三話
中学生一年の、一学期の話だ。
当時景が所属していたクラスで、女子生徒の間でスカート降ろしが流行った。女子が女子のスカートを降ろして、スカートの下に何を履いているか確認するようなくだらない遊びだ。ハーフパンツなのかスパッツなのか、それとも下着なのか。クラスの女子たちはきゃあきゃあ騒いでいたが、景には何が楽しいんだかよくわからなかった。流行らせたのはクラスの中でも交友関係の広い、人気者の女の子だった。
当初、景は関わらないように、ずっと机で寝たふりをして無視し続けた。景が見ないふりをしているうちに、それは遊びから性的なからかいの意味を持ついじめになり、一人のクラスメイトがしつこく標的にされてしまっていた。眼鏡をかけていて、綺麗な黒髪をおかっぱ頭にした気の弱い女の子。その子がやめてよと言っても誰も聞かなかった。スカートの下に何を履いていようが嫌なものは嫌で、下半身が無防備にされた時の屈辱を想像する人間はいなかった。ただの子供の遊び。標的の女の子以外、みんな笑っていたから。担任もそれで済ませようとしていた。
何回目か、標的の女の子の下着がさらされてしまったとき、景は机から起き上がった。スカートを降ろして笑っていた女の子に近づき、その子の腹に無言で中段蹴りを食らわせた。遊びを流行らせた女の子だ。その時にはもう、「仕事」のための相応の実力を身に着けていた。景は「うっかり」本気でやってしまい、蹴られた女の子は、蹲って胃の中のものを逆流させた。もしかすると肋骨にヒビが入ったかもしれない。
同級生たちにとって、学校での景は「おとなしい女子生徒」だった。必要最低限の会話しかせず、昼休みになればどこかへ消えて、十分休みはひたすら机に突っ伏して寝たふりをする。友人らしい友人はいない。そんな景がいきなり振るった暴力に、教室は静まり返った。
とにかく不愉快だったのだ。いじめられていた子には何も感想を抱かないが、昔、景はあれ以上に酷い目にあったことがある。度が過ぎたところで、他人事のように思えなくなった。気が付いたら立ち上がっていた。
三日後、サーシャが学校に呼び出された。首謀者の少女は、母親がPTAの会員だった。話が少女から母親に行き、母親から学校に行き、学校からサーシャに連絡が入った。放課後に臨時委員会が開かれ、景の所業について問題にされた。その場にいるのは、いじめの首謀者の女の子と、その母親。スカートを降ろされた女の子と、その母親。クラス担任に学年主任に教頭に、景とサーシャ。
その場にいる全員が、最後に現れたサーシャの姿を見て、口を開いた間抜けな顔をした。日本人が持たないほりの深い美貌に、金髪。隙のないパンツスーツ姿はまるで猟犬だった。血の一滴もつながっていない景とサーシャを見比べ、教頭は、あなたは浅月さんのお母様に間違いないですかと確認する。サーシャは背中を伸ばして、私が浅月景の母親ですと堂々と答えた。
いじめの首謀者の母親は、サーシャに一瞬ひるんだが、すぐに持論をまくし立てた。華やかなレディーススーツに身を包んだ、裕福そうな女性だった。自分の子育てが何一つ失敗していないという、根拠のない自信に満ち溢れている。
――人の娘に蹴りを食らわせるなんて、あなたは一体家庭でどんな教育をしているのか。怪我をさせていいと思っているのか。だいたい、あなたの娘に私の娘は何もやっていないではないか。たかが子供の遊びで怪我を負わせるのか、そんなにひどいことを私の娘はやっていない。——景に蹴られた女の子は泣いている。スカートを降ろされた女の子は気まずそうにうつむいている。学校側は穏便に済ませたいのか、教頭も担任も母親の言葉に静かに頷いている。PTAの役員である母親は、それなりに力を持っているらしかった。
景は制服のスカートの上で拳を強く握り、ひたすら下を向いていた。その子を蹴ったことに、景は後悔も何もしていない。そんな自分は異質なのだろうか。
サーシャを巻き込んでしまったことが、ただただ申し訳なかった。
「たかが子供の遊び、ね……」
サーシャは足を組んですべての話を黙って聞いた。足をのばして立ち上がり、その母親にゆっくりと近づいた。
長身のサーシャはその母親を見下ろす形になる。
「脱ぎなさい」
「は?」
「脱ぎなさいと言ったのよ。何なら、今ここで、私があなたのスカートを降ろして差し上げましょうか?」
