【後編】
――目覚まし時計の音で浅月景は目を覚ました。サーシャの腕に抱かれていたのは八歳の自分で、夢を見ていたのだと知った。今の私は十四歳になっていると顔を触りながら確認する。ゆっくりと海をかき分けるように、景はベッドから起き出た。六畳の自室には、ベッドと机に、本棚には何冊かの文庫本と映画のDVDが並んでいる。ペンギンの着ぐるみの寝巻のままリビングに向かう。3LDKのマンションの一室。
「おはよう、お寝坊さんね。学校に遅れちゃうわよ」
リビングに入ると、ブロンドの髪をきっちりまとめ、鳶色の瞳で柔らかく微笑む美女が、朝食の準備をしている。白い肌にほりの深い顔立ち。175センチの長身を、ハイブランドのパンツスースが隙なく包んでいる。養母のサーシャだ。夢の中のサーシャも目の前のサーシャも、変わらずに美しい。この人の見た目は年を取らない。たまに景は、この母親代わりの女性こそ、魔女か、人間の面を被った悪魔なんじゃないかと疑ってしまう。……でも水銀の悪魔を憎んでいるのは私と同じだ、と思うことでその疑いを頭から追い払う。
サーシャは朝の四時半に起きる。着替えてランニングをした後、事務所のトレーニングルームでたっぷりサンドバックを叩く。これが人体なら悲惨な死体になると思われるほど激しく。シャワーで汗を流した後、マンションに帰って朝食をつくる。食欲が慢性的に欠落している景と違って、サーシャは三食しっかり食べる。景がトーストとサラダと牛乳だけだが、サーシャの目の前にはプロテインと自作のサラダチキンとオニオンスープも並んでいた。サラダも景の倍はある。
「今日は味を感じる?」
「牛乳なら……」
よかった、とサーシャは胸をなでおろす。本当に、今日は多少、味を感じる。サラダとパンは味がわからないけど、牛乳が薄いな、と思った。こういう味なのだろうか。
「……今日の放課後、いいかしら?」
景はトーストをもそもそ食べながら、静かにうなずいた。
「場所はどこ?」
「品川の廃ビルよ。ちょっと遠いんだけど、マリアにサポートに回ってもらうから」
「わかった」
「ごめんね、なるべくあなたに負担のかからないようにはしたいんだけど」
「いいよ。私だって望んでやっているんだし。いつものように、得物は用意してくれると助かる。学校に持っていけないし」
もちろんよ、後でiPhoneに情報を送るわね、とサーシャは明るく答える。これから銃器類を扱う人間とは思えない軽さだった。
「それから景、これどうする?」
サーシャが出したのは『進路希望調査』と書かれたA4の紙だ。提出期限は明日。就職か進学かで丸を付ける。どちらも第三希望まで記入する欄がある。紙は痛んでいて、真っすぐに無理やり伸ばされている。——景が丸めてゴミ箱に捨てた後、サーシャが拾って伸ばしたのだ。景はわざとそっけなく答える。
「行く気はない。中学出たらもっと手伝うよ」
「駄目よ。せめて高校ぐらい出なさい。通信でもなんでもあるし。義務教育じゃないけど、義務みたいなものなんだから。最初に言ったでしょ。私の手伝いは、選択の一つでしかないって」
「……でも」
言いよどむ景の頭をサーシャは優しく叩く。
この人は、と景は振り返る。この人は、私がぐずっても、反抗しても、顔色を変えずに優しく微笑む。私が落ち着いて、言葉を出すのを待っている。あくまで自分の意見は変えずに、私の言葉も否定しない。本当に強い人間は、自分の強さをひけらかさず意思を曲げない。本当に優しい人は、自分の正しさを押し付けない。——景自身の甘さに付け込んでこない。紙にはどちらの進路にも、丸は付けられていない。
言いたい言葉が見つからずに、景はそのまま押し黙るしかなかった。ごちそうさま、と言って食器を流しに下げた。カウンターには黒いランチクロスにくるまれた弁当箱があった。今日のお昼ご飯だ。通っている中学には給食が出ない。いったん部屋に戻って制服に着替える。
制服が嫌いだ。どんなデザインも似合わないし、着たくない。なんで、女の子はみんなスカートを穿かなきゃいけないんだろう。脚が出るのがたまらなく嫌だ。制服のスカートの下にハーフパンツを必ず穿く。そうしないと、頭がおかしくなりそうだ。
