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水銀の花が咲くころに  作者: 神山雪
1.四月、桜がさくころ
7/8

五話


 映画館から出て、鎌倉駅までの道のりを並んで歩く。腕時計で時間を見ると、午後九時になろうとしていた。縁は景が泣き止むまで、手を握って待っていてくれた。瞼が重い。頭が熱い。


「私は実写版のほうが好きかな。映像の質感がしっとりしてて。景は?」

「……わからない。でもなんだか、羨ましくて」

「羨ましい?」


 景の口から、本音がぽつりとこぼれてきた。

 映画と、景自身が生きている世界は、画面越しに隔絶されている。だから今まで、映画の世界が必要以上に自分に近づくこともなかった。自分が映画に重なることもなかった。綺麗な映画を見ることで、自分自身も綺麗になったような錯覚を覚えさせてくれる。


 あれが花火だったからだ。自分に似ている花。だけど映画で描かれたあの花は、映画の中でも火薬のにおいを漂わせはしなかった。ただ綺麗な光の花。万華鏡のような、宝石のような。

 花火はちっとも自分に似ていない。だからなんだか、裏切られた気がした。


 ――ゆかりさんは私の言葉を待っているのかもしれない。それでも私は、彼女にそれを伝えていいのかどうかすら、わからない。誰かに理解してほしいと思いながら、誰にも伝わらないような気がしている。

 結局押し黙って、来た時と同じ道を歩くしかできなかった。


「景、これから時間ある? ちょっと行きたいところがあるんだけど」


 鎌倉駅が近くなったころ、縁が再び声をかけた。

 門限は設けられていない。サーシャは今日、仕事で遅くなるようだった。仕事といっても水銀の悪魔を駆逐する「仕事」ではない。表向きの仕事を彼女は持っている。


「大丈夫だけど、どこに行くの」


 とてもいいところ、とだけ縁は答える。

 縁は景の手を引いて歩き出す。


 ※


 景が縁の手に引かれて行ったところは、海だった。どこからが海でどこからが空なのか、その境界線がわからないほど闇に溶け合っていた。くるぶしのあたりに、冷たい砂が当たって靴に入り込んでくる。境目のない暗さは、この世の終わりのような恐れを抱かせた。


「『甲賀忍法帖』って読んだことある?」


 山田風太郎っていう作家なんだけど。景は横に首を振った。


「内容は違う里同士の忍者でロミオとジュリエットって感じ。面白いんだけど、普通の状況で読むとなんかいまいち頭に入ってこないの。でも、解説の方はね、ラスベガスで豪遊した後、プールサイドでトロピカルジュースを飲みながら読んだら、鮮明に頭に入ってきてびっくりするほど面白かったそうなの。私もそれに倣って、とりあえず授業をさぼって学校の屋上の、貯水タンクの上で読んでみたのよ。そうしたら通学中の横須賀線よりはしっくりきたわ」


 縁は景より二歩も三歩も先に、波辺を歩く。たまにサッカーボールを蹴るかのように足を延ばし、たまにくるくる回りながら。


 縁が一体なんの話をしているのか、景にはさっぱりわからない。ただ、屋上よりもさらに高い、貯水タンクの上で本を読む縁の姿だけは、何となく想像できた。鎌倉桜花女学院の屋上は立ち入り禁止だ。奔放な魅力の縁が、授業をさぼって、校舎で一番高いところで本を読む。画になる姿だ、と思った。


「規格外に面白いものとか破天荒なものって、現実の中に身を置いて読んでも、作品の力に押されて何も頭に入ってこないことってあるのよね」


 波が寄せては返す。だんだん弱くなるのは引いていく音。だんだん強くなっていくのは、砂浜に近寄ってくる音。白い泡に混じって、ペットボトルがやってきた。代わりに浜を歩いていた小さい生き物が飲み込まれていく。遠くの空で星が瞬いている。淡いひかりを纏う半月も。


 急に、縁は靴を脱ぎ、タイツを脱いだ。肩にかけた鞄も投げ出した。砂浜に、タイツとエナメルのストラップシューズが散らばった。真っ白なふくらはぎが露になって、軽快に駆け出した。景が止める間もなかった。砂浜に縁の足あとが描かれる。そして――


 ——波とは違う水しぶきが、宙に舞った。


「ゆかりさん!」


 四月の半ばの海に、縁は派手な音を立てて飛び込んだ。茶色い頭が沈む。沈んだ地点から、ぶくぶくと泡が生み出される。


「あはは、冷たい!」


 形のいい頭が、真っ黒な海からぬっとあらわれる。海水に身を浸しながら、縁は思ったよりも寒いわね、とつぶやいた。水を纏って海から現れる様子は、ありきたりだが人魚のようだった。


