三十二・化物 弍
「主様は本当にお優しい……でも、残念ながら私は主様のように優しくないぞ」
レシュノルティアの表情が変わる。暖かさの欠片もない、冷酷で無機質な微笑み。その瞳には、一切の情が宿っていなかった。
終焉の魔人が”主”。
その言葉の意味を、カイラナの脳はすぐには理解できなかった。
(終焉の魔人が……主だとォ……?!)
彼女が戦ったあの怪物。ただの”強者”ではない。圧倒的な存在感、理不尽なまでの力、抗うことすら許さない絶望そのもの。
その終焉の魔人を従える者がいる——?
(この化け物を従えるってェ……アイツはホントに何者なんだァ……!!?)
思考が追いつかない。カイラナはこれまでに幾度も死線をくぐり抜けてきた。数多の戦場で勝利を重ね、人間どもの”英雄”すら屠った。
だが、今、彼女の全身を支配しているのは——
圧倒的な”恐怖”。
(そうかァ……コイツかァ……俺の下僕共を殺したのはァ!!)
血の気が引いていく。そう。カイラナの部下を、森に入る前に瞬殺したのは——
レシュノルティアだった。誰にも気づかれることなく。まるで”始めから存在しなかった”かのように。
レシュノルティアが、不気味な笑みを浮かべた。
その瞬間——
“シュッ”
風が鳴った。否——それすらも”音の遅れ”に過ぎなかった。
「え………?」
カイラナの瞳が揺れる。
右腕と左脚が、消えていた。
理解が追いつかない。痛みすら遅れている。ただ、バランスを失った体が傾いていく感覚だけが、現実を突きつけていた。
「(……何が起きたァ?)」
視線を落とすと、そこには”無残に転がる自分の四肢”があった。
血が溢れ出る。
赤黒い液体が草原に広がり、温かさが急速に失われていく。
遅れて、“痛み”が脳を焼いた。
「ッ……ガ、ハァ……!!」
喉の奥から、息が漏れる。全身が震える。思考が砕け散る。
(痛い……痛い……! 死にたくなィ!!)
血が止まらない。
右腕と左脚を失った激痛が、カイラナの全身を蝕んでいた。今までどんな傷を負おうとも、ここまでの痛みを感じたことはなかった。
それ以上に、“死の予感”が恐ろしかった。
死にたくない。こんなところで終わりたくない。
涙が頬を伝う。
初めての涙だった。
カイラナは戦場で育ち、魔王軍の幹部として数々の死地をくぐり抜けてきた。敗北の痛みも、命のやり取りも知っている。
だが——これは違う。
“恐怖”だった。本能が震えていた。
「フフ……」
レシュノルティアが微笑む。その表情には冷淡な慈悲すら浮かんでいる。
「安心しろ……“殺し”はしない」
その言葉に、カイラナは愕然とした。
(……何……?)
なぜ、こんなことをしておいて”殺さない”などと言う?
「貴様には、やってもらうことがあるからな……」
レシュノルティアの声色が低く響く。
その瞬間——カイラナの絶望は、新たな”恐怖”へと変わっていった。
「いいか、小娘……」
レシュノルティアの声が、静かに、しかし確実にカイラナの心を縛りつける。
「おまえの主……“小僧”に伝えろ」
“小僧”——魔王バフォメットのことだ。
レシュノルティアは、あの魔王をまるで取るに足らない存在であるかのように、**“小僧”**と呼んだ。
カイラナの呼吸が止まる。
(魔王様を……“小僧”……だと……?)
魔王バフォメット。
世界に名を轟かせ、人間どもを絶望の底に叩き落とした存在。彼こそが、魔族にとって”絶対”の一人だ。
だが——
レシュノルティアにとっては、違った。
「何やら妙なことを企んでいるようだが、今後……我等の邪魔をするようなら……」
レシュノルティアの紅い瞳が、冷たく輝く。
「待っているのは死のみだぞ……と」
言葉が終わると同時に、空気が凍りついた。
カイラナの背筋が総毛立つ。
拒むことなど、できるはずがなかった。
(この女は……“魔王”すら脅している……!)
口を開こうとするが、声が出ない。
ただ、小さく頷くことしかできなかった。
その動きを見て、レシュノルティアは満足そうに微笑む。
「フフ……よろしい」
この瞬間、カイラナは完全に”支配された”のだった。
気づくと、霧は晴れていた。
あれほど濃密に辺りを覆っていた虹色の霧は、いつの間にか消え去り、そこにはただ、静寂に包まれた夜の草原が広がっていた。
レシュノルティアの姿も、どこにもない。
まるで最初から、何もなかったかのように——。
しかし、それは”夢”などではない。
カイラナの右腕と左脚は、今もなお、そこに”無い”のだから。
「……ッ」
痛みはある。意識が朦朧とするほどの激痛が、全身を蝕んでいる。
だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
カイラナは考えることをやめた。ただ無意識に、本能のままに動いた。
バフォメットのもとへ帰らねばならない——。
理性ではなく、身体がそう命じていた。
もはや自らの敗北を嘆く余裕も、怒りを燃やす気力すら残っていない。
カイラナは、引きずるようにして、傷ついた体を前へ進める。
失った腕と脚を擦りながら、ただひたすらに。
夜風が吹く。
痛みに震える身体を嘲笑うように、冷たい風が、血の匂いを遠くへ運んでいった——




