九十九・正義と悪 “表”
勇者目線です!!
翡翠那聖の朝は静かで、清らかな風が森の間を吹き抜けていた。勇者一行は、昨日ゼルフィスから聞いた話について、小さな広場で顔を合わせていた。
「魔王に対抗する勢力があるとはね。」
駿が腕を組み、少し驚いたように言う。
「それもゼルフィスさんが……聖王候補だったとは……。」
和真は昨日の話を反芻するように呟いた。
その圧倒的な魔力と存在感に、ただの長老ではないと思っていたが、まさかそんな過去を持っていたとは思いもしなかった。
朱莉と未来も静かに話を聞きながら、それぞれに思いを巡らせている。
蓮は何も言わずに空を見上げていた。
ちなみに、この朝、ゼルフィスの姿はなかった。
彼は早朝から別件の用事で、里の外へ出かけているという。近隣の森で起きている不穏な動きの調査と聞かされていた。
勇者たちは、残された時間を使って、自分たちがすべきことについて話し合っていた。
突然——
ズガァァンッ!!
大地を揺るがすような衝撃音が、翡翠那聖に響き渡った。鳥たちが一斉に飛び立ち、風がざわめく。
「なんだ……!?」
蓮が眉をひそめ、即座に立ち上がる。
その表情は穏やかさを失い、鋭い視線が音のした方角を捉えていた。
そのとき、足音を鳴らして駆け寄ってきたのは、エルフの女性——セレナだった。その顔は蒼白で、普段の落ち着きは影を潜めている。
「勇者様方……!どうか、力を貸してください!」
息を切らしながらも、必死に声を上げる。
蓮がすぐに駆け寄る。
「何があったんですか? セレナさん……!」
セレナは、勇者たちの前で一瞬だけ躊躇うように目を伏せた。そして、震える声で告げる。
「……“彼女”が現れました……!」
その言葉に、一行の空気が凍りついた。
誰が、何者か。
——セレナはそれ以上は語らなかった。
だが、そのたった一言が持つ重みは、十分すぎるほどだった。
蓮はすぐに頷く。
「……わかりました。案内してください。」
深くは追及しない。今は、それよりも急ぐべきことがある。彼らはセレナの後を追い、すぐさま現場へと駆け出した。
勇者たちが現場へと駆けつけた時——
そこには、既にエルフの精鋭たちが数名、緊張した面持ちで布陣を敷いていた。
その中心。
一人のエルフの女性が、血に濡れた衣をまとい、剣を杖のように突き立てながら、なおも立っていた。
漆黒の髪は乱れ、息は荒い。その身体は無数の傷に覆われていたが、彼女の瞳だけは、決して折れていなかった。
「……どいて……ッ……邪魔を……しないで……!」
声はかすれ、今にも倒れそうなほど弱々しかった。
だがその言葉には、揺るぎない意志と、必死の想いが込められていた。
精鋭たちはその姿を前に、ただ沈黙していた。
蓮は一歩前へ出て、傷だらけの黒髪のエルフを見つめた。
彼女の姿には、どこか言葉にできない違和感と、深い悲しみのようなものが滲んでいた。
「……あの人は?」
静かに問う。声は穏やかだったが、確かな警戒が滲んでいた。
その問いに、隣に立つセレナが、拳を震わせながら答える。
「……彼女はかつて、この地のエルフを惨殺し……そして裏切った者……」
言葉を選びながらも、彼女はしっかりとした声で続けた。
「悪魔と呼ばれた女……
——ミレオナです。」
その名が告げられた瞬間、空気がピリリと張り詰めた。
誰もがその名に、何かしらの重みを感じ取っていた。
そして、ミレオナと呼ばれたその女は、なおも血を滴らせながら、前方を睨み続けていた。まるでその先に、絶対に譲れない何かがあるかのように。
張り詰めた空気の中で、ついに——刃が交わる音が響いた。
ミレオナが身体を引きずるようにして踏み込み、精鋭たちの陣を一気に突き崩す。その動きは鋭く、傷を負っているとは思えない速さ。黒髪が舞い、まるで影のように精鋭たちの間を駆け抜けた。
「ぐっ……!」
一人、また一人と、エルフの戦士たちが斬り伏せられていく。
彼らは油断していたわけではない。それでも、ミレオナの剣は重く、そして速かった。
「なぜ……この力を……!」
誰かが叫ぶ。だがその声も、次の瞬間には息を呑む悲鳴へと変わる。
精鋭たちは、劣勢だった。
ミレオナの攻撃は容赦がなく、守りの陣形すら崩れ始めていた。
その時——
「そこまでだ……!」
清らかな森に似つかわしくない、鋭くも強い声が響く。
ミレオナの動きが止まり、視線が声の主へと向けられた。
木立の奥から、ゆっくりと現れる影——
勇者一行が、その場に姿を現した。
蓮が前に立ち、静かに剣を構える。
駿や朱莉、和真、未来、そして豹牙もそれぞれに戦意を帯び、ミレオナを見据える。
その視線を受けながら、ミレオナは鋭く目を細めた。
「……お前たちは……?」
その問いに答えるかのように、森の風がざわめいた。
かつて裏切りの名を背負った女と、新たなる勇者たちの視線が、静かに交錯した。
「彼らは勇者よ!貴方を倒すために来たのよ!」
セレナが叫んだ。
その瞳には、憎しみと痛みが滲んでいた。
長い年月、エルフの里に刻まれた傷。失われた命。裏切り。
彼女の声には、かつて奪われた者たちへの想いが込められていた。
ミレオナは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
だが次の瞬間、その瞳が鋭く見開かれる。
「……勇者……までも、私に牙を剥くか……!」
怒りが、声に宿る。
その言葉は、自らを守るためか、あるいは何かを貫くためのものか——その真意は測りかねた。
蓮が、静かに一歩前に出る。
その背後には、仲間たちの気配。
そして、まっすぐにミレオナを見据えたまま、彼は剣を構える。
「ここで、君を倒す……」
一拍置いて、声を強くする。
「もう、誰も傷つけさせはしない!」
森に、再び静寂が訪れる。
だが、それは嵐の前のわずかな間。
次の瞬間——
ズシャッ!!
