第3話 よろしくお願いします
「え、佐伯?」
「何であいつが……?」
「もしかして、付き合ってんの!?」
ざわつく教室内。
刺々しい空気をまるで気にしていない天城さんは、飼い主を見つけたゴールデンレトリバーのように僕の元へ駆け寄る。
「ねねっ、一緒に帰ろ!!」
「ちょっ……あの……!」
「帰ったら、佐伯の部屋行ってもいい? それとも、うち来る?」
「いや、だから……!」
僕、断ったよな!?
好きになってもらえるように頑張らせてとか、そういうのは勘弁して欲しいって言ったよな!?
「い、委員会の仕事があるから、ちょっとそれは……」
「おっけー! じゃ、玄関で待ってるね!」
咄嗟に嘘をつくと、天城さんは一方的に捲し立てて去って行った。
クラスの男子たちは僕に殺意を向けたままだが……まあ、これはもう諦めよう。僕じゃどうにもできないし。
「……よし、帰るか」
彼女には悪いが、こっそり裏門から出るとしよう。
向こうも三十分くらい待って来なければ、勝手に帰るはず。
ついでに僕に幻滅して、もう好きなんて言わなくなってくれれば万々歳だし。
無事一人で学校を脱出し、帰宅してから一時間が経った。
廊下を歩く音、ドアノブに鍵を挿す音、扉を開く音。
天城さんが帰ってくれば聞こえるはずの音が、待てど暮らせど聞こえない。
「あっ」
窓の外を見て声を漏らす。
雨が降って来た。予報にはなかったのに。
ポツポツとささやかな雨はあっという間に本降りに変わり、日差しを隠して暗がりに染まった。
普段は何とも思わない音が、今は堪らなく耳障りだ。
教科書の内容が頭に入って来ない。
トツトツと雨粒が屋根を叩く音と同時に、脳みそから勉強したことが抜け落ちてゆくような気がする。
天城さんの顔が、脳裏でチラつく。
――折り畳み傘を常備していて、問題なく帰ってこられるかもしれない。
――そもそも適当なところで切り上げ、遊びに行っているかもしれない。
――友達と合流して、僕の悪口で楽しく盛り上がっているかもしれない。
だけど、
「まだ、待ってる……かもっ」
そう独り言ちて、ペンを置いて。
うがーっと、頭を掻く。
何でこんなことで悩まなくちゃいけないんだ!
助けたら勝手に惚れられて、落とすとか宣言されて!
ちゃんと断ったし、なのに天城さんは諦めてないし、一緒に帰るとか言い出すし!
「あぁもう!! こんなので勉強になるか!!」
僕のどこに落ち度があるのかわからないが、どうしたって噴き出す罪悪感に背中を押され部屋を飛び出した。
三十度を超える暑さと、不快な湿度。
差した傘よりも先に身体が前に進み、顔に雨粒が当たる。
ぬるい。
水溜まりを踏んでズボンの裾が濡れ、靴に水が染み込む。
ぐにょぐにょと、一歩踏み出すごとに滑稽な音を鳴らす。
学校から帰って来て、かと思ったらまた向かって、本当にバカみたいだ。
こんな間抜けなことをするなら、最初から素直に断っておけばよかった。
ハッキリと言うべきだった。
ひたすらに、天城さんがそこにいないことを願う。
僕に呆れて、うんざりして、嫌って、どこかで楽しく笑っていてくれていることを切望する。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
校門を抜けて、立ち止まって、息を切らす。
雨の中でも星のように輝くそのひとを見て、ハッと息を飲み、鈍い頭痛に襲われる。
「な、何で……っ」
いた。
壁に寄りかかってしゃがみ込み、ぼーっと雨雲を見つめる天城さん。
そっと近づくと、彼女は途中で気づいて腰を上げ、「あれ?」と首を傾げる。
「委員会の仕事は? てか、それ私服? なにそれウケる~!」
部屋着のネタTを見て、くすくすと笑う。
僕は息を整え、目に入りそうな汗を手の甲で拭う。
彼女を見つめ、奥歯を噛み締める。
「……何でそんな笑ってるんです。この格好見たらわかりますよね!? 天城さんのこと放っといて、一人で帰ったんですよ!」
「でも、こうして来てくれたじゃん。雨が降り出したから、心配してくれたんだよね」
「そ、そりゃあ、誰でもそうしますって!」
「誰かの心配をして雨の中を走るとか、誰でもできることじゃないと思うよ」
と言って、僕に歩み寄り。
