37 * 夢で逢うのは
「ねえ、リンファ!」
「話し合いは終わったの?」
「それどころじゃない!!」
「は?」
「そう歯!」
「はぁ?」
「グレイの歯がない!!」
「……何言ってんの?」
私はグレイの頭を掴んで屈ませてから両手で彼の口を開いてみせた。
「歯が二本行方不明!!」
「?! なんでよ!!」
グレイの口を覗き込んだリンファも流石に驚いて大声で叫んだ。
グレイがウガウガと口を動かし何かを言っているので手を離すと上体を起こして顔を両手で押さえる。
「ハルトに説教をされた時にな」
「「はぁっ?!」」
「?!」
私とリンファがハモるとグレイがビクリと体を強張らせた。
「あいつっ……あれだけグレイセルに構うなって念を押したのにっ」
「説教で何で歯がなくなるのよ?! 歯ってポーションで再生するの?! ポーションで生えてくる?!」
「ハルト……ほんっと、あいつのお節介は嫌い、本当に嫌、嫌!」
「それより歯!!」
リンファクラスになると歯を新しく生やす事が出来るそうで、グレイは抜け落ちていた所に新しく生えた歯を口を大きく開けて鏡を覗き込み酷く感心している。
「よく気づいたわね」
「久方ぶりにグレイに食われるようにキスされて気づいた」
「なるほど」
リンファは私達に何かを問い詰めるでもなく、今までと何も変わらずの距離感で接してくる。話し合いはククマットに戻ってからすることにした、とだけ言えば『そう』と穏やかな表情で頷いて、微かに笑みをこぼす。私の傍にずっといてくれただけでなく、私を慰め、私を諌め、導いてくれたリンファ。
全てが有り難い。
「ありがとうね、色々」
「なによ、改まって」
「リンファがいてくれて良かった」
「……友達冥利に尽きるわね」
少しだけ照れくさそうに笑ったリンファ。そしてグレイはそんな彼女に向かって頭を下げた。
「私からも礼と謝罪をさせてくれ。……ジュリの傍にいてくれてありがとう、そして、私がいない間ジュリを守ってくれてありがとう。……今後これ以上ない程の迷惑を掛けた自覚もある、申し訳なかった、本当に―――」
「やめてよ、あなたは」
グレイの言葉を遮りリンファが肩を竦める。
「私はやりたくてやっただけだし、ジュリが手を貸してって言ってくれたから手を貸したの。私自身はあなたに迷惑をかけられてないわよ、だからお礼も謝罪もいらない。それよりも、その気持ちは……全部ジュリに向けてあげて」
「……そうさせてもらう」
リンファならグレイをこれでもかと罵倒するんじゃないかと覚悟していた。そしてそれを止める私のことも強く窘めるだろうと。
でも違った。
リンファは、私とグレイのことだから、最終的な決断は私達がすることだと、口出しする権利はないと、そう思ってこれ以上追求しないでくれるみたい。彼女のこういう所に、救われている。
バールスレイドに来て良かった。
リンファに出会えて良かった、そう心から思えた。
「それじゃあもう帰るの?」
「んー」
「なによ?」
「ビーちゃんとお菊様の仕入れについての契約をしてからじゃないと。帰ったら色んな手続きで暫く忙しいだろうし、それでなくても長く店を空けちゃってそれなりに仕事は溜まってるから次来るのは先になりそう」
「ああ、確かにそうね」
「……ビーちゃんと、お菊様?」
グレイが首を傾げたのでバールスレイド特有の魔物と魔性植物が新しい素材として今後普及するかもしれないことを説明する。
するとグレイが、柔らかく微笑んだ。
「……そうか」
「なに?」
「どこにいても、ジュリはジュリらしく、生きられるんだな」
「え?」
「本当に、私と侯爵家は……ジュリにはもう必要ないんだろう」
「ちょっと待って、何言ってんの」
「それでも、私はジュリの隣りにいたい」
「……」
「必要とされなくても、それでも、ジュリのそばがいい。だからジュリが離婚してもそばにいたいと言ってくれたことが、本当に嬉しくて……嬉しくて、感謝しかない」
「グレイ……」
泣けてくる。
そんな事を言われたら、涙腺が緩んでしまう。
「はい、イチャイチャするのはククマットに帰ってからよー」
雰囲気クラッシャー、リンファ。
「そこは空気を読んでくれると……」
「なんで人様のイチャイチャを見なきゃならないのよ、鬱陶しいったらありゃしない」
涙が引っ込んだ。
グレイが半ば騙すようにしてサリエ王女、いや今は令嬢に戻ったその人にサインさせた結婚証明書は一枚が破り捨てられたもののグレイの分は残っていた、らしい。でもそれが今朝、厳重な封印が施せる箱に亀裂が入っていて不審に思い開けてみるとその中で風化したようにボロボロになった状態になっていた、と。
セラスーン様預かりになった状態だったそう。役割を終えたら然るべき時に処分すると仰ったそうで、今朝ボロボロになっているのを見て結婚証明書がもう必要なくなったからだろうとグレイが落ち着いた口調で教えてくれた。
これでサリエ令嬢とグレイが書面上でも一時でも婚姻していたと証明するものがなくなり、なにより証明できる人もおらず、事実上なかったことになったわけだ。結婚証明書へのサインが書き込まれたのは侯爵家の会場でしかも立ち会った人たちは限られる上に、なんとセラスーン様とお会いして窘められたから決して他所に漏れることはないんだって。
セラスーン様下界に降りてきてたんだね!