サーシャの借りているマンションはセキュリティがしっかりしている。フロアで指紋認証をして一歩外に出た。
七月の空は高く、日の光のおかげで少しこもった色をしている。朝から太陽が、元気なほど仕事している。アスファルトが熱を持って、ローファー越しに景の足を焼いた。電柱には八月の花火大会のチラシが貼ってあった。ニトログリセリンのにおいを持つ火薬の花は、野に咲くささやかな花よりも親近感がある。——来年の花火に一緒に行こうと約束した同級生の顔を、必死で振り払った。
教室に入って後ろの左端が、景の席だった。朝から元気なクラスメイトをかき分けるように、席に着いた。話を掛けるような友達も同級生もいない。早く午後になってほしい。授業をおとなしく聞く。十分休みはイヤホンを耳に入れて、音楽を聴きながら寝たふりをする。凛として時雨は好きだけど、噂話は嫌いだから。興味のかけらもないのに振りまく悪口のような言葉も。
午前の授業が終わり、図書準備室でもそもそと昼食を摂った後、昼休みは図書室で過ごす。教室で昼食を摂らなくてもいいのが救いだ。必要以上にいたいところではないから。今日の昼はサンドイッチだった。朝よりも味はする。サラダチキンが入ったサンドイッチは無駄な塩味がしなかった。紙パックのオレンジジュースは、一口入れるとゆがんだ感触が残った。甘いけれどざらついた砂の感触。
学校にいる間の自分は熱を持っていない。ひとの形をもったただの人形だと景は思う。サーシャは高校に行けというけれど、彼女の意図が見いだせない。折角行っても意味がないと思ってしまう。だけど、朝サーシャに言ったように、自分の中で「無駄」と言い切れないのも事実だった。だから「就職」のところに丸が付けられない。
図書館で静かにページをめくっていると、ポケットの中のiPhoneが振動した。相手は確認するまでもない。内容を確認して、再びポケットにしまう。図書室は雨の日以外あまり人が来ない。外でサッカーをする生徒の声が遠く感じる。
学校が終わった後、景は真っすぐに校門を出た。午後になるにつれて、快晴だった空に分厚い積乱雲が生まれ始めた。天気予報は確認していないけれど、夕立がくるかもしれない。サーシャに指定されたコンビニの裏に回って、いつものワゴンが留まっているのを確認する。
車の運転をしているのは、サーシャの助手と名乗る人物だ。マリアという名前の黒髪の女性は、出会ったとき私もボスに助けてもらったのと教えてくれた。よろしくお願いしますと言って、景はワゴンに乗り込んだ。サーシャには何人か助手がいるが、景の迎えに来るのはいつもマリアだった。なじみのある人は落ち着く。
「指定した得物は足元にありますよ。それから、着替えも」
「ありがとう」
中学の制服だと動きづらい。エンジンがかかる前に車のカーテンを閉めて、速球に着替える。ストレッチジーンズにフードが付いたチュニック。靴はショートブーツ。ジーンズもチュニックもブーツもすべて黒だ。鞄の中の得物を確認する。
「あ……」
景はわずかに口元を緩ませた。相棒のような恋人のようなもの。サーシャが最初に渡してくれたもの。弾倉の数、得物の確認、標的の確認をして走る車の中を過ごす。車が高速道路に入る。車と雲の距離が近くなる。
——品川の廃ビルが水銀の悪魔のたまり場になっているという話は、サーシャから少し前から聞いていた。廃ビルは七階まであり、いくつかのグループが生息している。iPhoneに送られた情報によると、グループは三つ。三階に一グループ。人数は三人。これはあまり強くない集まり。五階のグループも似たようなもので、これは二人。七階のやつらは、七人。七階が一番厄介で、みんなそれなりに強い上に、一昨日15歳の女の子を集団で撲殺した上で、バラバラにして山に撒いた。聞くだけで血が沸騰しそうなほど残忍な事件。この中に一人上級がいる。上級の悪魔は、触れただけで人間を悪魔にする能力を持っている。こいつには気をつけなければならない。サーシャからの情報には、それぞれの顔写真と能力も送られていた。
