第26話 きもちー♡
「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
お互いにシャワーを浴びて、寝る支度を済ませて、来客用の布団を床に敷きそこを使うよう天城さんに促した。
依然として生気が抜けたような表情の天城さん。
布団を見て頷いたので、一応、ちゃんとここが今夜の寝床だと理解はしているらしい。
「灯り消しますよ」
パチッと、照明を常夜灯に。
オレンジがかった小さな光だけが、淡く部屋を照らす。
「おやすみなさい」
「……お、おやすみ……」
挨拶を交わして、自分のベッドへ。
布団に入り、小さく息をつく。
今日は大変だった。
文化祭で大役を任されて、女の子がたくさん家に来て、天城さんまで泊まりに来て。
特に文化祭関連は、この後も本番まで続く。
プレッシャーで頭は痛いし、胃はキリキリするけど……でも、今日のわちゃわちゃとした会議や天城さんと細かいところを詰めていく作業は、正直楽しかった。
今までずっと、この手のイベントはただ遠巻きに眺めているだけだった。
楽しそうにやってるなぁと達観ぶって、どうせ自分が参加しても迷惑をかけるだけだと悲観して、輪に入って行けない自分の情けなさを慰めていた。
活躍している同級生たちを見て、僕には真似できないと決めつけて、心の奥底では頼ってくれることを期待していた。
そんな僕が、今回はほとんど中心にいる。
この重責に対し、どこか高揚感を覚えている自分がいる。
『見てみてー! これ、佐伯が作ってくれたの! あたしの佐伯、すごいでしょー!』
僕の作った弁当を見せびらかす、元気いっぱいな天城さんが瞼の裏に浮かぶ。
全部、彼女のおかげだ。
後ろ向きな僕の手を無理やり引っ張って、日の当たる場所へ連れて行ってくれたのは彼女だ。他人からの期待は怖いけど……でも、怖いだけじゃないことを知れたのは彼女がいたからだ。
天城さんと関わり始めてまだ二ヵ月も経っていないが、何だか随分と日常が様変わりした気がする。
それも、間違いなくいい方向に。
喉から手が出るほど欲しかったはずの一人暮らしが崩壊する危険性がつきまとっているのに、手放しに彼女がいてよかったと思えてしまう。
本当に、本当に、ありがたい。
嬉しい。
この気持ちをもっと詳細に説明できる語彙力がないことが、今は悔しい。
「…………よいしょ……しょ……っと……」
「……あの、天城さん……?」
「っ!!」
ガサゴソ。モゾモゾ。
音を殺しながら立ち上がったかと思いきや、そろりそろりと僕のベッドに侵入し始めた天城さん。
声をかけると、彼女は薄闇の中でもハッキリわかるくらいに目を剥いて驚く。
「何で僕のベッドに入ろうとしてるんですか? 追い出されたいなら、いつでも見送りますよ?」
「ち、違う違うっ! 違うけど……違うくなくて、その……!」
「意味がわからないんですけど……」
「一人でお布団入るのが怖いのぉ! 足出したら誰かに捕まれそうな気がするし、布団被ったら何か聞こえる気がするし、ずっと誰かに見られてる気もするし!」
「映画に影響受け過ぎでしょ……」
「いいから入れてーっ! 本当に怖くて寝られないからーっ!」
「ちょ、ちょっと!! うわぁああああ!!」
強引に布団を捲って、思い切り身体を捻じ込んできた。
流石にこれはダメだ。追い出そう。
――と、思ったのだが。
「さ、佐伯ぃ……うぅ、佐伯ぃ……っ」
僕の胸に顔をうずめ、ブルブルと震える天城さん。
……ちょっと、これは無理だ。ここまで怯え切ってるのに、出て行けとか言えないよ。
前に看病した時も仕方なく身体に触ったりし……まあ、これも仕方ないってことで大丈夫かな? うん、大丈夫だろう。どうしようもないし。
「怖くないですよー、何も怖くないから安心してくださいねー」
ふと、昔を思い出す。
まだ弟たちが小学生になる前の、暑い夏の夜。みんなで心霊番組を観て、怖くなったとかで二人が僕の布団に潜り込んできて、しかもおねしょしたんだよなぁ……。
懐かしい気分に浸りながら、当時やったのと同じように、天城さんの背中をそっと撫でた。落ち着かせるように、寝かしつけるように、優しく。そっと。
