一話
桃色の花弁がはらはらはらはら舞っている。風は冷たく桜晴れの日。さっきまでは、黒字で書かれた「入学式」という看板が立っていたはずだ。ひかりが入学したばかりの少女たちを照らす。春のひかりは柔らかいはずなのに、景にはたいへん眩しく感じられる。一緒に入学したはずの、明るい顔の同級生たちも。
「入学おめでとう、景」
式典はつつがなく終わった。来賓の祝辞や校長の言葉を左の耳から右の耳へと聞き流す。オリエンテーションや授業は明日以降になる。景は、校門を出て今日から通う学校の全貌をながめた。鎌倉桜花女学院。建物の構造は中学校と大して変わらない。少し外装が凝っているだけだ。
入学式からの帰り道。おめでとう、と言われた人間よりも、おめでとう、と言った人間のほうが晴れやかな顔している。おめでとう、と言ったのは景の養母だ。
「何度も聞いたし、そんなに嬉しいものじゃないでしょ……」
「いいえ、本当に嬉しいのよ。あの小さかった景が、こんなに大きく立派になって」
サーシャが頭を撫でようとしたところで、景はすっと体を動かす。この母親代わりの女性は、今日の入学式で新入生よりも目立っていた。長身で金髪のサーシャは、立っているだけで人目を引く。加えての美貌だ。あの金髪の美人何者? みたいな雰囲気が式典中ずっと流れていた。式典が終わったら新しいクラスに移動。担任が挨拶して、今日は終わりになった。校門の桜の木の下でサーシャと待ち合わせる。後は帰るだけなのだが。
「午前中で終わったんだし。どうせなら、ご飯でも食べに行かない?」
*
サーシャと景が入ったのは、入り組んだ路地裏にあるフランス料理店だ。二人が入ると、軽快にベルが鳴ってウェイトレスが迎えに来る。通されたのは窓際の席だった。高級感があって、制服姿の景が少し浮いてしまっている。
水を口に含む。グラスに輪切りのレモンが入っているけれど、景にはレモンの風味が感じられなかった。メニューを見ると、呪文のようなタイトルの料理がたくさん並んでいる。サーシャは目を細めて、楽しそうに料理を選んでいた。書いてある意味が分かるらしい。
養母は美食家の面がある。サーシャが作るものは凝っているし、どんな時でも料理に手を抜かない。たまにこうして、景を外食に連れていく。ここのお寿司はカツオの漬けがおいしいの、とか、オニオンスープがいい味しているの、とか解説を交えながら。
「何か食べたい?」
首をひねる。料理名を見ても、何が何やら想像がつかない。景は砂の味がしなければいいな、と思うだけで、あまり食に対する欲がない。とりあえず写真を見て、これ、と指した。魚介のスープだ。ブイヤベース、という名前で、呪文感が少ない。サーシャがにこやかにウェイトレスに注文をする。
「そうそう、これ。入学祝いよ」
綺麗にラッピングされたプレゼントボックスの白いリボンを解く。繊細な音がする。開いて現れたのは、腕時計だった。
「ありがとう……」
ありがとう、というべきなのかわからなくなる。高校に行く気がなかったから。本音を言うと、時計よりも新しいカランビットが欲しかった。
食事が始まると、サーシャはたいへん笑顔になる。にこやかな、というよりも、幸せそうな静かな笑顔。景は、サーシャの食べる姿が好きだ。味がわからなくても、自分が食べているものも美味なのだと思える。
「おいしい?」
牛肉の赤ワインソースを丁寧に食べながら、サーシャが景に尋ねる。ナイフとフォークの使い方が綺麗だ。外科医がメスを使うように、丁寧に内臓を切り分けているようなよどみなさがある。
「多分……」
「何の味かわかる?」
「……トマト、で合ってる?」
「まぁ、それ以外もあるけど、今はそれが感じられれば上出来ね」
味覚があいまいになったのは中学二年生の時だった。以来、食べても砂をかむような感触しかわからなかったり、どんなものを食べても焼いてない食パンの味しかしないことが増えた。原因は景自身もわかっている。サーシャも知っている。だからこうして、サーシャは景を外食に連れ出す。外で別のものを食べるといい気分転換になるかもしれないという、サーシャなりの気遣いだ。気を使わなくてもいいよ、と景が言うと、何のこと? とサーシャは笑う。
「私が食べたいのよ。それに、一人で食べるの嫌だもの」
何度かそう返された。
店内の音楽を楽しみ、食事を続けながら、サーシャはにこやかに、景はぽつぽつと会話を交わす。鎌倉もいいところね。横浜とは違う趣がある。そうかな? あんまり変わんないよ。でも海の広さは好きだな。外で「仕事」の話はしない。「仕事」については、家かサーシャの事務所で話す。
