第31話 恋してる
駐車場の一角で叫ぶその姿は、空気感は、先ほどとはまるで違っていた。
あぁ……と、僕は内心納得する。
これ、天城さんだ。彼女がまとう雰囲気と一緒だ。
学校と今とで、どうしてこうも違うのかわからない。
でも、一つ安心した。
『ママはあたしのこと嫌いみたいだし……だから、話したくない! 一生やだっ!』
いつかの天城さんの言葉。
今のを聞く限り、彼女がお母さんから嫌われている、という事実はおそらくない。
「ママ……?」
天城さんの声に、お母さんはバッと振り返った。
学校で見た氷のような無表情とは程遠い、焦りと困惑の顔。
大きく目を剥いて僕たちを交互に見て、猛獣から逃げ出すように音を殺しながら後退る。
「も、もう何も言わないから、アタシのこと嫌いって言わないで!! ごめんねっ、ダメなママでごめんねー!!」
「ちょ、ちょっと、ママ!?」
涙目で何かを叫んだかと思ったら、勢いよく車に乗り込み、エンジンをかけて発進。
このままだと、何が何だかわけがわからないまま、どちらも何も得をしないまま終わってしまう。
僕にできること……。
何かできること……。
考えて、考えて、考えて。
――走り出した車の前へ、身体を放り出す。
「うわぁああああ!! さ、佐伯ぃいいいい!?」
ゴンッ、と全身に強い衝撃。
不思議と痛みを感じない。
でも意識が抜けたみたいに、脳みそと手足を繋ぐ線が切れたみたいに、上手く身体が動かない。
「何してるの佐伯!? 何しちゃってるの!?」
「ど、どうしよっ! そうだ、警察っ!! アタシ、自首しなきゃ!!」
「救急車!! ママ、先に救急車呼んで!!」
「そそそそっ、そっかそっか! 救急車……って、何番だっけ!?」
天城さんのお母さんが車から降りて来て、僕の頭の上で騒ぎ始めた。
……凄まじくうるさい。
この二人、声まで似ているせいか、天城さんが二人に増えたみたいに感じる。
「だ……大丈夫、ですっ。別に何ともない、ですから……!」
どうにか立ち上がり、小さく息をついた。
鼻血を手の甲で拭い、バッと天城さん方へ向く。
「僕の心配より、やるべきことがあるでしょ!」
「えっ……?」
「そのために、追いかけて来たんじゃないんですか!」
お母さんは止めた。今のところ、僕にできるのはここまで。
ここから先に進めるのは、天城さんしかいない。彼女が行かなければ意味がない。
手を取って、軽く引く。お母さんの方へ近づけて、大丈夫だよと笑いかけ頷く。
「……っ」
彼女も頷き返して、その視線はお母さんへと向いた。
僕はその手を離して、一歩後ろへひく。
「あの、その……ママ……!」
僕への心配でいっぱいだったお母さんだが、娘が目の前に来て顔色を変えた。
「ごめんなさい!!」
勢いよく頭を下げた天城さん。
お母さんは目を見開いて、小さく口を開いて固まる。
「嫌いって言ったの、嘘だから! 本当は好きだから!」
お母さんの手を握り、勢いよく迫る。
いつか僕にやったみたいに、いつも僕にやっているみたいに、全力で言いたいことを言って、全力でやりたいことをやる。
「ずっとずっとずーっと好きで、憧れだから……あたしの芸名、天城アリスなんだよ!! ママのこと、好きっ!! 大好きっ!!」
お母さんの両の瞳に涙が浮かぶ。
このひとにはこのひとなりに事情があって、本意ではないのにどうしようもなくて、天城さんに辛く当たっていたのだろう。
家族なのだから、色々あって当然だ。
何より、あの天城さんが娘なわけだし。……苦労しただろうな、本当に。
「うっ、うぅ……!! あ、有咲ぁああああ!! ごべぇええええん!! ママも大好きぃいいいい!!」
天城さんを抱き締めて泣く。子どもみたいに、バケツをひっくり返したみたいに。
つられて天城さんも泣き出し、何だ何だと通行人が集まってきた。
よくわからないけど……仲直りできた、ってことでいいのかな。
僕のやったことに、どれほどの意味があったのかはわからない。
放っておいても仲直りしたような気はするし……というか、天城さんなら上手くやる。
そうとわかっていても、達成感があった。
正しいかどうかわからないけど彼女の手を引いて、正解かどうかわからないけど走り出してよかったと、淀みなくそう思う。
ぐるぐると、お腹が鳴った。昼食が足りないぞと、胃袋が主張する。
