第二話 手鏡と干渉
閉店間際のスーパーで食料品を買い込んだ奏雅は、学校用兼仕事用の高そうなカバンの中に購入した食料品を追加で詰め込んだ。彼の肩にはパンパンになったブランド物のカバンが掛かっており、手には先ほどスーパーで購入した豆の袋が乗っている。
奏雅は夜道を一人、豆をモグモグ食べながら家に向かって歩いていた。
(今日はひよこ豆。明日は枝豆。明後日は……)
大好物の豆のことを考えながら歩いていると、後ろから足音が聞こえてくる。それは歩きやジョギングの様なゆっくりとした走りのリズムではなく明らかに全力疾走しているものだ。
不審に思った奏雅は振り返り、足音の正体が近づいてくるのを待つことにした。
そしてそれは思ったよりも到着が遅かった。
「みぃ~つぅ~けぇ~まぁ~しぃ~たぁ~」
聞き覚えのある声と共に駆けてきたのは沙希だった。
彼女は息を切らしながら必死に話を始める。
「……ずびば……ぜん……ぞうがざん……」
「落ち着け。とりあえず深呼吸して呼吸を整えろ」
そう言うと彼女はそれに従い、深呼吸した。
「……大丈夫か?」
「はい、なんとか……」
まだ息を切らしているものの会話くらいは出来るようになっただろう。
「で、どうした?」
「さっきの手鏡なんですけど、私棚を間違えたみたいで譲ってはいけないものだったんですよぅ」
「これか?」
沙希の話を聞くと、奏雅はパンパンのカバンからその手鏡を取り出す。
「それですっ」
沙希は鏡を掴もうとしたが、奏雅がそれを頭上高く持ち上げた。
「なにするですかぁー! 返して下さいよぅ」
沙希の叱咤の声。
「別に返すのは構わんが譲れない理由くらいは聞きたいところだ。あの棚には他にも多数の、それも新品の鏡があったから思い出の品ということでもなさそうだし、展示用のモノでもなさそうだったしな」
奏雅がそういうと沙希は瞳にうるうると涙を浮かべた。
「お願いします~! 何も聞かずに返して下さいよぅ。でないと私がっ、私がクビにぃ~」
演技ではなく本当に泣き出しそうだ。
「わかった、返すから泣くなって……」
そう言って手鏡を渡そうとした瞬間、街灯の光が何かに遮られ、周囲が闇に包まれる。
大気に穴が空き、そこから生えてくるように巨大な獣の前足の様なものが徐々に姿を現す。
「なんだ……これ」
「あぅぅ。クビ決定ですか……?」
驚く奏雅と絶望する沙希。そして……。
「沙希さん。クビにはしませんけど、さすがにこれは減給ですよ?」
奏雅たちの横に先ほどの獣の前足の様なものと同じように、しかしそれよりもずっと早く黒いローブを身に纏った詩亜が姿を現した。
「不幸中の幸いは標的が低レベルなことですね。沙希さん! 『W-P-3』に『範囲干渉』お願いします。私が一撃で仕留めます」
「3ですか? 1でもいいと思うんですけど……」
「今回は住宅街の真ん中で一般人もいます。沙希さんのせいなんですから少しの疲れくらい我慢してください」
「はぁ~い」
繰り広げられる謎の会話の後、沙希は懐から手鏡を取り出して鏡面に触れる。するとそれは水面に滴が落ちた時のように小さな波を作った。波は振動を生み出し、それは鏡から半径数メートル以内の場所を包みこんだ。
すると景色が歪み、先ほどまで立っていた風景とは似ても似つかない、サファイアの様な色と黒色の渦巻く場所に立っていた。地面の感触はあるが視覚的に確認することができない。上下左右前後、広がるのは無数の渦の景色のみだった。
奏雅がその景色に目を丸くしていると、先ほど突如現れた足の本体が穴を広げて姿を現す。その姿はオオカミやクマのようでもあるが、濡れた漆黒の翼、一列に並んだ四つの紅蓮の眼と二つの口、なによりも十メートルはある巨大な体がこの世のモノではないことを彼に悟らせた。
「クレンシア、早くしてくださいよぅ。私、防御世界は苦手なんですからぁ」
「わかってますよ。では……」
詩亜が腕を前に突き出すと金の輪が大小の二つ、出現し小さな拳の先に浮かんだ。