「嫌よ! なんの権利があってそんなこと言うのよ!」
「大人がやられて嫌なことは、子供にとっても遊びで済まされませんよ」
サーシャが母親の胸倉をつかみ、力任せに引き寄せる。その気になれば、拳一つで人を殺せるサーシャだ。母親のシャツが、ぎりぎりとちぎれそうな音を立てる。サーシャは殺気に満ちた静かな瞳で、母親を睨み据えた。
「——子供の尊厳を、親であるあなたが軽く見るな。周りの人間すべてが遊びで済ませていた行為を、私の娘が不愉快に思った。あなたの娘や、周りの人間が汚していたその子の尊厳を、私の娘が守った。それだけのことです」
サーシャはその子、と言った女の子をちらりと見つめた。標的にされていた女の子は、ぼろぼろと涙を流していた。隣に座る女性が、女の子の頭をしっかり抱きしめた。辛かったね、ちゃんと相談に乗ってあげなくてごめんね、と後悔を口にしながら。
臨時委員会はサーシャの一言で流れが変わった。景一人の暴力を糾弾する場から、教室内で流行っていた悪質な遊びについても話されることになった。下校時間を過ぎても行われ、紺色の空に、星が現れ始めた時に終了となった。アクアに乗り込みながら、今日は疲れたから、夕飯は外で食べましょうかねとサーシャは口角をあげた。サーシャと二人だけになって、景は臨時委員会中ずっと口を閉ざしていた口を開いた。
「サーシャ、ごめんなさい。巻き込んでごめんなさい……」
いたたまれなくて何も言えなかった景の口からこぼれたのは、養母への謝罪だった。
「私に謝ることはないわ。あなたが不愉快に思うのも当然だもの。でもね、景」
アクアの中で運転席のサーシャと助手席の景は向き合った。
「立ち向かったのは偉かった。あの子を守ったんだから。私はあなたを誇りに思うわ。でもね、どんな理由であれ、蹴るのはよくなかったわ」
「どうして?」
「力が人を守るとは限らない。どんな理由でも暴力をふるうこと自体、いいことではないから。——あなたは人を守ったかもしれないけど、同時に人を傷つけたのよ」
話の流れが変わっても、それでもあの母親は「景が娘を蹴ったこと」は譲らなかった。蹴ること自体どうなのか、と。そこについては、サーシャが素直に謝った。
「でも……」
「暴力には責任が伴うの。あなたが責任をとれればいいわ。でも、もしあなたが不快に思ったから、という理由だけであの子を蹴って何も思わないなら、あなたはその人と同じ人種になるのよ」
納得したいような、出来ないような複雑な気持ちになった。引き金を引く時の責任について語った時と同じ、理解の仕方を求めてしまう。それでもサーシャが言うことには、間違いは少ない。——いつだって、私を守るために動いてくれた。景はそう納得し、静かに頷いた。サーシャはいい子ね、と言いながら景を抱きしめた。
*
――その光景を見て、景は昔を思い出した。中学一年生の時の、今思えば自分でもどうしてああしたのかわからない出来事。思い出したのは、目の前にいる女の子が、昔のいじめの被害者と同じ綺麗な黒髪だったからだ。
夕方にも近い時間帯。今日の朝は先頭の女性専用車両に乗れなかった。朝、いつもの路地裏を歩きながら、それだけで何となく嫌な予感がした。面倒なことが起こりそうな予感だ。きちんと授業を受け、昼休みに図書館で過ごし――その時にサーシャからもらった映画のチケットを本と本の隙間に隠した――午後の授業もおとなしく受けた後。仕事はないから、サーシャのところでトレーニングしようと思って帰りの道を歩いていた時だ。
景と同じ鎌倉桜花女学院の制服だった。小柄で、肩甲骨までの黒髪がつややかな真面目そうな女の子。部活動に入っている学生は、まだ学校の中で活発に活動しているはずだ。帰宅部で、向かうところは同じJR鎌倉駅だろうと想像できた。学年はわからない。
そんな同じ学校の生徒は、景の目の前でたちの悪そうな二人の男に絡まれている。
黒髪をパーマにした男と、茶髪の男。二人ともそれなりに体格がいい。スポーツでもやっているのかもしれない。観光客が、女子高生をナンパしているのだろうか。いにしえの木々香り立つ古都鎌倉でも、こんなくだらない出来事は起こる。
あの時のことが影響しているかは問うたことはないが、サーシャからは、「仕事」の時以外、自分の実力を発揮するような行動を起こすなと固く言われている。