「……佐伯……」
「何ですか?」
「…………すき」
「あ、ありがとうございます……」
「……ぎゅってして?」
な、何か注文入ったぞ。
まあいいか……ハグなら、今までに何回もしたし。
撫でていた手に力を込め、軽くこちらに引き寄せた。向こうも僕に寝間着を摘まみ、どこへもやるまいと引っ張る。
「……本当はね」
「はい?」
「本当は……ホラー映画で佐伯ビビらせて、一緒にお風呂入ってえっちなことする計画だったの。でも、こんなことになっちゃって……何かもう、悔しい……っ」
そ、そんなバカみたいな計画立ててたのか。
なのに、自分が怖くなってこのザマ。これがうちの学年一位……呆れを通り越して、もはや微笑ましい。
「……僕がこんなことを言うのも何ですが、一応一緒に寝ることになったんですし、計画は半分くらい成功しているんじゃ?」
実際、天城さんが本気で怖がっていたから、僕はベッドに入ることを許可したわけで。
言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。ぱちぱちと瞳が瞬き、「確かにっ」と呟く。
「あ、あたし、佐伯と一緒に寝てる……! 何これ、やばいくらいえっちじゃん!」
「……もう怖くないなら、下で寝てもらいますよ?」
「いやっ、こ、怖いよ! 怖いけど……へ、へへっ♡ いひひ♡」
少しだけいつもの調子が戻ったのは嬉しいが、代わりに危険度が増した。
余計なこと言わなければよかったかなぁ……。
「このまま朝までいたら……あたしの全部、佐伯の匂いになっちゃうね♡」
にやぁと甘ったるく笑って、掛け布団を引っ張り口元を隠した。
熱くて、少し湿った呼吸音に、心臓がビクつく。
「……でもちょっと、別の女の子の匂いする……」
「い、犬じゃないんですから、そんなのわからないでしょ……!」
「……このベッド、誰か座ってた?」
「常時三人くらい……全員一回は、たぶん……」
「ほらぁー! やっぱりそうだ!」
ぷくーっと頬を膨らませて、眉を八の字にした。
怒った顔も可愛いなぁ……などと呑気に考えていると、突然僕に抱き着いて首筋に顔をうずめる。
「ちょっと!? 天城さん!?」
「みんな、明日も来るんだよね! だから、取れないようにあたしの匂いつけとくの!」
「そ、そんなことしなくても、僕が誰かと変な関係になったりしませんって!」
「わかんないじゃん! だって佐伯、気遣い完璧で料理もできてカッコいいし! あたしがこんなにも大好きってことは、他の子からもモテるに決まってる!」
「意味わからないこと言ってないで、早く離れてくだ――」
掴んでも離れず、藻掻いても離れず、どうにもできなくて。
押した瞬間、むにゅっと何かに触れた。天城さんが体調を崩した時に感じたのと同じやわらかさに、脳みそがフリーズし言葉が途絶える。
天城さんと目が合う。
彼女は驚いたように赤面していたが、数秒と経たず、その口角は不純なつり上がり方をする。
「ご、ごめんなさい! わざとじゃなくて……せ、狭くて暗いから、つい手が……!」
離そうとした手を、天城さんが掴んだ。
熱が揺らぐ瞳に僕を映す。どこへもやらないと視線が語る。あたしから離れたら許さないと息遣いが釘をさす。
あまりの迫力に、身体が抗えない。
依然として手が触れていて、それがどうしようもなく幸せで、だからこそ罪悪感が尋常ではない。
「わざとじゃないもんね。暗いから仕方ないもんね。だからこれは、不純異性交遊じゃない。大丈夫だよ、全部大丈夫だから」
「そ、そんな理屈通ります……?」
「……んで、どう?」
「どう、とは……」
「触って、嬉しい?」
「…………」
「ねえ」
「……う、嬉しい、ですが……」
「ですが?」
「それよりも……痛くないかどうかが、し、心配で……」
「……佐伯のそーゆーとこ、大好き♡」
薄闇の中でも、白い歯が輝く。
無邪気だけど危険な笑みに、心臓が跳ねる。
「痛くないよ。佐伯に触られて痛かったこと、一度もないもん」
「そう、ですか……」
「いいから、もっと触って?」
