第29話 内履きのまま
「有咲ちゃん? ここへは来てないし、そもそも受付の仕事とか任せてないよ」
「……は、はい?」
何度か叩くうちに鍵がしまり、さてこれからどうしたものかと悩んだ末、お化け屋敷へと向かった。怖がりの天城さんが責任者となって作り上げたお化け屋敷が、一体どういうものなのか確かめたくて。
だけど、受付に座っていたのは天城さんの友達。
彼女がどこへ行ったのか尋ねると、まったく予想していなかった答えが返ってきた。
「いやでも、言ってましたよ? 仕事があるからって……」
「んー……でも、ないもんはないからねー」
一体何がどうなっているのかわからない。
僕と一緒にいるのが嫌になって嘘をついた……と、ちょっと前までの僕なら考えただろう。でも今は、こと天城さんに限って、そんなことはしないと断言できる。
「あっ、佐伯君だ!」
「やっほー、おつかれ。佐伯君とこの揚げパン、美味しかったよー!」
いつも天城さんと昼食をとっている二人がやって来た。「来るの遅い!」と受付のひとが声を荒げ、二人は笑いつつも申し訳なさそうに席に着く。仕事の交代に来たらしい。
「あの……天城さんがどこに行ったか知りませんか?」
「有咲ちゃん? あー、さっき玄関で見たよ」
「メチャクチャ綺麗なひとと喋ってた」
「綺麗なひと……?」
聞き返すと、二人は揃って頷いた。
「あれ、有咲ちゃんのお母さんかな?」
「どーだろ。全然雰囲気違うくない?」
「いやでも、顔はちょー似てたし……って、あれ? どうしたの、佐伯君?」
点と点が繋がった。
二人にお礼を言って、踵を返し走り出す。
『どうかしました?』
『……え? ううん、何でもない!』
あの時の表情の意味を、ようやく理解した。
うちの文化祭は、外部からのお客さんも大勢来る。生徒の保護者だって例外ではない。
きっとあれは、天城さんのお母さんからの連絡。今日来ると、会いたいと、そう言われたことでの表情だろう。
以前、僕といる時に電話がかかってきた。だけど、彼女は出なかった。
たぶん、感情的になってしまうから。
怒っている自分を、僕に見せたくないから。
彼女の思いを汲むなら、僕は足を止めるべきなのだろう。母親との会話を終えて戻ってきた彼女を、何でもないように受け止めるべきなのだろう。
でもそれは、天城さんのためにならないと思った。
傲慢だと自覚しているが、僕にできることが何かあると思った。
前を向く。一歩踏み出す。
彼女がくれた勇気を、自信を、精一杯振り絞って。
「……っ」
玄関に着いて、息をのむ。
暗い表情をする天城さんと対峙するのは、呼吸も忘れるくらい綺麗な女性。
艶やかな長い黒髪。グレーのパンツスーツ。昴と同じくクールな空気を纏うが、その冷たさは桁違いで氷の女王のよう。
顔のパーツの全てが、凍り付いたみたいにピクリとも動かない。
天城さんとの類似点がまるでないように思うが、確かに顔は同じだ。
彼女を黒髪にして、天真爛漫さを抜いて、より大人にした感じ。
完全に真逆の属性。
他人に対してこういう感想を抱くべきじゃないとは思うが……正直言って、怖い。
「放っといてよ!!」
声が響く。
生徒や来場者が行き交う玄関に静寂が訪れ、誰も彼もが天城さんたちを見る。
「あたしのことが気に入らないなら、そう言えばいいじゃん!? もう帰って!!」
モルタル仕立ての床に、一滴の涙が落ちた。
「ママなんか、大っ嫌い!!」
僕はその音を、聞き逃さなかった。
◆
佐伯と文化祭を楽しもうと思った矢先、ママからメッセージが届いた。
――今日、会いに行く。
普段まったく電話に出ないから、ついにしびれを切らしたのだろう。
ママは苦手だ。あたしのことを、いつも否定するから。
でも、学校まで来られてはお手上げ。逃げたところで放送なり何なりで呼ばれるし、そのせいで佐伯に余計な心配をかけたくない。
だから今日は、大人しく会うことにした。
「久しぶりね、有咲」
「……う、うん」
表情らしい表情がまったくない顔。
何を考えているのかさっぱりわからず怖い。……昔は、こんなんじゃなかったのに。
「今日は……ど、どうしたの?」
「どうもこうも、親が子どもの様子を確認するのに理由なんかないでしょ。あなた、ただでさえアタシからの連絡を無視するのに」
「……ごめん」
「元気?」
「あっ……げ、元気だよ?」
「ご飯、食べてる?」