「学校、少しは楽しめそう?」
「……まだわかんない」
ただ、中学よりましならいいな、とだけは思う。景はサーシャにそう伝えると、そうなるといいわね、と答えた。なるわよ、と断言しないところが養母の優しさだった。
中学を卒業したら、景は高校に行かずに、本格的にサーシャの仕事を手伝うつもりだった。水銀の悪魔を駆逐する大事な大事な役目。だけどサーシャは景に高校に行けと優しく言って譲らなかった。最終的に景が折れて、三年生の夏休みから遅すぎる受験勉強を始めた。それなりに真面目に授業を受けていたから、成績は悪くはなかったのが功を奏した。受かったのは鎌倉の私立の女子高校。サーシャのマンションが横浜なので、横須賀線に乗って通うことになった。これから三年間、学校生活を送らなくてはならないと考えると、景は少しだけ憂鬱になる。
「そうだ忘れるところだった。これ、あげるわ」
デザートの桃のムースを味わいながら、サーシャは茶封筒をテーブルの上に置く。
「なに、これ」
「マリアからもらったの。鎌倉の映画館の、六時からの映画のチケットなんだけど。高校生の場合、一人じゃなくて誰かと一緒なら入れるらしいから」
人と交わりたがらない景の趣味は、読書と映画。学校にいる時間、図書室で一人で過ごすうちに読書を覚え、サーシャがいない時間は一人で映画を見ることが多い。映画が好きでも映画館にはめったに行かない。インターネット配信か、レンタルをして、リビングのテレビで視聴する。景の映画好きはサーシャの影響だ。サーシャは無類の映画好きだ。曰く、「なぜこの映画を見るのか、どこをどう面白いと感じるのか、それを考える作業が楽しい」から。
封筒を開いてみる。レイトショーのチケットは二枚分あった。「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の実写版とアニメ版の二本立て。日付は四月の第三土曜日だ。今の段階で、「仕事」の予定は入っていない。サーシャは、と景は養母を見つめた。——白い首を横にふった。
「興味なかったら捨ててもいいわ。どうせタダなんだもの」
——私と見に行くのではなくて、誰か、一緒に映画でも行けるような友人をつくりなさい。でも、無理はしなくていいわ。
サーシャはつまり、景にそういうことを言いたいのだ。高卒の学歴だけは持っておけ、という意味だけではない。高校に行け、と柔らかく言い続けたのは、人と交わって自分の視野を広くしなさいという意味も込められている。サーシャの意見は間違っていない。むしろ、まっとうな意見だとも理解している。だが、理解しているのと自分の心情は別のものだ。
中学の時にあんなことがあったのに、と思ってしまう。あんなことがあったのに景にきちんと学校に行けという養母は、大層な物好きだ。
サーシャのアクアに乗りながら街をながめ見る。鳩サブレの店に人が群がって、鶴岡八幡宮を参拝する。海が近い。横浜の海は都会の明かりと埃くささが混じっているからか、少し狭く感じられる。鎌倉の海は開放的だ。あの海がアメリカまで続いていると文句なく言わせるほど青い。
平和だ。この中に悪魔が紛れていて、毒を撒き散らして、誰かをずたずたにして、誰かを悪魔にしているかもしれないのに。そんなのは知りませんという顔をしている平和な街が、疎ましくもあり、羨ましい。ああやって誰かと平凡に過ごせればいいのに、と思う反面、景は考える。——いったん闇に引きずられた人間はなかなか平和の中に戻れない。この中にきちんと紛れようとしても、きっと自分の汚さに耐えきれなくなって、結局闇の中に戻ってしまうのだ。自分の意思とは関係なく。
夜、一人で部屋にいると、途端に心臓の奥が、牙でひっかかれたような痛みを感じて泣きたくなる時がある。あらゆる傷が溢れ出して止まらない。昔は傷に耐え切れずに、よくサーシャに縋って抱きしめてもらった。でももう十五歳になったのだ。子供のように甘えてはいけないし、甘えられない。
一人でいるのは嫌だけど、誰かと交わるには勇気がいる。そんな勇気を持つ気には、景は到底なれなかった。
だから早く引き金を引きたい。自分を肯定してくれる火薬のにおいを嗅ぎたい。こんな自分でも、少しは世の中を綺麗にしているんだという実感が欲しい。早く、憎くて仕方がない悪魔を駆逐したい。そして何も考えずに、泥のような眠りに就きたい。それが今の景の、切実すぎるほど切実な願いだった。