44 * とある男、語る
モブさんの語りです。
先週から奥様の機嫌が悪い。
ずっと、ずっとだ。
顔をゆがませギロリと睨まれる。俺だけじゃない、屋敷の皆がそうだった。
お嬢様がフォンロンの貴族に突然嫁がれて、今思えばあの頃から奥様の機嫌は悪いことが多かった。
その後若奥様と坊ちゃまたちが静養に出て一度も戻っていない。若旦那様のご判断らしい。
お嬢様が嫁ぎ先で賊に襲われて以降行方不明になったことも関係しているのでは、と屋敷の皆で噂したのは随分前だ。その話が社交界を一時賑わせたためそういったことに巻き込まないようにさせるためと、この屋敷にいても奥様の金切声が何度も響き渡るのは坊ちゃまたち幼い子供には良い影響は与えないと判断したのかもしれないし。
顔の筋肉が痛まないのかと聞きたくなるほどずっと歪ませて。
御者をやってる俺はその時だけ機嫌を損ねないよう黙って馬を操り耐えれば問題ない。けれど屋敷の中で直接奥様に接する侍女や執事たちは四六時中怯えながら傍に控えなきゃならなくて、奥様が夜寝室に入った途端あからさまに安堵してこの時間になってようやく息ができたと言いたげに深呼吸をするやつもいるらしい。
「なんで、なんで、なんで、なんで!!」
「お、奥様! おやめください、お怪我をされたらどうしますか!!」
「うるさい、うるさい!!」
そして先週。ヒステリックに同じ言葉を繰り返すその声は外で庭師の手伝いをしていた俺の耳にも届いた。
「バカにして、私は、公爵夫人なのよ、バカにされるような人間じゃない、私は、公爵家の人間なの、公爵夫人なの、王妃だって私のご機嫌取りをするの、私はバカにされるような人間じゃない」
情緒不安定なのか、半泣きで震える声でそう言ったかと思えば。
「あ、ああ、排除すればいいの! あんなやつら、そうよ、私にひれ伏す気がないなら死ねばいいんじゃないかしら! 生きている意味はないのよ、そうよ、お似合いよ、死がお似合い!!」
まるで舞台女優のように身ぶり手ぶり大げさにやけに通る大声でそう叫んだり。
(狂ってる……)
傍に仕える奴らが憐れとかそんな気持ちはとうに過ぎて今は恐怖が勝つことが増えた。
それでも辞めないのは結局金だ。
ここを辞めて、今以上に金をくれるところなんてまず見つからない。
ご当主様も若旦那様も俺たちのことに全く興味もなければ関心もないが、ちゃんと真面目に働けば金はくれる。
だから怖くても辞める理由がない。
先週とある夫人の茶会に招待された奥様は、最近手に入れたというエメラルドの指輪をしていて朝からご機嫌だった。侍女だけでなく俺にまで話しかけるくらいにはその大きなエメラルドの指輪は奥様の心を安定させるものだった。
きっと今日のお茶会ではその指輪が話題になり更に奥様は上機嫌になるだろうから明日くらいまでは皆心穏やかに仕事が出来そうだ、って思ったのは俺だけじゃないだろうな。
でも茶会が終わったあとその招待された屋敷から出て来た奥様の顔は、見た瞬間堪らず目を逸らしてしまったくらいには、怖かった。
口元を引きつらせ、鼻を何度もひくひくさせ、なのに目は殆ど瞬きせずギラギラしていて。
「本当に大変だったのよ……」
「何があったんだよ」
「穏健派のトルファ侯爵夫人がいたの」
「え?! 今日の茶会って、強権派の侯爵夫人の……」
「うん……。でも、いたのよ。しかも穏健派の夫人が五人もいたわ」
「はあ?」
「侯爵夫人が招いたのか、それともトルファ侯爵夫人がねじ込んで来たのかは会話からは分からなかったわ。でもあれ、トルファ侯爵夫人からの宣戦布告よ……」
「おいおい、穏やかじゃないなぁ」
「穏やかなわけないでしょ!!」
奥様の茶会に付き添った侍女は執事の少しだけ戯けた言い方にカチンときたらしい。ダン! とテーブルを叩いた。俺たちはその気迫に息を呑む。
「知ってたのよ。奥様が最近エメラルドの指輪を手に入れたことを。トルファ侯爵夫人はね、ベニトアイトっていう石で奥様の指輪に使われているエメラルドよりも大きな石を三石も使ったネックレスだった。あれは希少石で入手自体が困難なのに……」
侍女は急に疲れ切ったような顔になり、額に手をあてがって長い長いため息を吐き出した。
「その話から流れが変わって……。嫌味なんてものじゃない、戦線復帰よ、あれ」
―――とある侯爵夫人の茶会:とある侍女の語り―――
「まあ、ベリアス公爵夫人はエメラルドでしたか」
優雅に上品に、それはそれは優しげな笑みをたたえ、トルファ侯爵夫人がそっとご自身の首元に触れる。
「私はね、先日主人に新しいものが欲しいとおねだりしましたら珍しい石がオークションに出されていたとこちらをプレゼントしてくれましたの」
トルファ侯爵夫人曰く、そのベニトアイトという希少石は中立派ツィーダム侯爵家の定期的に行われている宝石限定のオークションに出されていたものだと言う。しかもそのデザインはそのツィーダム侯爵夫人が最近身につけて話題となったシンプルかつ大胆なドレスにも良く似合うようにわざわざデザインされたもので、あの 《ハンドメイド・ジュリ》の商長、ジュリ・シマダの最新デザインだと。
(こんなタイミングで!!)