景だって、率先して人と関わりたくない。それが人助けだって本当は嫌だ。見なかったふりをして、通り過ぎてしまいたい。
頭の悪そうな会話が聞こえてくる。女の子は嫌がっているのに、二人の男はやめない。塀に追い込んで、茶髪の男が女の子の細い手首をつかむ。短い悲鳴が上がる。女の子は涙目になって、完全におびえ切っていた。
——あれがもし自分だったら、という想像力は景にも残っていた。
景は静かに近づいた。足音から、二人の男が景の存在に気が付く。
「あ? なんだお嬢ちゃん。お嬢ちゃんも、俺たちと一緒に遊びたいわけ?」
改めて、周りに誰もいないことを確認する。不愉快な笑いを張り付かせて、黒髪の男が景に近づいてきた。彼女に向かって手を伸ばそうとする。
つかまれるより先に、景の左手が動いた。相手の手首をつかみ、間接をひねって、景は体の重心を移動させる。そして、流れるような動作で黒髪の男を投げ飛ばした。
投げられた黒髪の男は、太ももと腰をしたたかに打つ。女の子も茶髪の男も、小柄な景が体格のいい男を投げ飛ばした様子に目を丸くさせている。
その隙に、景は茶髪の男の股間を「それなりに弱い力」で膝蹴りした。ここは本気でやる必要はない。男が膝から崩れ落ちた。女の子の手首が解放される。
「行こう」
水銀の悪魔と違って、とどめを刺す必要なんてない。こんなろくでもない連中でも、人間は人間だ。景は名前の知らない女の子の手を取って駆け出した。人がいないといっても、この場にずっといるのはよくない。待て、という声を背中で聞いたが、誰が待ってなどやるものか。
女の子を助けた、その翌日。
昼休み、景は図書室で窓際の席に座って本をめくりながら葉桜を眺めていた。本の内容もなかなか入ってこない陽気で、葉桜が賑やかな生命を歌っている。何も起こらない、憩の時間。
景はページをめくるのをやめて、文庫本を枕代わりに机に突っ伏して眠ることにした。イヤホンを耳に入れて、iPhoneの音楽機能をセット。モーツアルトのソナタ集にする。昼休みはあと20分以上ある。前に、マリアはいいことを景に教えてくれた。「眠れないときはクラシックを聴くといいですよ。安眠効果があります」——そんなアドバイスから、iPhoneにはマリアが選んでくれたクラシック音楽が何曲か入っている。
演奏家の鼻息。モーツアルトの曲の、星粒のような音。葉桜がこすれる音、図書室にいる静かな生徒の本をめくる音がすべて混じりあう。たまにひそひそと笑いあい声も。眠りに身を任せる直前。
——突然、音楽が耳から消える。iPhoneの充電が切れたのかと思ったけれどそうでもない。耳の中の異物感が消えたのだ。
「あなた、正義の味方みたい」
鈴を転がすような声が、景の耳元に届いた。
聞き覚えのある声に驚いて顔をあげると、桜の中にいた少女が隣に座っている。やわらかい光を自発的にはなっているような姿で、景の耳に入れていたイヤホンのコードをぶらぶらとつまんでいる。
「会えるといいわねって言った後だったけど、思ったよりも早く会えたわね。昨日のあなた、本当に格好よかった」
思わぬ少女の言葉に、景は狼狽する。いきなり現れたのも驚いたが、それ以上に彼女の口から出た言葉が信じられなかった。
「どうして……」
それを知っているのか、と聞きたかった。
助けた女の子とは、鎌倉駅で別れた。鎌倉駅に着いた時、丁度逗子行きと横浜行きがホームに入ってきたのだ。家が逗子だという彼女がきちんと電車の中に入るのを見届けて、景は反対方面の横浜行きの電車に乗り込んだ。女の子は何度も何度も景にありがとうと言った。景は名乗らなかったが、私が助けたということは誰にも言わないでねと約束させた。万か一「仕事」に支障が出たら困るのだ。
あの女の子が誰かに言ったのだろうか。景がそう疑ったところで、桜の中の少女は、たまたまよ、と答えた。
「昨日の夕方、見ていたの。たまたま。私のあの路地帰るときに通るから。悲鳴が上がったほうに行ってみると、あなたが大の男の人を投げ飛ばしたところだった」
「み、見てたの……」
景は愕然とした。周囲に人がいないことをちゃんと確認したのに。見られてしまった。迂闊だった。
「あ、あの。お願いがあるんだけど……。秘密に、してもらえると、助かる」
「どうして?」
「その、周りに迷惑がかかるし……」