大きいほうの輪が小さいほうのモノよりわずかに前方に移動すると、どこからか光が拳に収束し始める。
その様子を見たバケモノは自分の身が危険に晒されていることを悟ってか、事が起こる前に自分を脅かす発生源に向かって突進した。二つの口からは牙と粘りのある唾液が見られ、奇妙な鳴き声が発せられている。
「行きますっ」
詩亜が正面から走り来るバケモノに巨大な青白い閃光を放つ。閃光は徐々に細くなり、やがて詩亜の拳から光が消えた。
バケモノは苦痛の表情も断末魔の叫びも残すことなく消滅した。奏雅の眼に映るのは奇妙な空間と二人の女性、それと果てしなく遠くを突き進む青白い閃光のみだった。
「沙希さん、帰りましょう」
詩亜は平然とした様子で口を開く。
「また広範囲干渉ですかぁ? 嫌ですよぅ、疲れちゃいますもん。奏雅さん、ここで暮らしませんかぁ?」
「……え? いや……」
周りで起こった出来事を理解できずに呆然と立ち尽くしていた奏雅はうまく反応が返せなかった。
「広範囲って……。たった半径数メートルじゃないですか」
「ならクレンシアがやってくださいよぅ。私はリスのようにか弱いんですから」
沙希はほっぺたを膨らませて文句を言った。
「わかりました。ではお給料の方はマイナス十パーセントのところを、十五パーセントにしておきますね」
詩亜は沙希ににこやかに告げる。
「ええっ! 待って、ストップ、うぇいとあみにっつ」
詩亜が沙希の声を無視して手鏡を取り出し、先ほどの沙希と同じように鏡面に触れると周囲が振動して元の住宅街の景色が目の前に広がる。
「すみません、奏雅さん。怖い思いをさせてしまって。今記憶から消しますから」
詩亜は手鏡に再び手を伸ばす。
「待った」
奏雅は手を伸ばし、鏡に触れさせないように詩亜の手を取った。
「どうしました?」
詩亜はきょとんとした顔で奏雅を見る。
「状況説明を頼む」
奏雅は詩亜の手を離し真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「頼む」
もう一度言うと詩亜は「わかりました」と頷いた。
「この鏡は様々な世界に干渉する能力を持っています。人の心の世界や想像の世界、妄想の世界。本の世界や異なる次元の世界などまだまだありますが」
詩亜は持っている手鏡を見せながら説明を始める。
「過去や未来の世界にも?」
「いえ、時間軸の移動はできません。そもそも私の言う世界の定義は曖昧なもので、さらに不変ではありません。世界は世界が重なったものであり、それらを構築しているものも世界なのです」
奏雅は詩亜の言うことがよくわからなかったがとりあえず頷いておくことにした。
「先ほどのアレは心の掃き溜めの世界に積もった負の感情が作り上げたモノが偶然干渉能力を得て、この世界に来たモノです。偶発的に得た干渉能力は不安定で、力を安定化するためにその手鏡に引き付けられたのだと思います。それと私が使った力も結論から述べると鏡の恩恵だと言えます」
そう言って詩亜が奏雅の持つ手鏡を指さした。
「つまりこの手鏡は詩亜の持っているのと同じ干渉能力を持つ鏡だと……」
詩亜はコクンと頷く。
「だから一般人には渡さない、と……」
「はい。普段あの店には、一般のお客さんはほとんど来ませんから、沙希さんは棚を間違えてしまったんだと思います」
沙希は詩亜の隣でコクコクと力強く頷いている。
「いくらだ?」
奏雅が唐突に話を切り出す。
「……はい?」
「いくらならこの手鏡を譲ってくれるんだ? 売り物なんだろ?」
詩亜は困ったように返事をする。
「お金は別に良いんですけど、危ないですよ? さっきのアレは最下級レベルですし、他の世界に干渉したらもっと危ない目にも遭いますし、他にも……」
「構わない。だからコイツをくれないか?」
奏雅は手鏡を見つめて詩亜に告げる。
(これがあれば、ずっと憧れていたヒーローになれる)
鏡にはキラキラ輝く奏雅の瞳が映っていた。
「わかりました」
詩亜は仕方なくそう返事をした。