笑顔のまま、心の叫びを決して顔には出さずに奥歯を噛みしめる。
(あそこはこの前もクノーマス家とアストハルア家から関わらないでくれと直接断られているのに!)
奥様の前で 《ハンドメイド・ジュリ》の話はタブーになっている。
以前から旦那様や若様たちを筆頭に強権派が嫌がらせや圧力をかけていたことは知っていたけれど、中立派からだけではなくついに穏健派筆頭家アストハルア公爵家からも当主直筆の抗議の手紙が届き、金輪際 《ハンドメイド・ジュリ》への取次相談は受けないし余計な事をするならこちらもそれなりの対応をすると書かれていた。その手紙は旦那様だけでなく、わざわざ奥様個人へも送りつけてきて、読んだ奥様は金切声を上げながら握りつぶしていた。それを拾って読んだ時、あまりに簡素で素っ気ない文面から、馬鹿にしているなんて生優しい態度ではないことは私にも直ぐにわかった。
そんな環境なので流行の中心となりつつククマット伯爵領で生み出される物は殆どベリアス家にはない。せいぜい既に定番となったものがある程度。
でも以前、上機嫌に奥様は言っていた。
「一泡吹かせることが出来そうなのよ、ふふふっ、楽しみね、どんな反応するかしら?」
と。碌なことではないと察することはできたけれど、私たちはそれでよかった。それで奥様が機嫌がよくなるなら何でもよかった。
なのに。
「 《ハンドメイド・ジュリ》の商長という方は寛大な方のようでね?」
それは奥様に対する悪意でしかない笑みだった。
「ツィーダム侯爵夫人のネックレスのデザインを気に入ったことをアストハルア公爵夫人に相談しましたらお話しを通してくださっていたの。そうしたら『エリス様が許可なさるならデザインを取り入れてもらって構いません』とその場でお返事を返してくださるような方で。私の主人が面倒な方なのでアストハルア公爵がお会いすることに難色を示していたのですけれど、私は別だから、と快諾してくださったようなの。ツィーダム侯爵夫人も新しいデザインを世に送り出す手助けになるから大いに真似てくれ、なんて笑っていたそうだわ。あの方の男勝りな言動は少々眉をひそめてきましたけれど、今回のことで見る目が変わったと申せば良いかしら? あの言動が少し素敵に見えてしまいましたわ。それに……ちゃんとアストハルア公爵夫人を介して確認をとりましたでしょ? 《ハンドメイド・ジュリ》の商長は直接お会いする機会があれば相談に乗りますとも言って下さったようで。ああ……ほら、カッセル国の元王女……騒ぎを起こしましたわね、ドレスの模倣があったとか。どなたの差し金か分かりませんけれどそれが引き金になって伯爵と離婚したなんてお話しもありますから。……真似されたりするのを嫌う方かと心配してましたのよ、でもそんなことはないようでね、新しいものを沢山の人に見てもらいたいと本気で思ってるようでとても寛大なだけでなく柔軟な方でもあるようだわ。まだお若いのに本当に素晴らしい方のようよ。アストハルア公爵夫人がお会いする機会を設けられるか話をしてくださることになってましてね、私今からもう楽しみで楽しみで」
これの、どこが単なる自慢か。
明らかに奥様への悪意だと感じた。
しかも奥様が 《ハンドメイド・ジュリ》に接触することを徹底的に邪魔され拒否されていることも分かったうえでこれを言ってきた。
宣戦布告だ。
社交界で重要なのは、いかにして優位に立つ手札を持つか。
爵位の高い夫人なら尚更。
物一つで流行の、社交界の中心になり得る。宝飾品はその代表であり象徴。
『私もあなたより上に立てますよ』
そう言っているようだった。
侍女の話を思い出しながら、俺は憂鬱な気分で御者台に座っている。
旦那様も若旦那様も殆ど王宮にいて屋敷には帰ってこない。奥様は殆ど放置されている。以前なら若奥様に文句や嫌味を言って発散していた鬱憤も今は全部屋敷にいる俺たちに向けられて、昨日は若い侍女が朝から香水瓶を投げつけられたとかで、香水まみれになるし瓶が割れて掃除が大変だったのよ、勘弁してほしいと侍女たちが奥様の前じゃ絶対に言えない文句をこれでもかと口にしていた。
今日はその憂さ晴らしなのか、いきなり買い物に出ると言い出して。
最近は理由は分からないが出入りする商家がめっきり減った。理由は俺たちにはわからない。それもまた奥様の機嫌が悪くなった原因だろうと思ったりもしている。
(ああ、くそ……行き先変えたりしなきゃいいなぁ)
気分屋でコロコロ話や意見が変わる奥様に振り回されるのは本当に辛い。馬車の方向転換だってそう簡単じゃないのにちょっと慎重に動かすだけでも『鈍間』とか『まともな仕事をしなさい』とかすぐに言ってくる。