「いや、それは……」
「わかる?」
「な、何がですか……?」
「今ね……下着、つけてないの」
薄い寝間着越しの感触。
驚きで鈍っていて感覚が段々と蘇り、人差し指の付け根あたりに妙に硬いものを感じた。彼女の粘度の高い眼光が、それが何かを無言の中で語る。
僅かな身動ぎ。
僕の気づき、そして焦りすら、彼女は楽しそうに食む。
「だから、ね? 触り心地いいでしょ? ほら……」
天城さんに導かれて、肌に指が沈む。
彼女は甘い呻き声を漏らし、すぐに艶っぽく笑う。僕の何もかもを肯定するように。
「……あはっ♡ きもちー♡」
知性が焦げる。
理性が燃えてゆく。
脳内は大火事なのに、それでも本能だけは傷一つなく、むしろ肥大していた。
灰の山の中で、黒くて汚い感情が蠢く。
いつだって僕の中にあった醜いそれが、どうしたって彼女を求める。
「顔、近いよ? いいの……?」
「…………」
「……ねえ」
「…………」
唇に、彼女の吐息を感じた。
睫毛の本数すらわかる距離。
そっと、彼女は僕の手を解放する。
僕の頬に手を添え、愛おしそうに目を細める。
その視線が、彼女の何もかもが、僕の中の抗いがたい衝動に薪をくべる。
「ちゅー……する?」
許しが出た、と思った。
醜いそれを晒してもいいと、そう言われたような気がした。
もうここで何もかも終わってもいい。
そんな思いが胸を駆け巡った。
――でも。
だからこそ、魂に急ブレーキがかかる。
「だっ……め、ですっ!!」
歯を食いしばる、残りカスのような理性と共に。
彼女の胸に触れていた手を引き剥がし、僅かに後ろへ距離を取り、腹の底から息をつく。手の甲で額の汗を拭う。
「もぉー!! 何で何でぇー!! もうちょっとだったのにぃー!!」
不満満点といった顔の天城さん。
僕は軽く息を切らしながら、「ごめんなさい」と謝った。心拍数が上がり過ぎて眩暈がする。酸素が足りなくて目が回る。
「こういうことをするなら……つ、付き合ってからが、よくて……! だから、今はダメです。僕、止まれなくなって、とんでもないことするかもしれないので……!」
納得いかなさそうにしていた天城さんだが、僕の言葉を聞いて、少しずつ表情が軟化していった。ほんのりと頬を染め、唇で妖しい弧を描く。
「ちゅーしたら、止まれなくなっちゃうの?」
「そうかも、という話で……」
「あたしに、とんでもないことしちゃうの……?」
「た、たぶん……」
「えぇ~~~♡ 佐伯ってばやらしー♡ しゅき♡♡♡」
危ないぞと忠告しているのに、何が嬉しいのか身悶えしている。
それだけ僕のことが好きなのかもしれないけど、自分のことじゃないのにその危機感のなさが怖い。
「ってか、付き合ってからってなに!? あたしと付き合う可能性、あるってこと!?」
「…………」
「あたしのこと、彼女にしたいと思ってるってことだよね!? そうだよね!?」
「…………そろそろ、寝ましょうか……」
「ねえちょっと、そっち向かないでよ! もっとお喋りしよっ! じゃないと、服脱いで生おっぱい押し付けちゃうぞー?」
「どんな脅しですか!? そんなことしたら――」
「とんでもないこと、しちゃう?」
「し、しません! 追い出します!」
「えーっ! ひどーい!」
「あんまりうだうだ言うなら、夜中にトイレに起きてもついて行ってあげませんよ!」
「っ!? そ、それはやだぁ! トイレ、一人で行けないー!」
「だったら、早く寝てください! ぼ、僕も寝るのでっ! おやすみ!」
どうにかこうにか丸め込み、天城さんを黙らせた。
彼女はわざわざ距離を詰めて来て、僕の背中にピタッとくっつく。
最初はやめさせようかと思ったが、これ以上言い合いをしていてはいつまで経っても寝られないので、おかしなことをしない限りは無視することにした。
体温が高い。
一定のリズムの呼吸音が心地いい。
本来孤独なはずの一人用寝具に、もう一人いることが不可解で嬉しい。
実家にいた頃は気づかなかったけど……僕、誰かと寝るの好きだったんだな。
いや、少し違うか。
たぶん、隣にいるのが天城さんだからだ。