汗でべっとりと濡れた背中に腕を回し、鎖骨のあたりに鼻先をつけた。
「ちょ、っと……!」
身体の正面に感じる暴力的なやわらかいものに、息が詰まりかけた。
後ろに下がろうにも彼女の腕がそれを許さず、身体を仰け反らせればそれだけ密着してくる。
汗が、雨が、鼓動が。
彼女に、染み込む。
「ふふーん、これが佐伯の匂いかぁ♡」
「や、やめてください! 汗かいてるし、く、臭いからっ!」
「頑張って走ってくれたひとの匂い。あたし、好きだよ」
ふっと見上げて、唇で弧を描いた。
「……すっごく、好き♡」
大きな瞳がぱちりと瞬き、そこに僕だけを映して満足そうに鼻を鳴らす。
頭がくらくらしてきた。
いつの間にか呼吸を忘れていたようで、一気に息を吸う。その際、梨のような瑞々しく甘い天城さんの匂いも一緒に取り込み、それは熱となって全身が火照る。
「あたしやっぱり、佐伯と付き合いたい!」
ぱっと身を離して、悪戯っぽく笑った。
一拍遅れて正気に戻った僕は、「だからぁ」と頭を掻く。
「嫌がってるひとに、まとわりついたりしないよ。交渉材料があるの!」
「こ、交渉?」
「大変だったんだよー。今日一日、授業も休み時間も全部潰して作ったんだから!」
「作ったって、何を……?」
ガサゴソと鞄を漁り、真新しいノートを取り出した。
それを受け取り、中身を確認する。
書かれていたのは、数学の解説。
しかも、まだ授業でやっていない範囲。
少し読めばわかるが、かなりわかりやすい。
この手の教材はいくらか買ったが、今まで読んだ中で一番だ。
「勉強が大変だから、あたしにちょっかい掛けられる余裕がないんだよね。だったら、テストで点数取れるように協力してあげる。あたしの授業、結構わかりやすいと思うよ! わりと高額で、個別家庭教師のバイト請け負ってるくらいだし!」
少し勘違いしているようだが、提案自体はかなり魅力的だ。
このノートの内容、たった数時間で作ってしまう手際、並の技術ではない。彼女に教えてもらえるなら、どれだけ生活が楽になるか。
「とりあえず、これは一旦没収ね」
「えっ」
「佐伯はあたしから勉強を教わる! その代わり、あたしは佐伯を惚れさせるために何してもいい! ねっ、悪い話じゃないでしょ?」
ふふんと鼻を鳴らして、奪ったノートを抱き締めた。
――何しても、いい。
甘く蕩けるような響きに一瞬心が持って行かれそうになるも、寸でのところで唇を噛み踏みとどまる。
「……ぼ、僕だって勉強を教わりたいですが……」
「じゃあ、交渉成立?」
「無理なんです! 親から一人暮らしの条件として、勉強しろとか、バイトしろとか言われてて! 不純異性交遊をしたら、即実家に連れ戻されるし……!」
「あたしに勉強を教わるのって、不純なことなの?」
「……えっ?」
「ただ単純に、佐伯のことが好きな友達が一人できるだけだよ。その子と一緒に勉強するのって、不純なこと?」
不純に決まってるでしょ、と言いかけて。
ふと、はたしてそうなのかと立ち止まる。
不純異性交遊はダメだと言われたが、別に異性の友達を作るなとは言われていない。
性的な関係にならなければ、問題はないだろう。
……しかし、僕は耐えられるのか。天城さんからの誘惑に。
耐えられるかどうかの話をするなら、この身体もそうだ。
バイトに次ぐバイト、寝る間を惜しんでの勉強。
高校生活が始まってまだ半年なのに、もう身体が悲鳴をあげている。今年一年はいいかもしれないが、卒業までもつ気がしない。
しかし天城さんの助けがあれば、まず間違いなく勉強には困らないだろう。
で、でもなぁ……。
「お願いっ!!」
声を張り上げて、深々と頭を下げた。
「いい成績取るために――」
顔を上げながら言って、上目遣いで唇を僅かに尖らせ、切なそうな表情を作る。
「あたしのこと、好きに使っていいからさぁ!」
勘違いを誘う言葉選び。
外気に触れた胸元。
首筋から滲んだ汗が皮膚を伝い、谷間の暗がりへと落ちてゆく。
……だ、ダメだ。
可愛い。可愛過ぎて、眩暈がする。
いけないとわかっていながら、口が勝手に言葉を紡ごうと開き出す。
やめろと命令しても突っぱねられ、もう止まれない。
「あ、は、はい。じゃあ……よ、よろしくお願いします」
気がつくと、僕は頭を下げていた。