なんて事を考えていたら。
「……ーい、おーい! 止まってくれー!」
前方に領民だろうか。農夫のような格好の男が二人道の真ん中でこちらに手を降っている。俺は馬車の速度を落とすため手綱を操る。
するとすぐ、馬車の内側からドンドンと御者台に伝わるように内壁を叩く音が。慌てて振り向いて小さな連絡取りのための小窓を開けた。
「どうしたのですか」
奥様と同乗している年配の侍女がヒリついた雰囲気を漂わせ小声でそう問いかけてきた。その奥では奥様が既に馬車が止まったことに文句を言っているのが聞こえたので、侍女がイライラするのはしょうがない。
「すみません、道の真ん中に人がいるんです」
「人? こんなところで?」
「はい。すぐ確認してみます、もしかすると昨日雨だったので道の状態が悪くて前で何か起きてるのかもしれませんし」
「ああ、そうでしたね。ではお願いします」
雨で道が悪くなり馬車が横転するなんてことも珍しくない。最近は整備も滞りがちで一度車輪で抉られたらそのまま放置されて事故が多発する事もある。
「よかったよかった、止まってくれて!」
「おい、この先何かあるのか? あの馬車には」
「ええ、存じてますよ、勿論。公爵の奥様がお乗りでしょ? 見れば分かります」
「え、ああ……」
一瞬、違和感を感じたが、人の良さげな二人の農夫の困ったような笑みにそれもすぐに頭の隅に追いやった。
「実はこの先で農作業で使ってた馬車が横転してまいまして、その撤去に時間がかかってるんですよ」
やっぱり、と俺は頭を抱える。
「じゃあ、引き返すしかねぇか……」
奥様に説明しなきゃならないな、と一気に憂鬱になった気持ちのまま振り向こうとした時。
「その必要はないですよ」
その言葉の意味が分からず身体がピタリと止まったが、間をおかず聞こえた音に今度は本当に振り向いた。
「は?」
同じ色味の、黒っぽい服を来た人間が複数。
馬車めがけて何かを振りかざしバキン、ゴキィ! と、聞き慣れない大音量を立てた。中から聞こえる女性二人の悲鳴。
身体が反射的に後ずさった。
トン、と何かにぶつかる。
「不運でしたね、あなた」
そうだ。
変だと思ったのに。
この近辺の領民なら『公爵夫人』だ。屋敷の者以外が『奥様』なんて呼んだら無礼だと罵られ罰を与えられるから。それに『存じてますよ』。あんな丁寧な言い回し、領民には珍しい。農夫にしては綺麗な手だ。
俺の肩を掴むその手は、ゴツくて確かに男の手で、仕事をしている手をしてはいるが、そう、日焼けしていない綺麗な肌色だ。
「さようなら、名も知らぬ方。不運でしたね」
「本当に。今度はもっとマシな領主の治める地に生まれ変われたら良いですね」
「大丈夫、痛くはしません。あなたに恨みがあるわけではありませんから」
「そうそう、ただ不運なだけですよ」
自分の首が、鈍く聞き慣れない音を発して。
それを聞き、俺の意識は瞬く間に薄れ。
視界が真っ黒になった。
―――ベイフェルア王宮:とある文官の調書(非公認)から抜粋―――
数時間後に領民がベリアス公爵家に数人駆け込む。門番が同時に喚くように訴える領民の言葉を何とか聞き分け、事故と事件の両方の可能性を考慮しすぐさま執事長に報告、直後王宮に滞在中のベリアス公爵にその旨が伝えられた。
ベリアス公爵夫人、侍女、そして御者がベリアス領の中央地区に向かう途中何者かに襲われたことは明確である。
馬車ごと斧や鈍器での襲撃を受ける。凶器による直接の傷の他、馬車に使われている材木や金属が突き刺ささったり、余程の力が加わったのか人間の身体ではあり得ない方向にネジ曲がり、大量出血の状態で公爵夫人と侍女が発見された。
御者は逃げ出したのかそれとも何か事情があったのか、争った形跡がないまま少し離れた場所で倒れた状態で発見されている。目立った外傷はなし、しかし首の骨を折られそれが死亡原因と断定された。
三人共、駆けつけたベリアス公爵家自警団によって死亡が確認された。
追記。
その現場で留め具が壊れた、泥まみれの紋章が見つかった。穏健派トルファ侯爵家のものだったがこれについては作為的な状況から慎重な調査が必要だと思われる。
ジュリたちの日常の裏での出来事。
この話が入ると『?』となるだろうと思いながらも外せないんだよなぁというジレンマとの戦いでした。
今後に大なり小なり、どのくらいの影響を及ぼすのか未知数なお話でした。
この手の話を簡潔に書きたい、でも難しい、とのたうち回る羽目になりました。