乾いた斬撃音が森の空気を裂いた。
先に動いたのは、ミレオナ。
その身体は傷にまみれているはずなのに、動きは一切鈍っていなかった。むしろ、追い詰められた者特有の鋭さと迫力があった。
漆黒の剣が、音もなく振るわれる。
「くっ……!」
駿が剣で受け止めるが、その重さに一歩押し返される。
「速い……!」
彼の身体能力をもってしても、その剣閃は捉えきれない。
すぐさま後方から、朱莉が援護の矢を放つ。
シュッ!
だが、ミレオナはそれを正確に読み切り、身を翻してかわす。
「隙が……無い!?」
和真が結界を張りながら、未来へ声を飛ばす。
「未来、回復の支援を——!」
「う、うん……!」
【࿓࿓清癒の光࿓࿓】が放たれ、駿の傷を瞬時に癒す。
だが、ミレオナは止まらない。
すでに別の位置へ移動しており、今度は蓮へと一直線に迫っていた。
「勇者……お前からだ!」
「なら、来い……!!」
蓮が剣を構える。
キィィンッ!
激しい衝突音が響き、二人の武器がぶつかり合う。
虹色の光を帯びる蓮の剣と、漆黒の呪われたような刃。
一瞬の攻防の中で、蓮は確かに感じていた。
——この女、強い。いや……異常なまでに、戦い慣れている。
「何が……彼女をここまで……!」
思考を巡らせる暇もなく、次の斬撃が襲い来る。
だが、蓮も応える。
剣が舞い、風がうなる。
勇者一行と、かつて“悪魔”と呼ばれた女——ミレオナ。
その戦いは、互いの命を削り合う、本物の死闘だった。
金属がぶつかり合う音が何度も響き渡る。
ミレオナの剣筋は鋭く、無駄がない。
だが、蓮の動きはそれを読み切るかのように、確実に対応していた。
「……速さが落ちてる……!」
駿が目を細めて言う。
そう——ミレオナの動きには、徐々にだが確かに“疲労”の色が見え始めていた。
それも当然だ。
初めから傷だらけだったうえ、精鋭たちとの戦いでも消耗している。
「今なら、押し切れる……!」
和真が声を上げると同時に、朱莉が矢を番える。
「合わせるよ、蓮!」
「頼む!」
蓮が一気に踏み込み、ミレオナの意識を自分へと引きつける。
「っ……!」
ミレオナが防御に意識を向けた瞬間——
シュッ!!
放たれた朱莉の矢が、ミレオナの左肩をかすめる。
「く……!」
体勢が一瞬だけ崩れる。
そこを、見逃すはずがなかった。
「今だッ!」
豹牙が地を蹴り、拳に力を込めて接近。
【࿓࿓獅炎衝࿓࿓】
獅子のような熱を帯びた拳が、ミレオナの腹部を正面から叩きつけた。
ドガァッ!!