——中学一年の時、スカート降ろしを流行らせた女の子に中段蹴りを食らわせた後、暫く同級生から「おとなしいふりをして理不尽に暴力を振るう狂暴な女」「近づくと殺されるぞ」と陰口を叩かれることになった。臨時委員会では「スカートを降ろす悪質な遊びを行う生徒に問題がある」とも言われ、そちらの方が厳重注意を受けることになったが、教室内やクラスメイトの事情はそうはならなかった。もしかしたら蹴られた女の子が腹いせに嘘の噂をばら撒いたのかもしれない。そうすると、友人関係のない景よりも、親がPTA役員の上教室内で交友関係の多い女の子の肩を持つのは明白だった。
必要のない関係を築きたくはないし、誰が何を言おうと別に構わない。ただ、心でそう思っていても、とげのある噂を撒かれたのは流石に気が滅入った。
「あなたは悪いことは何もしてないし、もっと堂々としていればいいと思うのだけど。……大丈夫よ、誰にも何も言わないわ」
ありがとう、といった景の声は、蚊が泣く音よりも小さかった。
「代わりと言っちゃ何だけど、あなた、今度の土曜日時間ある?」
「特に何も……」
「なら、これ一緒に行かない?」
これ、といったものを少女は景に見せる。
——見覚えのある、ではなく、昨日まで景が持っていたものだった。
「これ……。どうしたの?」
拾ったの、と少女は柔らかく笑った。
「さっき見つけたの。何かなあと思ってみてみたら、映画の招待券。拾いもので申し訳ないんだけど、これを挟んだ人、故意だと思うのよね。いらないから誰かが行けばいいと思ったから挟んだのよ。だからこれはもう、私のもの。でもペアチケットだし。ねえ、どうせなら一緒に行かない?」
「どうして」
「こないだ私が冗談で済ませちゃったけど、本当は結構本気だったのよ?」
——一緒に見ない? 桜の花。
景を誘ったときの、少女の顔を思い出す。桜の中の少女は、今でもとびきり優しい光の中で輝いている。
レイトショーのチケットは少女が想像した通りだった。映画の日が近くなってきたから、景は持て余していることに罪悪感を覚え始めた。だけど家で捨てるのは嫌だった。もし、ごみ袋に入ったチケットをサーシャが見たらどう思うだろう。だからせめて、自分の中で罪悪感が消せるように、サーシャに何か言われたら「欲しい人がいたみたいだから」と答えられるように、図書室の本と本の間に差し込んだのだ。
喉がからからに乾いて次の言葉が出せない。昨日まで自分のものだったチケットが、姿を変えて、共に見に行く人間を携えて景を誘っている。ひかりの中にたまには来てみなさいと誘っている。
彼女が眩しい。眩しすぎて、溶けてしまいそうなほど。だから。
「私なんかじゃだめだよ……」
景の口から、行くか行かないかではなく、別の答えが滑り落ちた。
「どうして?」
「その……。隣にいて、あなたが眩しい。釣り合わない……」
うつむきながら、精一杯の矜持をもって景は答えた ——自分は汚れているから、とは言えなかった。未だに過去の出来事を引きずっている景にとって、目の前の少女はひかりから愛された存在に見える。そんな人間が羨ましいなんて言っても、彼女は困るだけだろう。
図書室の中が、静かな話声と本のささやきで充満される。景と少女の間に沈黙が続く。やがて桜の中の少女は、押し黙った景の肩に手を置いた。
「そんなことね、考えなくてもいいのよ。友人関係を築くのに、釣り合うも釣り合わないもないんだから」
景はゆっくりと顔をあげる。眩しくて、優しい微笑みだった。景を否定しない、慈しみを持った瞳。それでいて、少女らしい煌めきに満ち溢れている。
——チャイムが鳴った。昼休みはあと5分で終わる。呆れて去ってくれればよかったのに、と思った。わかった、ほかのだれかを探す、と彼女も言えばよかったのに。だけど少女は景の目の前にいる。目の前にいて、景の言葉を待っている。
肩に置かれた手がとても温かかった。
「あなたの名前、なんて言うの?」
「あ……。あさづき、けい」
かすれた声で名乗る。桜の中の少女は、けい、とはっきりとした発音で呟いた。けいってどういう字? と聞かれたので、風景の景と答えた。
「私はゆかり。良縁の縁で、ゆかりって読むの。で、どうする? 映画」
満開の桜のような口をほころばせて、これも何かの縁だから、と彼女は続けた。口で応える代わりに、景はわずかに頭を上下させた。




