三十九・無慈悲
一方——カイラナ
数日をかけ、ついに魔王バフォメットの城へとたどり着いた。
遠くからでも、それが”異質”なものであることは一目でわかった。
漆黒の城壁は不気味に歪み、天を裂くようにそびえ立つ。
まるで、この世界に属していないかのような、禍々しい”異形の城”。
「は……ァ……は……ァ……」
カイラナは息を切らし、膝に手をついた。
全身が痛む。
右腕と左脚を失いながらも、休息すら取らずに歩き続けた代償は大きかった。
意識は朦朧とし、身体は限界を迎えていた。
それでも、止まることは許されなかった。
ただ——“帰らなければならなかった”。
終焉の魔人の配下の、あの女の言葉を伝えるために。
だが、カイラナは未だにあの女の名を知らない。
強大な存在であることは分かった。だが、それが何者なのか、なぜ終焉の魔人に仕えているのか——何も知らされなかった。
自分がどのように迎えられるのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
「もう、元のままではいられない」
カイラナは、魔王城の大門を見上げながら、静かに息を飲んだ。恐る恐る城の中へと足を踏み入れた。
長い通路を進むたびに、冷たい空気が肌を刺す。
石造りの壁に浮かぶ燭台の炎は、まるで意思を持つかのように揺らめいている。
カイラナの呼吸は浅く、足取りは重い。
それでも——進むしかない。
そして、通路の先にある巨大な扉の前に立った。
見上げるほどの大きさの扉には、黒き魔紋が刻まれ、そこから禍々しい瘴気が漏れ出ている。
カイラナは喉を鳴らし、意を決して扉を押した。
ギィィィ……
重々しい音を立て、扉がゆっくりと開く。
そして、その先に——
カイラナの仕える主。
魔王バフォメットがいた。
重厚な黒曜石の玉座。
その上に悠然と座する、魔王バフォメット。
暗闇の中で、その存在だけが異様な威圧感を放っている。
「随分と無様な姿だな、カイラナ。」
低く響く声が、広間全体を震わせた。
冷たく、重く、威圧的。
まるで、存在そのものがカイラナを押し潰さんばかりの圧を持っていた。
カイラナは、咄嗟に膝をついた。
疲労と傷のせいではない。
これは——本能的な服従だった。
「バフォメット……様……」
カイラナの声は、かすれていた。
それは、畏怖によるものではない。
恐怖。
“化け物”と遭遇し、生き延びてしまった者だけが知る、本物の恐怖が、彼女の全身を支配していた。
「化け物ォ……化け物が現れました……」
震えながら、カイラナは呟く。
表情はぐちゃぐちゃだった。
もはや”魔王軍の幹部”という誇りも、“忠誠”という概念すら、崩れかけている。
「しゅ……終焉の魔人……と名乗る者に……敗北し……敗北し……」
何度も繰り返す。
まるで、それを口にすることで**“敗北”という事実を否定しようとしているかのように。**
だが、それは覆せるものではない。
否定しようとしても、意識の奥に”あの存在”が焼き付いて離れない。
「そ……その後に……その魔人の配下と名乗る女──────────」
そこまで言った瞬間、カイラナの思考は”停止”した。
————あの女。
————あの”得体の知れない何か”。
記憶の中に、レシュノルティアの不気味な微笑みが蘇る。
“理解の範疇を超えた”存在。
常識も、理屈も、戦場で培った経験すらも通じない。“圧倒的な何か”。
思い出した瞬間——
カイラナの全身が、痙攣したように震えた。
視界が歪む。
頭が焼けるように熱くなり、内側から弾けそうな感覚に襲われる。
呼吸が乱れ、喉の奥から嗚咽が漏れた。
————ダメだ。
————思い出しちゃいけない。
————これ以上考えたら————
カイラナの”精神”が、崩壊した。
「ふん……お前にはガッカリです。」
魔王バフォメットの冷たい声が広間に響く。
その声音には、わずかな興味すら含まれていない。
ただの失望。
「まさか、まだ未熟な勇者たちすら始末できないとは……」
その言葉に、カイラナの顔が驚愕に歪んだ。
「え……?」
全身の血が、一瞬で冷えた。
「勇者たちは……この手で、始末しました………!!!」
声が震える。
だが、それは必死の否定だった。
確かに、勇者たちとの戦いでは勝利を確信していた。
戦闘を支配し、彼らを完全に追い詰めた。
逃げる余地などなかったはずだ——
それなのに、バフォメットの言葉は、“事実”として突き刺さる。
「すでに、報告が上がっている……勇者たちは生存していると。」
カイラナの脳が、“理解”を拒む。
(……嘘だ……そんなはずはない……!)
だが、確信を持って言い切れなかった。
“本当に仕留めたのか?“という疑念が、今さらになって頭をよぎる。
なぜ、確実に殺したという”手応え”を感じなかった?
——カイラナの背筋を冷たい汗が伝う。
そして何より、バフォメットの”失望した瞳”が、何よりも恐ろしかった。
(そうかァ……! 全てあの魔人が仕組んだことなのか……!?)
カイラナは気づいた。
勇者たちを逃がしたのは、終焉の魔人の意図。
自分はまんまと”遊ばれただけ”だったのか?
カイラナの背筋に、冷たい悪寒が走る。
今すぐにでもバフォメットへ伝えねば——
「バフォメット様──────────」
カイラナが言葉を発した瞬間。
“ゴォォォォ!!”
「うァァァァ!!??」
赤い炎の渦が、カイラナを飲み込んだ。
灼熱の波が皮膚を焼き、意識を一瞬で刈り取る。
バフォメットが冷たく呟いた。
「弱い奴は、私の配下にいらない。」
それは、“処分”の言葉。
慈悲も、弁解の余地もない。
カイラナの焦げた体が、床へと崩れ落ちる。
「バフォメット……様……」
意識が遠のいていく中、カイラナは思った。
——まだ、伝言すら伝えていないのに。
世界が暗転する。
そして——カイラナは沈黙した。
「だが殺しはしない。」
炎に包まれ、床に崩れ落ちたカイラナを見下ろしながら、魔王バフォメットは冷静に言い放った。
「使えないならもう一度、教育するのみです。」
その声には、情など一片もない。
ただ、道具が壊れたなら修理する——それだけの意味しかなかった。
バフォメットは指を鳴らした。
「ヘンリー! コイツを地下牢へ連れて行きなさい。決して死なせないように。」
扉の奥から、ゆっくりと一人の男が姿を現す。
ヘンリー——魔王軍 ”三昏畢” の一人。
彼は静かにバフォメットの前に膝をつくと、淡々と応じた。
「承知しました、魔王様。」
バフォメットは、倒れたカイラナの焦げた体を一瞥する。
「……まあ、もう”精神”は死んでいるかもしれないがな。」
乾いた笑みが、広間に響く。
ヘンリーは黙ったまま、カイラナを肩に担ぎ上げた。
意識のない彼女は、もはや反応すらしない。
——地下牢。
そこで待つのは”再教育”という名の、さらなる地獄。
その運命を知ることもなく、カイラナは闇の奥へと連れて行かれた。
そして、バフォメットは——
「終焉の魔人……興味深い……」
そう呟くと、口元に薄ら笑いを浮かべた。