景は黒のボディーバックの中に予備の得物を詰めて、体中にナイフをセットする。ジーンズのベルトには相棒をセット。チュニックのポケットの中に、予備の弾倉を入れる。マリアも自分の得物をワゴンから取り出して肩に担ぐ。彼女の狙撃用のライフルを見るたびに、マリアへの信頼が生まれる。
「私はいつものように少し離れたところから援護します。安心してください。終わったらすぐにワゴンに乗ってください」
「ありがとうございます」
「景さんは普通に、一階から入ってください。三階、五階のやつらは大したことありませんから」
「わかった。ほかのやつらに気づかれないようにやるね」
GPSをオンにして、互いの居場所がわかるように設定する。簡単に打ち合わせをしてから、景とマリアは別れた。マリアが定位置に着いたところで、景は廃ビルに入る。
使われなくなって久しいショッピングビルは、物哀しく不気味だ。薄暗い迷宮みたいだと思った。もともとは雑貨屋だったところ。カフェだったところ。ブティックだったところ。本屋だったところ。動かなくなったエスカレーターで静かに登る。ここが活気ある商業施設だったとは思えないほど暗く、しけった黴のにおいがする。人がいなくなると、建物は急速に老いる。建物が老いると、ドブネズミが集まって蝙蝠が集まって――悪魔が溜まりだす。
三階の悪魔たちは若い男のかたちをしていた。茶髪と金髪と黒髪と、三体の頭の色が違うのがわかりやすい。店と店の間の踊り場で談笑している。大学生ぐらいで、全員が雑誌に出ていてもおかしくないぐらいの美形。全員が綺麗な青銀の瞳を持っている。景は無防備を装って、静かに近づいた。
かつんかつんという足音から、手前にいる茶髪でケミカルジーンズをはいた悪魔が景の存在に気が付く。こんなところにガキが何の用だ、という顔をしている。嫌悪感を押し隠しながら、景はにっこりと笑う。すっと、気付かれないように袖に隠し持った二本のナイフを抜く。
「こんにちは。探し物していたら、こんなところにきちゃったの」
「探し物?」
距離にして5メートル離れている。その間を一気に詰めるように、景は地面を蹴って駆け出した。抜いた二本のナイフには、グリップエンドに人差し指を入れる保持リングが付いている。カランビットという名前のナイフ。刃はトラの牙に似ているが、景は半月に似ていると思っている。浅月、という景の苗字からサーシャが渡したナイフ。駆け出すと同じ瞬間に、右手に持った一本を、景はまず一人に投げつける。投擲用のナイフではないが、相手の気をそらすのが目的だから問題はない。
動きが大仰で無駄がある。腕を大きく振り回してナイフをはじいたうちに、景が懐に入った。右ひじで顎を打つ。顎と脳は直結している。脳が揺れて大きくよろめいたところで、がら空きになった喉を左手に持ったナイフで切り裂いた。絶声とともに、切り裂いた傷から血の代わりのどろどろの水銀が飛び出てくる。
どろどろの水銀。
「このクソガキ!」
茶髪は倒した。景は水銀を浴びないように体勢を立て直して、残りの二体の始末に取り掛かる。攻撃をよけながら、確実に仕留められる場所を狙う。銃声が響くと残りのグループに気づかれるから、まだ抜かない。グリップエンドに入れた人差し指でくるりと順手にナイフを持ち直しながら、無駄のない動きで金髪の後ろに回り込む。背中にナイフを突き立てる。正確に言えば心臓部分。ガっという音を吐いて、金髪は前のめりに倒れた。これで残りはあと一体。
残った黒髪が一番狂暴だった。仲間の二体が目の前で屠られて、怒りが沸点に達したらしい。鋭くて重いパンチを繰り出してくる。食らったら骨が折れるだろう。ただ、彼の動きは足が甘い。
景は足払いをして黒髪の体勢を崩した。黒髪が仰向けに倒れる。起き上がる前に、両膝で黒髪の両腕を固定する。左の掌で顔を覆うと、黒髪の白いのどが無防備に晒される。掌の中で悪魔が藻掻く。悪魔も人間と同じように呼吸を求めるのかと不思議な気分になる。彼の耳元に口を近づけた。星のかけらが落ちてくるような静かな声で、景は一言つぶやいた。
「死ね」
力はほとんど使わない。むき出しの喉をナイフで真っすぐに引っ掻いた。絶命したのを確認して、黒髪から体を離す。