「……まぁ、一応……」
「でも、少し痩せた気がする」
「モデルだし……体型、気にしないと……」
淡々と。
氷上を滑るような、抑揚のない声。
緊張する。
何でもないやり取りなのに、むしろあたしを心配してくれているのに、怒られている気がしてしまう。
「モデル、いつまで続けるの?」
平坦な声に、少しだけトゲが混入した。
赤みがかった冷ややかな目が、あたしを見下ろす。佐伯にもらったブレスレットに触れて、怖気づきそうな心に鞭を打つ。
「……その話、今まで散々やったじゃん」
「いつまで続けるの?」
「だ、だから……っ」
「いつまで?」
「いつまでとかじゃなくって……た、食べていけるようになるまで! 安心して、ママには迷惑かけないから!」
無言。
ひたすらに、無言。
嫌な汗が出る。息が詰まる。視線が重くて、痛くて、逃げ出したくなる。
「ってか、ちゃんと一人で暮らしていけてるし、成績だって一番だし、文句言われる筋合いないじゃん! ちゃんといい大学に行くし、学費だって一人で何とかする! これでまだ文句あるの!?」
ふぅと、ママはため息をついた。
眉を寄せる。なまじ顔が綺麗なせいで、たったそれだけで凄まじい迫力がある。
「知らないと思っているの?」
「……何を?」
「お婆ちゃんから仕送りをもらっているでしょ。一人で暮らしていけてないじゃない」
「ち、違っ……! 向こうが心配して、勝手に振り込んでくるだけだし! しかもそれ、一円も使ってないから!」
「本当に? でも、お金に困ったら使うんでしょ?」
「使わないよ!」
言い放って、近くを通った子どもに見られハッとする。
落ち着け。深呼吸しろ、あたし。
ママがどうかは知らないけど、こっちは別に喧嘩をしたいわけじゃない。できることなら穏便に済ませたい。
「お金については本当に心配いらないから……ってか、最近調子いいんだよ? ちょっと前にウェブCMの出演も決まったし、ちょい役だけどドラマにも出るし! ……それに今月、雑誌に大きく載るの! どんって!」
これはまだ、佐伯にも内緒の話。実際に雑誌が書店に並んで、一緒に買いに行って、自慢したいから。
普段は載ったとしても、小さな写真がいくつか。
でも、今回は違う。そのページの主役を、あたしが飾る。
若い頃のママみたいに。
この躍進は、ママも褒めてくれるはず。
すごいって、認めてくれるはず。
――と、思ったのに。
「自分を切り売りして、リスクを冒して、不安定にお金を稼いで……まったく、本当にバカバカしい。早くやめなさい」
それは、今あたしがやっていることを、やりたいことを、細々と積み上げてきたものを、全否定する言葉だった。応援してくれる大勢のひと、何よりも佐伯を、バカにされたような気がした。あの日、ママに憧れた幼い自分を、思い切り殴られたような気分がした。
頭痛がする。
視界が歪む。
熱くて冷たくて痛い感情が、腹の底からこみ上げてくる。
「放っといてよ!!」
声が噴き出す。
「あたしのことが気に入らないなら、そう言えばいいじゃん!? もう帰って!!」
理性で蓋をしていた喉を突き破って、思い切り。
「ママなんか、大っ嫌い!!」
◆
「……天城さん?」
「っ!?」
天城さんのお母さんが無言で立ち去り、数秒が経って。
玄関に喧騒が戻ったところで、僕は恐る恐る声をかけた。
彼女は僕を見るなり目を剥いて、手の甲で涙を拭い、コホンと咳払いする。
「ごめんごめん、変なとこ見せちゃって! ってか屋上の鍵、ちゃんとしまった? あれ、結構コツいるんだけどなぁ」
「天城さん……」
「受付の仕事? あれ嘘、ごめんねー。お詫びに、何か奢ってあげる! 今の時間なら空いてそうだし、二年のメイド喫茶とか行っちゃう?」
「天城さん……!」
「なに? ママのこと? 気にしないで、もういいから」
ただ、黙って彼女を見つめる。
そんな僕に対し、向こうはため息をこぼす。
「佐伯ってば気にしすぎ! もういいの! 本当の本当に、もうどうだっていいから!」
僕の手を取り、そのまま歩き出そうとする。
それには応じず、繋いだ手がピンと張った。
振り返って首を傾げる彼女を、僕は逆に引き寄せる。優しく、それでいて容赦なく。
「もういいもういいって……そんな顔で言われても、説得力ありませんよ」
天城さんが心の底から笑っているなら、このまま遊びに行ってもいい。
