!」
返事をして、数秒見つめ合って。
彼女はフッと鼻を鳴らして僕を解放し、「よろしく頼むよ」と一転してイケメンスマイルを炸裂させた。
「……ん?」
ふと、時計を見た。
時刻は午前八時頃。
おかしい……早朝バイトで一緒に登校できない時は、いつもこれくらいの時間に天城さんが教室にやって来る。
勢いよく扉を開いて、僕に朝の好きを言う。
なのに、今日はそれがない。
「おや? そういえば、今日は有咲ちゃんが来ないね」
「あぁ、うん……僕も今、それに気づいてさ。今日、仕事だったりするのかな……」
「私に聞かれても困るよ。彼女のスケジュールは、キミが一番詳しいんじゃないか?」
その通りだ。
いつもお弁当を作る都合上、仕事で学校に来られない日は事前に聞いている。
スマホでカレンダーを確認するが、今日は何もないはず……。
単に学校に来るのが遅れてるだけ? それとも、自分の教室で何かやってるのかな。課題とか、授業の準備とか。
「……もしかして……」
ふと、彼女が熱を出して倒れた日の記憶が頭の中を走り去った。
一人暮らしだと、家の中で意識を失ってもすぐにそれに気づくひとはいない。
学校に行こうにも行けず、家で一人助けを求めているかもしれない。
「ちょっと僕……天城さんの教室、見てくるよ」
「うん、行ってらっしゃい」
いるならいるで、それでいい。
でも、もしもいなかった時は……一応、電話してみよう。
「いやー、すごかったな」
「別人過ぎて誰かわからねえよ」
「俺はあっちの方がタイプかも」
向こうから歩いて来た、やけに楽しそうに話し合う同級生の男子三人組。
そのうちの一人がこちらに気づき、「あれ、お前の趣味か?」と意味不明なことを言って僕の肩を叩いた。
「趣味? えっ、何が?」
「誤魔化すなよ。いいと思うぜ、俺は」
「誤魔化すって……えぇ?」
ニヤニヤと笑って、三人は去って行った。
何だ今の……と疑問に思いつつ、天城さんがいる一年五組に近づく。
……何か今日、やけに賑やかだな。
教室の出入り口には、五組以外の生徒がたくさん溜まって中を覗いていた。彼ら彼女らの隙間を通って、どうにか教室内へ身体を捻じ込む。
そして、僕は固まった。
天城さんの席に、天城さんが座っている。
当たり前の光景なのに、僕は開いた口が塞がらない。頭の中が真っ白になって、上手く声が出ない。
天城有咲。
金髪とピアス、派手なメイク。可愛さのためなら校則など微塵も気にしない、うちの学校を代表するギャル。
なのに。
それなのに。
今の彼女は違う。
何が違うって、全部違う。
――黒髪だった。
――天城さんが、黒髪になっていた。
艶やかな黒髪ロング。
化粧も落ち着いていて、ピアスもない。
……何か既視感あると思ったら、これ、天城さんのお母さんだ。
文化祭に現れて、天城さんと喧嘩して、仲直りしたあのひと。天城さんの属性をそのまま反転させたような、凍てつく清楚美人。
「あっ、佐伯さん。おはようございます」