二話
オリエンテーションや部活紹介などを経て、景の高校生活は緩やかに始まった。鎌倉桜花女学院は100年の歴史を誇る女子高で、成績優秀な希望者はエスカレーターで大学まで進学できるシステムになっていた。
四月上旬の時点で、既に仲の良いグループがいくつか出来上がっているようだった。最初の授業の時、自己紹介をしたが誰が誰だか把握していない。自分でも何を言ったか、景はろくに覚えていなかった。景があまり興味を持てない同世代の女の子たちは、授業前や十分休みの時間を、談笑したり予習をしたりと、それなりに楽しく過ごしている。どこの部活に入った? とか、昨日のドラマ見た? とかそんな話。そして昼休みは、机をつけて楽しげに過ごす。
朝教室に入ると、景は中学時代と変わらずに、授業開始までの時間を静かに机で過ごした。耳にイヤホンを突っ込んで、うとうとと目をつぶる。電車の時間が早いのがネックだ。春の陽気と相まって眠くなる。高校の制服はごわごわしていて着心地が悪い。
景が鎌倉の学校を選んだのは、誰も自分のことを知らない学校に行きたかったからだ。通う高校が名門だとか底辺だとか、そんな情報は景はまったく興味がない。横浜だと同じ中学の卒業生がいる確率が高い。率先して顔を合わせたくはなかった。学校は水槽に似ている。合わない水槽だと呼吸がしづらい。景にとって、中学の頃が「合わない水槽」だった。金魚のむれの中に、アカヒレは生息しづらい。そして、受かったところがこの高校だった。ただそれだけの話だった。
授業が始まれば、おとなしく教師の話を聞き、昼休みになったら手早く昼食を食べて、図書室で過ごす。そして、午後の授業を受けて真っすぐ帰る。中学の時と変わり映えのしない学校生活。
サーシャからもらったレイトショーのチケットは自宅の机の引き出しにしまってある。捨ててしまおうかとも考えたが、そのまま残している。無駄になりたくないが、景にはチケットを譲れる友人もいない。持て余したまま、期日になってしまいそうだな、と思っている。
学校と家を往復し、合間にサーシャの事務所に行って体を鍛える。仕事上、体は資本だから、おろそかにできない。ぼんやりと過ごす景が、唯一怠らないのが鍛錬だった。
そう過ごすうちに、高校に入ってから初めての仕事がやってきた。
*
その日は早朝で、場所は地元横浜の港区だった。五日前の夜に、仕事帰りの男性が殺害される事件が発生した。目立たないところに連れ込んで撲殺し、最終的に男性はゴミ捨て場で体が二つに分かれた状態で発見された。その事件はテレビで見て――昨日の夜、サーシャから景に仕事の話が来た。
「被害者の体に少しだけ水銀が付いていてね。そこから調べがついたのよ」
手練れになるとそういう痕は残さないものなんだけど、爪が甘いやつみたいね、とサーシャは笑いながら話した。
「下級のやつが一体だけだから、すんなり片付けられると思うわ。片付けたら、マリアに連絡してね。近くに待機しているから。ちょっと遅刻しちゃうかもしれないけど、それ終わったらちゃんと学校に行ってね」
朝、サーシャと同じ時間に起きて、制服のまま現場に向かった。動きづらいが、下級のやつが一体、というサーシャの情報を信じることにする。そのまま学校に行かなくてはいけないから、着替えを用意するのが億劫だった。
――景の足元には今しがた仕留めた水銀の悪魔がいる。30代ぐらいの男性型。ごく普通の、人間っぽい悪魔。その一体は、景の住んでいるマンションから徒歩20分のアパートに暮らしていた。——夜にホストの仕事をして人間に紛れている。彼の通るルートを把握したの。一本、人通りの少ない狭い道があるわね。そこで待ち伏せが出来ればマスト――というのはサーシャの情報だ。待ち伏せをして、その後は簡単だった。誰も人が通らないことを確認する。通った瞬間に顔面を蹴り上げ、声を上げる前にカランビットで悪魔の喉を引っ掻く。そうしてその一体は、うつぶせに倒れた。悪魔の顔は赤く、体からはアルコールのにおいがした。
水銀の悪魔の中には、「悪魔にされた」普通の人間もいる。足元に倒れた悪魔が、元人間なのかどうかはわからない。これも、もともとは人間だったのかもしれない。
悪魔にされた元人間は、景はかわいそうだとは思う。でもそういう風に思っていると、足元をすくわれてしまう。悪魔にされた元人間が、いつどこで他の悪魔と同じように事件を起こすかはわからない。水銀の悪魔は全員敵だと思って臨んだ方がいい。そうした方が躊躇いは生まれない。
すかさずその場から離れ、マリアに連絡する。後の死体は、すぐにマリアがどうにかしてくれる。今は、朝六時半。横浜駅まで少し遠いけれど、よっぽどのことがない限り、遅刻にはならないだろう。が……。
朝日が眩しい。絵の具のような青い空が、活動を始める人々の忙しない気配を感じとる。
早朝の仕事が、景は嫌いではなかった。それは一日の始まりに、世の中の脅威を少しだけでも排除できたと思えるからだ。景にとって清々しいと心の底から思える、貴重な瞬間。——だから今日は少し、遅刻していくことにする。制服に「仕事」をした形跡が何もついていないことを確認する。カランビットに付着したどろどろの水銀も、いつものように悪魔の服で拭う。