その音が大きかったのだろう。二人はピタリと泣くのをやめて、ジッと僕を見た。
「あっ、えっと……文化祭に戻って、何か食べますか……?」
その提案に、二人は揃って首を縦に振った。
◆
一旦文化祭に戻って、三人で軽食をとって。
そのあとすぐ、ママは帰った。これから仕事があるらしい。
「何か……ご、ごめんね。せっかくの文化祭なのに、わけわかんないことに巻き込んじゃって……」
「気にしないでください。僕が勝手に首を突っ込んだだけなので」
グラウンドの隅の木陰。
行き交う人々を楽しそうに眺める、佐伯の横顔。
不意に目が合って、なぜだかやけに恥ずかしくて、ふっと逸らす。
「どうかしました?」
「えっ? いや、べ、別に!?」
「本当ですか? お母さんのことで、まだ気になることとか?」
「あるけど、それはこっちで聞くから大丈夫! 別に今、それは関係ないから!」
ずいっと、彼の顔が迫る。
嬉しい。嬉しいのに、恥ずかしい。自分の制御が効かないほど心臓が高鳴って、体温が一気に上がる。
「顔、赤いですよ。体調が悪いなら保健室に――」
「いいから! ちょー元気だし! ってか、佐伯こそちゃんと診てもらいなよ!」
「あー……まあ、考えておきます」
面倒臭がって何もしない顔だな、とすぐにわかった。
ジトッと見つめて、さっきから様子のおかしい肩のあたりをつついた。「痛っ!」と声を漏らし、気まずそうに頭を掻く。
「病院、ちゃんと行くんだよ?」
「……わ、わかりました」
頷いたのを見届けて、小さく息をついた。
吐いた息を、木枯らしが絡め取ってゆく。風は冷たいのに、胸の中が熱くて全然寒くない。彼が隣にいるだけで、軽く汗ばむ。
「あの……さ……」
「はい?」
「ありがとね。あたしのこと……無理やり、連れ出してくれて」
もういいとあたしがいじけた時、彼が手を引いてくれなければ、たぶんあたしは完全にママと決別していた。
納得していないのに、納得したフリをして、逃げたと思う。
彼がそれを許さなかったから、今こうして晴れやかな気持ちでいられる。
何の後ろめたさもなく、笑うことができる。
あたしのことを強引に引くあの背中が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
たぶんこれは、一生残る。そんな気がする。
「あたし、佐伯のこと……もっとす……すっ……!」
――もっと好きになった。
その一言が、出ない。
なぜ、どうして。
わからない。好きなのに、すごく好きなのに、舌の付け根のあたりでうずくまっている。
汗はとめどなく湧くけど、口の中はやけに乾く。
「気にしないでください」
と言って、佐伯は笑った。
冬の月みたいに、静かに。暗い夜道を照らすような、確かな頼り甲斐をにじませて。
「僕はただ、前向きな天城さんが好きで、それを守りたかっただけですから。笑ってない天城さんとか、見ていられませんよ」
好きと言われた。
変な意味はないとわかっているけど、悶絶しそうなくらいに嬉しい。
声が出ない。
彼を、直視できない。
せめて、その手を握ろう。あたしの気持ちが少しでも伝わればいいと、そう思って。
彼の手まで、わずか十数センチ。
造作もない距離。
でも今は、これがあまりに遠い。錆びたみたいに、身体が上手く動かない。
「こう、ですか?」
「――――っ!!」
あたしの意思を汲んで、向こうからこっちの手を取った。
大きい。適度に骨ばっていて、硬くて、熱い。
手放したくない。
あたしのものにしたい。
それと同じくらい、このままもう一度強引に連れ出して、そのまま攫って欲しくなる。
「さ、佐伯……っ」
声を絞り出す。
顔が火照る。
彼の視線が痛いくらいに嬉しくて、堪らない。
「あたしも好き……大好き、だよ!!」
返答はない。
ただ困ったように眉を寄せて、頬を染めて、小さく笑う。あたしの手を、強く握る。自分も同じ気持ちだと言われているような気がして、正常な表情をたもてない。
どうしてこうも照れてしまうのか理解した。
ダメだ。これ、ダメなやつだ。
あたし……佐伯のこと、もっと好きになっちゃってる。
もっともっともっと、好きになっちゃてるんだ。
取り返しがつかないくらい。
このひと以外を見ることすら、億劫なくらいに。
――全力で、恋してる。