彼女が本当にそう思っているなら、僕もそれでいい。
でも、そうではなかった。
嘘の笑みすら、今の彼女は持ち合わせていなかった。
あるのは悲しくて、悔しくて、納得のいっていない表情だけ。
もういい、わけがない。
このまま流しちゃいけない。
「前にお母さんから電話が来た時、話したくないとか一生やだとか言ってましたけど……本当は、仲良くしたいんですよね?」
返答はなく、唇を噛む。
否定しない。
ただ僕の手を強く握って、弱々しく震える。
「……今まで、いっぱい話したんだよ。何回も、何十回も……! それでも、ずっとあんな感じなんだもん! 仲良くするとか無理だよ!」
「そんな理由で諦めるんですか?」
「そんなってなに!? 何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!!」
我ながら、無神経な問いだと思う。
事実、天城さんは僕の手を乱暴に離して、忌々しそうにこちらを見て、敵意を剥き出しにして吼えた。彼女からこんな視線を、声を浴びせられたのは初めてで、後ろへ引きそうになる。
「僕は……」
だからこそ。
一歩踏み出して受け止める。
彼女から、目をそらさない。
「天城さんのことなら、いくらか知っているつもりですよ」
九月の夕暮れ。
僕の嘘を信じて学校で待っていた彼女の姿を、雨と汗の匂いを思い出す。
「いきなり告白してきて、断ったのに諦めなくて、勉強って餌までぶら下げて……本当にメチャクチャなひとだと思いました」
走って戻って来た僕を見つけて、この世に汚いものなんかないみたいに笑ってくれた記憶が、脳裏を疾走する。
「しかもほぼ毎日、ライン越えのえっちなことを迫って来て……僕もう、何回も、何十回もダメだって言いましたよね? それで天城さんは、諦めたんですか?」
僕への敵意を鞘に納め、視線を伏せる。
ゆっくりと首を横に振る。
夢中になれるものも、必死になれるものも、僕は持ち合わせていない。天城さんと違って、僕の手の中には何もない。
だから今、掴む。
彼女の手を。
「今からお母さんと、もう一回話しましょう」
「……え?」
「僕も一緒に行きます」
見上げる瞳に、僅かに輝きが戻った。
小さな小さな、とても小さな火が、確かに灯った。
「今日ダメなら、一緒に家へ行きましょう。それでもダメなら、二人で職場に突撃しましょう。電話をする時はそばにいます。手紙やメールの文面も一緒に考えます。僕にできることなら何でもします。お互いが納得できる道が見つかるまで、ずっと付き合います!」
言葉を並べてみて、現状の自分にできることの薄っぺらさに絶望した。
他人の家庭の事情だ。本来、僕に介入できる余地などない。そんなことはわかっている。
わかっているけど、天城さんの手を離さない。
離したくない。
「……でもあたし、またママと喋ったら感情的になっちゃうかもだよ? ブサイクに喚いて、あたしの嫌なところいっぱい見ることになっちゃうよ……?」
「構いません」
「さっきみたいに佐伯のこと怒鳴ったり、八つ当たりしたり……酷いこと、いっぱいしちゃうかもだよ……?」
「気にしません」
「な、何でそう言い切れるの!?」
「――天城さんのことが、好きだからです」
そう口にした瞬間、「青春だねー」と知らないお爺さんが僕たちを見て呟いた。
彼女の顔が焼けた鉄みたいに赤くなったことで、自分がとんでもないことを、よりにもよって大勢が行き交う学校の玄関で口走ったことに気づく。
「あ、いや、違うっ……くはない、ですが! 天城さんの前向きなところが好き、という意味で……!」
不格好に言って、小さく息をついて、もう一度強く彼女の手を握る。
「とにかく僕は、お母さんと仲直りして欲しいんです! 無理とか仕方ないとか、そんな風に諦めている天城さんを見るのが嫌だから! 全力で好きなことをやって笑っているところを見るのが、大好きだからっ!」
我ながら、自分勝手な動機だ。
だけど、不思議と後悔はない。こんなこと言わなければよかった、などという思いは毛ほどもない。
「行きましょう。天城さん一人じゃない! ずっとずっと、僕がそばにいるよ!」
手を引く。強引に、今まで天城さんが僕に散々やったように。
後ろからか細く、だけどハッキリと、「ありがと」と聞こえた。
振り返らないまま頷く。外へ足を踏み出す。
内履きのまま、アスファルトを蹴る。