赤レンガ倉庫のベンチで、何も考えずに横浜の海を眺めた後、通勤ラッシュの時間をずらすように横須賀線に乗り込んだ。
*
腹痛のため一時間目を遅刻する、と学校に連絡を入れた。景の嘘に、担任教師は無理せずにゆっくりと来なさい、と言ってくれた。
鎌倉駅を出て学校に向かう。時間が少しずれたからか、学生の姿もまばらだ。桜をながめながら路地裏に入ると、驚くほど人の姿が少なくなる。人通りが少ない道を歩きたいから、いつも若宮大路は通らない。
突然風が吹く。風が暴れて、髪が踊る。
そこで景の足が止まった。
一本の立派な枝垂れ桜がそこにある。枝垂れ桜は、景の髪と同じように、枝が風に揺られている。桃色の花弁がはらはらと踊る。ソメイヨシノは入学式の時に満開だったので、桜は終わりの時期だ。目の前の枝垂れ桜も、ところどころに緑色の葉が顔を出している。
綺麗だった。だけど綺麗なのは桜ではない。綺麗なのは、桜の木の下にたたずむ、世界中の綺麗を集めて生まれたかのような美しい女の子のことだ。
時間が止まった。
卵型の輪郭。色素の薄い茶色の髪は柔らかく、背中まで伸びている。陶磁器のようにすべらかな肌は、透き通るほど白い。桜の花弁がこぼれたかのような血色のいい唇。黒目勝ちの瞳は大きく潤んでいる。ブレザーの袖から見える手首は細く華奢で、スカートから伸びる足は流れのあるラインを持っている。この場にいるのが景ではなくて、筆を持った画家ならば、描かずにはいられないほど完璧な空間だった。主役は桜のはなびらではなく、熱いまなざしで散りゆく桜を見つめる少女だ。
「あ……」
景と女の子の目が合う。その瞬間、スカートの中に隠したカランビットを意識してしまった。悪魔を刺した痕跡は消してきたけれど、問題はナイフを持っている、ということだ。
景の中で、今すぐにこの場から走り去りたくなる衝動が生まれた。——私の目に映った彼女は、澄み切ったガラス細工の花のように、文句なく美しい。だけど、彼女の目に映った私は、薄汚いネズミのように映っているだろう。彼女がぴったりと似合う鎌倉桜花女学院の制服は、私には死ぬほど似合わない。
——立ち去りたくなると同時に、景は彼女から目が離せない。多分それは、美しいから。目を奪われたから。ネズミだって、満開の桜の花に惹かれることがあるのだ。
「……桜っていいわね」
独り言のようにつぶやいた声も、鈴を転がすような音だった。何がいいのだろうか、と景が思っていると、再び彼女が言葉を紡ぎだす。
「暴れるように咲いて、暴れるように散っていく。ねえ、あなたもさぼり?」
「い、や。そうじゃなくて……」
景は、朝ちょっと、腹痛がひどくて、ともごもごと嘘の言い訳をする。どうしてこの子に対して言い訳しているんだろう、と少し謎になった。実際はナイフを使って水銀の悪魔を一撃で倒して、その後海を眺めていた。もちろんそんなことは言えない。
再び風が吹く。桜の花が散っていく。目の前の少女の髪が、風のかたちになる。風に、ほんのりと潮のにおいが混じった。先ほど感じた横浜の海とは違うにおい。
「葉桜になる前に花見って思っていたら、こんな時期になってしまって。だから今日は一日、鎌倉の桜を見に回るつもり。一緒の高校なのね。あなたもどう?」
「え……?」
「一緒に見ない? 一人で見るのも寂しくて」
思わぬ誘いに、景はたじろぐ。一緒に学校をサボって桜を見よう、と誘われている。友達みたいに。サーシャにはちゃんと行け、と言われたけど、正直景にとって、学校なんて高卒の学歴さえ持てればそれでいい。だけど、彼女と景は初対面で、友達でも何でもない。おろおろしているうちに、少女は鎌倉の桜の名所をすらすらと挙げていく。建長寺、源氏山公園、妙本寺、本覚寺、鶴岡八幡宮。鶴岡八幡宮以外、初めて聞く場所だった。ほかにもあるのよ、という彼女の声を聞きながら、景は気が付く。
友達だったら、この誘いに乗っているのだろうか。乗ってもいいのだろうか。昔、同級生と交わした花火の約束みたいに。
戸惑いを隠せない景に、桜のなかの少女が声をあげて笑った。本気にしないで、と目元に涙を浮かべる。その笑い方すら、上品で可愛らしい。嘘よ、嘘。あなたは真面目そうだもの。そんなことできないわよね。
「冗談よ、また会えるといいわね」
そうして足音も立てずに、景に背中を向けて歩いていく。桜の花を身にまといながら。景は後姿をじっと見つめた。クリーム色のブレザーに、赤のリボンタイ。茶色のチェックのスカート。指定の黒のハイソックス。同じ学校の生徒は、学校とは反対方向の道を進んでいった。綺麗で、自由で。そんな女の子を見ているうちに、景の心臓の速度が少しだけ上がっていった。
彼女は景にまた会えるといいわね、と言った。
景は彼女に、また会えるといいな、と思った。
そんな願望を、景は必死で振り払う。もう友人関係で失敗するのは嫌だ。学校に向かって走り出す。別に行きたくもない場所へと、嘘をついてネズミのように潜り込んだ。