まだ終わってない。あと二グループある。投げたナイフを拾って、刃に着いた水銀を死んだ悪魔の服で拭う。そして死体に振り向きもせずに、景は五階に向かう。
*
どこから、そしていつからそれが現れだしたのかわからない。古代からいたのかもしれないし、最近になって出現したのかもしれない。中世の錬金術師が生み出した狂人が起源という説もあれば、自然界の膿から生れ落ちたものだともいわれている。人間社会に紛れ、恐ろしく狂暴で、恐ろしく身体能力が高い、人のかたちを持ったもの。
同じように。いつからそれと戦っているのかわからない。最初は中世の錬金術師が生み出した狂人を倒すために組織されたともいわれ、一九世紀のロンドンで暴れて水銀を撒き散らした怪人を駆逐するために結成されたともいわれている。人間に紛れて暴れる悪魔と戦い、駆逐する役割を担った人間がいる。彼らには剣が与えられ、メイスが与えられ、銃が与えられた。秘密裏に戦う彼らも、悪魔と同じように人間社会に紛れている。
――浅月景。一四歳。中学生三年生、ときどきデビルハンター。
*
湿気がどんどん強くなる。雨が近い。早く済ませたい。五階の悪魔も、三階と同じようなものだった。問題は七階。エレベーターを駆け上がって、残りのグループのたまり場を目指す。場所はわかっている。一番奥の、イタリア料理店だったところだ。窓が大きくて、店の中から綺麗な夜景が楽しめるような洒脱な店。
ガラス張りのドアには『ラ ストラーダ』という店名が書かれている。昔の映画のタイトルにもなった店名。ジェルソミーナ、ジェルソミーナとザンパノが歌う。防弾も何も強化されていない、普通の薄いガラス。普通に蹴ればそのまま崩れそうなほどもろい。それを見たところで無線が入る。マリアからだ。
『中に全員います。景さんはそのまま入ってください。……気を付けてくださいね』
景はありがとうございます、と小声で呟いた。
腰に差し込んだ相棒を右手に掛ける。景は、ガラスの扉に映った自分の顔を一瞬だけ見つめる。ショートボブ。色白。不愛想で無表情。二重の大きい瞳は、濁ってはいない。だけど光だってともっていない。冷たい瞳だな、といつも思う。薬室に装填されたばかりの弾丸と、同じぐらい冷たい。マガジンに中身が入っているところでスライドを引く。これでいつでも撃てる。扉から少し離れる。助走をつけて、左足を振り下ろす。
ガラス扉を蹴破って、景は店内に滑り込んだ。そこでは七体の悪魔が、思い思いの場所で寛いでいる。
テーブルが四つに、カウンター席が五つの狭い店内。カウンター内に二体、ホールに五体。カウンター内の金髪のやつが、上級だ。上級のやつは、今まで三〇人ほど殺してきた。一昨日の撲殺事件も、こいつは手を出していないだろうな、と景は考える。手を出していたら被害者の女の子は悪魔になっていたはずだ。
七体はいきなり入ってきた景を見て敵だと認識する。景は相手に動かれるよりも速く引き金を引いた。空気を切るような発射音。高速の弾丸が、一体の額に当たる。頭蓋骨に貫通して、骨と一緒に水銀が飛び散る。立て続けに二発。額と心臓がスイカのように弾けた。反動が景の腕を襲う。だけどこの相棒は、今まで景が使ったどんな銃よりも反動が少なかった。FNファイブセブン。ベルギー製の自動式拳銃は、戦うと決めた景にサーシャが最初に渡してくれたものだ。
——この銃なら反動も少ないし、弾倉に二〇発入るわ。ほかにもいいものはあるけど、これは七〇〇グラムしかないの。それに、この銃の弾丸は防弾ベストだって軽く貫くわ。軽くて、たくさん入って、それでいて威力がある。とってもいい子でしょ。
景は後ろに引いた。上級の悪魔が貫き手で景の頭を狙ってきた。真っすぐに伸びた指をぎりぎりで躱す。青銀の瞳。水がこぼれるようなさらさらの髪。均整の取れた体。美しくて――三〇人以上惨殺してきた。瞳に力がこもる。景はスライドに持ちかえて、グリップ部分で上級の手首をぶん殴る。
痛みでひるんだところで、景はカウンターに飛び乗って全員が見える位置に移動する。あと四体。残りは一七発。無駄な弾は使いたくない。予備の弾倉を入れる時間が惜しい。だから、あと一七発以内で確実に仕留めたい。しっかりと両手で構えて、上級の悪魔の、頭、肩、太ももをぶっ飛ばす。
