六十七・無慈冷刃
赫咬獣が倒され、静寂が森を支配してから数分後——。
常葉の庵の外に、ひとりの魔族が立っていた。
小柄な身体、短く整えられた銀髪、そして薄い黄色の瞳。
可愛らしくもどこか無垢な雰囲気を持つが、その存在が放つ異質な気配は、周囲の空気を張り詰めさせるには十分すぎるほどだった。
魔族の少女は静かに森を見渡し、ふっと微笑む。
「ふーん……もう倒しちゃったんだ?」
どこか呑気で、軽やか。それでいて、底の見えない不気味さを孕んだ声音。
この少女の名は——ネヴィア。
タリオンを誘惑し、封印を解かせた張本人。
彼女の持つ魔法、**《夢幻の囁き》**は、錯覚を操り、現実と幻を曖昧にする。
彼女が常葉の庵の結界内に入れた理由は単純だ。
——結界そのものを”騙した”のだ。
常葉の庵の結界は、本来ならば魔族の侵入を拒むもの。しかし、ネヴィアはその概念を覆した。
「私は魔族ではない」「私はこの場所にふさわしい存在」
そう、結界自身に”思い込ませる”ことで、あたかも彼女が最初からここにいるべき存在であるかのように振る舞い、難なく侵入したのだった。
——それほどまでに、ネヴィアの力は”厄介”であり、“危険”だった。
誰かが近づいてくる。
足音は静かだが、確かな存在感を持っていた。
「やっぱり……倒しちまったか、終焉の魔人。」
低く響く声。その主は、森の入り口に現れたカルラだった。
彼もまた魔族。ネヴィアの仲間であり、同胞。
黒衣をまとい、鋭い瞳で戦場の痕跡を見つめる。その口元には、わずかに皮肉めいた笑みが浮かんでいた。
「まさか、封解後……そうそう倒されちゃうとはね!」
ネヴィアが楽しげに言いながら、小さく肩をすくめる。彼女の薄い黄色の瞳が、愉快そうに細められた。
赫咬獣という古の魔獣——それが解放されたのも束の間、あっさりと葬られてしまった。
「それで…どうする? 集落の人たち、殺す……?」
ネヴィアが無邪気な声で問いかける。まるで遊びを提案するかのように、薄い黄色の瞳が楽しげに揺れる。
「やめておこう。」
カルラは淡々とした口調で答えた。
「すぐにここを離れるぞ。終焉の魔人とやらが追ってくるかもしれない。」
その言葉に、ネヴィアはつまらなそうに唇を尖らせる。
「ふーん……まあ、確かに。そいつ相手じゃ、遊びにはならないか。」
ネヴィアは踵を返し、銀色の短髪を揺らしながらカルラの横へ並ぶ。
「急ぐぞ……」
カルラが短く告げる。その声には無駄な感情はない。ただ、状況を冷静に判断し、行動を決定する者の声音だった。
「はーいはーい。」
2人の姿は、次の瞬間、森の奥へと消えていった。
赫咬獣の封印が解かれ、そして破れたこの地を、何事もなかったかのように後にして——。
数分が経つ。
二人の姿はすでに常葉の庵を離れ、深緑の森を駆け抜けていた。木々を伝い、枝から枝へと軽やかに跳ぶ。
魔族らしからぬ俊敏さで、二人は音もなく森の闇へと消えていく。
「それにしても……終焉の魔人? 何者なんだろうね?」
ネヴィアが軽い口調で呟いた。風に銀の髪がなびく。
「さぁな……」
カルラは前を見据えたまま短く答える。
「面白い奴ではあるかもな……」
その口元には、わずかに興味を含んだ笑みが浮かんでいた。
(ん……!? 殺気……!!?)
異様な気配に、カルラの肌が粟立つ。
しかし、気づいた瞬間にはすでに——
左腕が、無くなっていた。
「——なっ……!?」
痛みが脳を揺さぶる。空中で体勢を崩し、視線を下げると、自分の腕が樹々の間を舞っていた。血が宙に飛び散る。
(何だ……!? 何が起きた……!?)
考える間もなく、無数の鋭い攻撃の雨が二人を襲う。
「ネヴィア!! 敵襲だ!!」
カルラが叫ぶ。しかし、ネヴィアも返事をする余裕がない。
「ちょっ……マジで!? やばいやばいやば……っ!!」
彼女は必死に攻撃を避けながら、木々の間をすり抜ける。
枝を蹴り、幹を蹴り、次々と移動する。
しかし、攻撃は止まらない。むしろ、追い詰めるように執拗に襲いかかってくる。
飛び散る木片、裂かれる葉。
間一髪でかわした攻撃が、背後の木を易々と両断する。
(こんなの……相手にしていいレベルじゃない……!!)
冷や汗が止まらない。
カルラもまた、右腕だけで枝を掴みながら、鋭い視線を周囲に巡らせる。
(どこだ……!? 何者だ……!?)
その時——
遥か遠く。
だが、確かに”そこ”から、異様な殺気が届いた。
「終焉のォ……魔人かァ…!!?」
カルラの背筋が凍る。
このままでは”終わる”。
そう理解した瞬間、二人の足は自然と動いていた。
「ネヴィア、逃げるぞ!!」
「言われなくても!!!」
全速力で撤退。
もはや振り返る余裕すらなかった。
ただひたすらに、“死”の気配から逃れるために——。