衝撃によりミレオナの身体が吹き飛び、木々をなぎ倒しながら地面に転がる。
「……はぁ……っ、まだ……終わって……」
ミレオナは苦しげに立ち上がろうとするが、膝が地面に沈み込んだ。
彼女の呼吸は荒く、汗と血が交じり合い、その瞳にもはや先ほどまでの光はなかった。
勇者たちは、ついに優勢を取り戻したのだった。
森の中に、静寂が戻りつつあった。
吹き飛ばされたミレオナは、木々の根元に膝をついていた。
その体は傷だらけで、呼吸も浅い。
それでも、彼女は必死に立ち上がろうとする。
だが、勇者たちはすでに武器を構えたまま、彼女を取り囲んでいた。
「……ここまでだ、ミレオナ。」
蓮が静かに言い放つ。
その声には怒りも、焦りもない。
ただ、揺るがぬ“決意”だけがあった。
「あなたがしてきたこと……償っても、許されるものじゃない。」
朱莉が矢を番えたまま、低く言う。
「仲間を殺し、里を裏切った者を……これ以上、野放しにはできない。」
和真の言葉に、未来も小さく頷いた。
駿が最後に一歩、前へ出る。
「大人しく捕まれ……戦いは、もう終わりだ。」
ミレオナは、震える手で地を掴み、血の滲む唇を強く噛み締めていた。
肩が、小刻みに震えている。それは恐れではない。怒りだった。
そして——
「黙れぇぇ!!!」
咆哮とともに、全身から黒い瘴気が溢れ出す。
大気がざわつき、森の空気が一気に濁りはじめる。
「全員……全員ッ……殺してやる!!!」
その声には理性の欠片もなかった。
あるのは、かつての裏切り者としての憎悪と狂気。
ミレオナは紛れもなく——**“本物の悪”**だった。
勇者たちは、その姿をまっすぐに睨みつける。
「この力……この殺気……」
朱莉の言葉には、怒りと悲しみが滲んでいた。
「止めなきゃ……こいつをこのまま放っておけば、また誰かが殺される……!」
駿の拳が震えている。だが、その瞳には迷いはなかった。
「来るぞッ!」
蓮が叫び、剣を構える。
ズガァァン!!
地を砕いてミレオナが飛び込んでくる。
駿が素早く反応し、剣を抜いて迎え撃つ。
ガギィィンッ!!
一撃の衝突。その重さと速度に、駿は大きく弾き飛ばされ、背後の木に激突した。
「ぐっ……!?」
「駿ッ!」
未来が咄嗟に駆け寄り、光の魔法を発動する。
【࿓࿓清癒の光࿓࿓】
柔らかな光が駿の傷を癒していくが、戦況はそれを待ってはくれなかった。
「理性が……飛んでる……!」
朱莉がすかさず弓を引き、矢を連射する。
シュバババッ!
だがミレオナは、それを狂気的な動きでかわし、朱莉へと肉薄。
「くっ……!」
和真が間に割り込み、結界を展開する。
【࿓࿓無属結界࿓࿓】!
透明な壁が朱莉を包み、ミレオナの一撃を受け止める。
衝撃で結界がひび割れるも、ギリギリで防ぎきる。
「今だ、蓮!」
「——ああッ!」
蓮が駆け出し、虹色の剣を構える。
その眼差しに、迷いはなかった。
ミレオナは、罪を重ねた裏切り者。
——エルフたちの言葉を、勇者たちは信じていた。
あの瞳に見える影など、惑わしの仮面にすぎない。
「ここで終わりだ、ミレオナ……!」
蓮の剣が閃く。
勇者たちは、悪を前にして一切の情を捨て、ただ“正義”のために剣を振るった。
ミレオナの身体が、大きくよろけた。
肩口から噴き出す血が、衣を紅く染める。
脚ももはやまともに動かず、彼女の動きは明らかに鈍っていた。
蓮の剣がかすめた傷。
駿の斬撃、朱莉の矢、豹牙の拳——
それぞれの攻撃が、確実に彼女の身を削っていた。
「はぁ……っ、くっ……!」
息が乱れ、足取りがふらつく。
それでも、ミレオナの瞳だけは消えていなかった。
だが、もはや勝機はない。
勇者たちは全員、武器を構えたまま、包囲の手を緩めない。
和真が前へ出て、静かに告げた。
「観念しろ。これ以上は、無意味だ。」
未来が一歩近づこうとする——その瞬間、ミレオナの口元に薄く、冷たい笑みが浮かんだ。
「……お前たち、ここで殺さなかったこと……悔いるといい……」
そう呟いた直後。
ミレオナは、血を垂らしながらも、地を蹴った。
「逃げる気……!?」
朱莉が矢を番えるが——遅かった。
黒髪が風を切る。
傷を庇いながらも、驚異的な執念と本能で森の奥へと駆け出していく。
「待てッ!!」
駿が追おうとするが、蓮が手を上げて制した。
「……今追っても、地の利はあっちだ。」
ミレオナの姿は、すでに森の闇に溶けていた。
空気が落ち着いた頃、そこには血の跡と残された剣が一本、突き刺さっているだけだった。
「逃げられた……」
駿が悔しそうに歯を食いしばる。
蓮は剣を収め、深く息を吐いた。
「……次こそ、終わらせる。」
重苦しい沈黙が森に落ちた。
彼らは、悪を逃がした——その事実だけが、心に深く刻まれていた。