悪魔の体が崩れ落ちると同時に、空薬莢がかんかんかん、と軽く落ちる。火薬のにおいがきつくなる。
心臓が鳴っている。体中の血液が、熱を持って循環する。引き金を引いて、一気に熱を持つ弾丸のように。鉄の重みを感じて、火薬とニトログリセリンのにおいを嗅いで、そこでようやく、景は自由に手足を泳がせる。体が軽い。
——引き金を引く意味はわかる? わかるよサーシャ。水銀の悪魔を排除するんでしょ? だったら簡単だよ。サーシャは優しく首を横に振った。違うわ景。本当はね、あなたの命を奪うことに、私は責任を持ちます、という意味よ。殺したらその分、その人の命を背負うの。背負って私たちは生きて、食べていくの。まだわからなくていいわ。いずれ分かる時がくるから。
——わかるときなんて来ないよと叫びたくなる。叫びたくなる気持ちを抑えて、殺虫剤を振りまくみたいに引き金を引く。これは人間じゃない。殺しじゃないから。殺人じゃなくて、駆除だよ。蚊を叩くのと同じ。蚊をつぶしても、責任を取る人間なんていない。
この時間だけ、血が巡って私は生きている気がする。それがおかしくても構わない。「悪魔を駆除している」という感覚を持つ時だけ、私は人間として動いている。
抑制された発射音を鼓膜がとらえる。瞬間、窓ガラスがばらばらに割れて、目の前の悪魔の頭がサッカーボールみたいに吹き飛んだ。頭からは血の代わりに、どろどろの水銀が飛び出てくる。マリアの援護射撃だ。300メートル離れたビルの屋上からの狙撃。タイミングがぴったりだ。残りは二体。あとでちゃんとお礼を言わなければいけないと考えつつ、セミオートにして残りの悪魔を蜂の巣にする。
——血だまりの代わりに、水銀が床を覆っている。踏まないように移動しながら、ひいふうみい、と、倒れた悪魔の数を数える。七体、きちんと沈んでいる。つんとする金属のにおい。マリアからの無線が入る。
『お疲れ様です。すぐに撤収しましょう。ボスには連絡しました。後は、適当に処理してくれます』
「うん。マリアさんもお疲れ様です」
廃ビルから一歩外に出る。視界を遮るのは、天から訪れる水のむれだった。
「あー………」
曇天から、ぽつぽつと雨が降り出していた。
悪魔。雨。どろどろの水銀。雨。雨。雨。——急激に、体から熱が引いていく。さっきの戦闘の熱とは全く違うものがよみがえる。七月。雨。血に沈んだ両親と姉と――どろどろの悪魔の体。
「傘……ないや」
雨が降る前に終わってよかったと、心の底から思う。水素の集合体が、景の頬と肩を濡らした。過去の映像がちりちりと脳みその裏側に再生される。否応なく思い出されるもの。雨は嫌いだ。映像を振り払うように、走ってワゴンに向かう。鍵は渡してもらっていた。車内に入って膝を抱える。胸の奥がじくじくと痛んで泣きそうになる。——戦えるようになっていても、私はちっとも強くなってない。
ややあって合流したマリアが大丈夫ですかと聞いてくれる。ありがとうございます、怪我はしてないよ、ただ、少し疲れただけだよと景は答えた。マリアは背中に抱えた自分の得物を、てきぱきと積む。マリアは、景のことを「それなりに」知っている。雨の日が苦手なことも、サーシャに助けられた時のことも。
「着いたら起こしますので、眠って大丈夫ですよ」
「うん……」
マリアの言葉に素直に頷いて、景は瞼を閉じた。私は甘やかされている、と思う。助けてもらって、守ってもらって、殺し方を教えてもらって、周りの人にも優しくしてもらっている。車が発進すると、カーステレオからマリアの趣味のクラシックが流れる。雨の音とバッハの脳を刺激しないインベンションを聴きながら、景の意識が闇に落ちていく。家に着いたら映画が見たい。自分を綺麗にしてくれるような、自分も綺麗なんだって思えるような美しいものが見たい。明日はトレーニングしないといけない。少しは強くなれるように。
……こうして中学三年生の、浅月景の日々が続いていく。寝て、起きて、学校に行って、味のあまり感じられないご飯を食べて、たまに映画を見て、悪魔を駆除して、発砲して、火薬のにおいを嗅いで――
――次の春、浅月景は高校一年生になる。