「あの映画はいいことを教えてくれたわ。打ち上げ花火は下からでも横からでもなくて、水の中から見るものだと思うの」


 クライマックスのシーンを思い出す。ヒロインと主人公は、飛び込んだ海の中から、花火を眺めていた。


「あれが現実でも夢でもどっちでもいいの。水の中から見ると、たまに光って銀色になるでしょう? 水の中で咲いた銀の花って感じがして。それがきれい。大体、花火自体、人間が作った火薬の花だもの。存在がナチュラルじゃないんだから、現実的な状況で見ていても無意味だわ」


 縁の頭が、再び海に沈む。沈んで、登って、また沈んで。砂浜に一回戻ってくる。


「景もおいで」

「え、でも」

「いいから。海の中から星を見るとね、すごく綺麗」


 縁は手を伸ばし、濡れた笑顔で景を海に誘ってくる。景は混乱した。人魚に誘われる人間も、このように頼りない気持ちになるのだろうか。どうして自分なのだろうかという、疑問と混乱。縁は色とりどりの花のようにくるくると表情が変わる。


「怖くないから大丈夫よ。浅いところにしか入らないし」


 濡れるのが嫌なのではない。暗い海に引きずられそうだと思っているわけでもない。怖いと感じてもいない。


 縁がわからない。——どうしてこんな魅力的な笑顔を、私に見せてくるのだろうか。そして、私も私自身がわからない。彼女に応えて、その手を握り返してしまいそうな自分がいる。——応えたいと思ってしまう自分を発見して、景はますます動揺が抑えきれなくなった。


 縁は景の心の機微を見逃さなかった。景の出かかった手をそのまま取る。細い手首からは考えられないほどの意外な力で引っ張った。


「え」

 水しぶきが上がり、景は春の海に包まれた。




 縁の言う通り、思った以上に四月の海は冷たかった。そして、思ったよりも綺麗なものでもなかった。ゴミや微生物がもぞもぞと蠢いている。砂は海の中でもざらついていて、服の間に入り込んできた。瞼を開いたら、ちぎれた若芽が目の前を通り過ぎた。


 沈んで、揺れて、水の中から夜空を眺めて――

 顔を上げる。


「どうだった?」


 荒い息を繰り返す景に、水の中に誘った張本人が感想を尋ねてくる。縁の茶色い髪が、水の力で顔に張り付いている。暗くても、縁の唇はわかりやすく紫色だった。寒い。冷たい。それ以上に――


「……なんかちょっと綺麗だった。いつもと違う星みたいで」


 少しだけ海水を飲んだ。さらさらした水道水とは違う、生臭くてべたついた水。心の準備も何もしていなかったから、寒さで歯の奥がかちかちと音を立てている。生き物が思ったよりも多くて、思ったよりも海は濁っていた。


 ――水の中から星空を眺めた。動くはずのない星が、点よりも大きくなり、銀色にゆらゆらと揺れている。微弱な月の光がゆがんで見えた。混じるはずのない星と海中の微生物が、景の瞳の中で同じ世界になる。現実感のない世界。月と星と、遠くのライトのひかりが海に降り注いで、ガラスのような実体を持っていた。あれに花火のひかりが足されると、もっとたくさんのガラスの塊が海の中を漂うのだろう。映画みたいに。


 水の中で咲いた銀の花を想像させた。


 力を抜いて海水に身を任せる。同じように隣で漂う縁と、いつの間にか手を握っていた。互いに沈まないように、流されて行かないように。


「ねえ、景。打ち上げ花火の花言葉を考えてみない?」

「打ち上げ花火の花言葉?」


 とっておきの秘密を共有するかのような縁の言葉に、景は鸚鵡返しで尋ねた。


「あれだって花だもの。一瞬で咲く火薬の花。だから、そんな言葉があってもおかしくないわ。ないなら、私たちで考えてみましょうよ」

「そんなこと言われても、すぐには思いつかない……」

「じゃあ、期限を決めましょう。いつまでに、そうね。——八月の花火大会の日。その日に、花火を見ながらお互いに言い合うのはどうかしら」


 景は縁の顔を改めて見つめる。濁りのない瞳。偽りのなさそうな――あくまでもなさそうだと思える言葉。昔、花火大会に行こうといった友達も、こんな顔をしていた。だけどそれは、決して果たされることのない約束となってしまった。


「ゆかりさん」

「縁って呼んでよ」


 景は躊躇いながら、ゆかり、と小さい声で読んだ。


「私、誰かと一緒に花火に行くのが夢だった」


 戦うと決めた日から。花火が自分に似ていると思った瞬間から。言葉の前に、心の中でだけ付け足す。


「だったら叶いそうね」

「でも、私にはあなたに言えない秘密がたくさんある。それでも、あなたは、その……」

「それを言ったら、私にだって誰にも言えない隠し事があるわ」


 言葉はいらないのだろうか。


 二人で頭からつま先まで濡れた。手を握ったまま、何とか波をかき分けて浜辺にたどり着くと、寒気が体を襲った。

 二人で同時にくしゃみとする。風邪ひいちゃうかもしれないわねと縁がこぼす。着た服のまま入ってきたから、体を拭くものが何もない。わかりきっていたことなのに。



 それがなんだかおかしくなって、景は少しだけ笑った。



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