四話
小さいとき、景は母が活けた花を見るのが好きだった。
母は、日曜日だけ食卓に花を活けていた。平日に毎日活けるのは流石に大変だからだろう。母には、二人の子供を育て、家の中を切り盛りする大事な役目があった。専業主婦も楽じゃないのよという母は、少し嬉しそうで、楽しそうだった。日曜日に活ける花は、そんな母の日々の喜楽をかたちにしたものだった。母に活けられた花は、土の上で咲いている時よりも不思議と輝いて見えた。
——景に似合うのは竜胆かな。で、葉月はタチアオイね。タチアオイはピンクと白の二つあるけれど、葉月は絶対に白が似合うと思うの。景の竜胆は絶対に青紫ね。竜胆もタチアオイも、今度二つとも活けてあげるから、楽しみにしててね。
景の隣に座る少女が、もっと派手な花も好きなんだけどな、と笑った。少女は景よりも、七つも年が上だった。黒に近い茶髪を、綺麗に後ろに流した少女。葉月という綺麗な少女は、景の姉だ。
姉は、でも、タチアオイは私も白が好き、と言った。
「なんだか豊かに実っているみたいで。竜胆もいいわよね。スッと立っているみたいで綺麗。景に似合いそう」
姉の言葉に、景は幼いこどもらしく首を傾げた。花は綺麗で好きだ。だけど、自分になんの花が似合うかなんて、考えたことがなかった。
「景はおとなしいだけで芯は強いんだから、竜胆が似合うわ。なんたって、花言葉が「正義」だもの」
八歳の誕生日に、景は母から竜胆の刺繍のついたハンカチをもらった。花弁が五つの青紫の花。写真で確かめると、花らしい愛らしさがありながらも、簡単には触れさせないような凛とした強さも感じられた。自分が強いと思ったことは一度もない。それでも、そんな花が似合うといわれると、景は少し嬉しくなった。
そして、たくさんの大きな花を咲かせるタチアオイもまた、姉に似合うと思った。姉は十五歳の誕生日に、景の竜胆のハンカチと同じように、白い花をたくさんちりばめた、レース編みのブレスレットをもらっていた。タチアオイに似ていると思って、母が選んだのだ。白魚のような手首にたくさんの花が咲くさまは、姉の優しいひととなりを示しているようだった。お姉ちゃん綺麗、と景が言うと、姉はいつか景にもこういうのが似合うようになるわ、と答えてくれた。柔らかい手で頭を撫でてくれた。
ハンカチもブレスレットも、今は景が持っている。机の奥の、鍵の掛けられる箱の中。大事に大事にしまい込んで、視界に入れないようにしている。
――母が竜胆を活ける前に、私に似合う花はなくなってしまった。
*
映画の日。景は、縁と午後五時JR鎌倉駅の東口改札前で待ち合わせにした。前日の別れ際にメールアドレスを交換して、簡単に打ち合わせをした。LINEは登録していないの? と尋ねる縁に、景は静かにうなずいた。アカウントを交換するような相手もいないし、「仕事」の打ち合わせ上、LINEよりもメールのほうが活用するのだ。
サーシャには、今日出かけてくる、とだけ言った。養母は、そう、と言っただけで突っ込んで尋ねる真似はしなかった。無駄に詮索してこないのはありがたかった。
先に着いたのは景だった。午後四時五十五分。休日の鎌倉に来るのは初めてだった。学生の姿も少ない。薄暗いからか、鎌倉駅も、人を吐き出すことよりも、人を吸い込むことに使われている。駅に入る人は、皆それなりに疲労の色を持っていて、充足した顔をしていた。
縁は時間通りにやってきた。景の姿を確認すると、笑顔を見せて駆け寄ってくる。
「お待たせ。遅れてごめんなさい」
「待ってない。さっき来た」
「でも、景のほうが先に来たわ」
会うのは三度目だが、縁は今日もひかりの中にいるかのように眩しい。景の恰好は「仕事」の時と変わらない。裾の長い黒のパーカーにジーンズ。普段から、服の色は黒か紺で統一している。反対に、縁はレース生地のキャミソールワンピースに、茶色のカラータイツを合わせている。桃色のワンピースは、色素の薄い茶色の髪によく似合っていた。
「今の時代はシネコンで見るのが普通でしょ。こういう小さいところのレイトショーなんて、絶滅危惧種じゃないかしら」
「ゆかりさんは、映画好きなの?」
「結構ね。世の中の映画好きってもっとディープだと思うんだけど。そうね、映画に行くんだって思うと心が躍るぐらいには好きね。景は映画館にはいかないの?」
「あんまり……。ちょっと苦手で」
「そっか。結構空気悪かったりするわよね」
映画館への道のりで、縁は好きな映画のタイトルを、指を折りながら挙げていく。『愛の嵐』、『道』、『太陽がいっぱい』、『ブレードランナー』、『レミーのおいしいレストラン』、『初恋の来た道』、『ウォーリー』、景の知っているタイトルもあれば、知らないタイトルもたくさんある。自分は何が好きなのだろうと景は考えてしまう。『道』は好きだ。『ブレードランナー』は見たことがない。『ウォーリー』はイヴがかわいかった。
図書室で映画の約束をして以来、景は縁と少しづつ顔を合わせるようになった。休み時間、教室を移動するときにすれ違ったり、たまに昼休みに縁が図書室に来たりする程度だ。話すうちに縁は自然と「景」と呼ぶようになった。同じように縁って呼んでと言われても、景は踏み出せない。誰かを呼び捨てで呼ぶ自分の声が浮いてしまう気がして躊躇ってしまう。思い切って呼ぶのが「ゆかりさん」だった。
映画館は縁の言う通り、大型シネマコンプレックスではなく、個人経営の小さいところだった。「オリオン座」という名前の、少しさびれた映画館。ロビー一面の赤いじゅうたんは埃っぽく、壁には色あせた昔の映画のポスターが貼ってある。白黒の「雨月物語」。若かりし若尾文子。東映が誇る「白蛇伝」。チケットを購入する横の購買部には、ポップコーンしか売っていなかった。マリアは、というか、サーシャはどこからこの映画館のチケットを仕入れてきたのだろうか。あの養母に引き取られてそれなりに長い時間が経ったが、未だに景にとってもサーシャは謎の塊だった。チケットを訝しんでいる間、縁が購買で紙コップほどのサイズのポップコーンを買ってきた。映画にはやっぱりこれ、と言いながら一つを景に渡す。
「え、いいよ私は」
「いいじゃない。これも雰囲気よ雰囲気。だいたい、映画館でポップコーンを食べないなんて馬鹿だわ」
強引に手に持たされる。代わりに景は、自動販売機でウーロン茶を買って縁に渡した。自分には水だ。気にしなくていいのに、と縁は笑う。望んでいなかったとはいえ、縁はわざわざ景のために用意したのだ。茶ぐらい出さないと申し訳ない。
チケットを切って開場すると、空席のほうが目立った。女の子二人組がもう一組と、若い男性が一人いるぐらい。景は席に座ってポップコーンを一つ口に入れた。味はわからないのに、舌や葉の隙間に綿が詰まったような感じがした。口の中の違和感を水で流し込む。景の隣に座る縁は、これから見る映画のチラシを眺めながら、細い指でさくさくと白い綿を運んでいる。白魚のように細い手首。縁が、景の視線に気が付く。
「私の手に、何か付いている?」
——昨日の夜、運悪く見てしまった夢がよぎる。そんなことは勿論言えない。何もない、ごめんなさいと謝っていると、映画の始まりを告げるブザーが鳴った。
『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は実写映画から始まった。ノスタルジックな映像。主演女優の瑞々しい魅力が際立つ。もともとはドラマで、映画用に再編集されているらしい。ぼんやりと眺めているうちに実写版が終わる。いい映画だったな、が、景の第一の感想だった。
アニメ版はこれでもかというぐらい映像が美しく作られている。そして何故か、景には実写版よりまっすぐに登場人物の発言が突き刺さってくる。内容は似ているはずなのに。美しい映像は時に暴力的になるのだと思い知った。ぼんやり見て、何となく綺麗だな、いい映画だったな、と終わるのが景にとっての映画だったのに。見ているうちにだんだんと、怒りのようなものが湧いてきて、その怒りも空の中に虚しく霧散していく。
そうだ、これは暴力だ。そうでなかったら、こんなに苦しくなるはずはない。じゃなかったら、さっきの映画で、今みたいに他人事のように感じないはずだ。
花火がとても綺麗だ。アニメーションという手法で火薬の花をえがいているからだろうか。万華鏡のような平面さと。宝石のような立体感。きらめきながら咲いて、ひかる石になって落ちてくる。
あんな風に石を投げて、一時的でもやり直せるなんて。この映画はなんて美しくて都合がいいものなのだろう。
エンドロールがぼやけた。歌が、耳のあたりをうろついている。劇場が明るくなって、縁に声をかけられるまで、それに気が付かなかった。
「景、どうしたの? 景」
「どうしたのって、どうして?」
「あなた、泣いているわ」
景は指先を目元に置いてみる。確かに濡れていた。——泣いていると自覚したら、余計にあふれて止まらなくなった。
「景」
映画がよかったの? 感動したの? そう尋ねる縁の言葉には、思いっきり首を横に振った。感動なんかしない。出来ない。
ただ羨ましかったのだ。
「なんでもない。ゆかりさん、先帰って」
「駄目よ。置いていけるわけないでしょう」
縁は鞄の中からタオルハンカチを出して景に渡した。ふわふわの触り心地に、リボンの刺繍がついた可愛いデザイン。感触が、昔母から貰ったハンカチに似ている。私の涙で濡らしちゃダメだと思いながら、景は服の袖でごしごしと子供のように目元をぬぐった。
「大丈夫。大きく息を吸って」
縁が景の手を握った。慰められるとまた悲しくなる。悲しくなって、新しく液体が分泌される。どうして、あんな夢を見てしまったのだろうか。こんな日に限って、母と姉が夢の中で笑っていた。映画の綺麗さが疎ましくて。一回でも石を投げてやり直したいと思った自分が馬鹿みたいで。三回しか会ったことのない女の子の手に縋ってしまう自分が愚かしくて。
この柔らかさが振り払えない。
縁の手は、姉の手に似ていた。