まあ、それでもあれだけの騒ぎになったから、グレイが令嬢と婚約直前で破棄になった、なんて噂話は当分ベイフェルアの社交界の暇つぶしネタにされそうだけど、それは自分の犯した罪でもあるので暫くはネタにされても受け止める、とグレイは言っていた。
そんな話をしながら、いつの間にかビーちゃんの目玉の使い途や異世界版お菊様によるディフューザーについての説明に移行して、現物を見せながら更に私は絵を描く。するとグレイがジッと私の手元を見出したので絵を描く手を止める。
「なに?」
「……元々絵が上手いことは知っていたが……いつの間に更に上達した?」
「あ、気づくんだ? なんか知らないけどバールスレイドに来て間もなくいきなり【変革する力】の格上げ的なことが起こっちゃって」
「なに?」
「どうやら今回は私個人への恩恵らしいのよね、この絵もそうだけど、木をくり抜く時に全然力がいらないの、相変わらず物を作る時限定だけど補正能力みたいなのを授かったわけ」
「それは、凄いな」
「うん、でも【スキル】【称号】魔力を貰えるわけじゃないから補正自体制限はあるのよね」
そう実は。
絵は単純に上手に描けるようになったけど、物を作る時に強い力を出せるようになった補正能力には制限があることがわかってきた。
「やってるうちにある程度時間が経過すると手が急に重くなってくるんだよね。補正には時間制限があるのかな、って。魔力がないから筋や骨に負荷を直に掛けてる状態で補正してるのかも。魔力で無意識に保護してる皆とは違って私は完全に生身で筋や骨を頼ってしまって痛めてしまうからね、遣り過ぎないようにするための措置なのかも」
「なるほど……」
そんな話をしつつ、ふと私は離婚についての大事な事を思い出した。私とグレイの結婚時の取り決めが少々変わっている。なぜなら、離婚協議に入る時点でグレイは、個人資産が動産・不動産関係なく全てが私個人のものになる。これはグレイが組み込んだブッ飛んだ内容で、そこまでされると重い! と私はその話し合いの時に何度も止めたんだけれどグレイが頑として譲らなかったこと。今となってはそれのおかげで私達が『守られた』ことが理解できる。でもね、この取り決め、グレイが一瞬で無一文になる内容で。
「話は変わるけど、グレイって今無一文?」
「無一文は脱したな」
「屋敷にも入れないし、私の離婚宣言の時に身に着けていたものだけがグレイの所有だったよね?」
「侯爵家で寝泊まりしているし、転移で移動して金になる魔物を狩っているから」
「あー……なるほど」
「ギルドに出ていた冒険者パーティー上級ランク指定の討伐依頼だったオークキング率いる群れ、レッサードラゴンの亜種、バイコーンの群れ、【スキル】持ちリザードの群れの討伐とそのついでにダンジョン内での討伐時に見つけた鉱脈からサファイアと希少なミスリル鉱石の鉱脈を見つけてそこから採掘したものを持ち込んだ」
「普通に金持ち」
「家無しだが」
なんとも締まらない会話。とりあえずこの男どんな環境下でも生きていけることだけははっきりした。
その晩、グレイの隣で久しぶりに眠りに落ちた。
そして夢にセラスーン様がやってきた。
「辛かったわね」
「そうですね、でも、今となっては……良かったと思えます」
「そう、それならいいの」
優しい微笑み。私は微笑み返す。
「外界に降りてきていたって、聞きました。私もお会いしたかったです、生身の器のセラスーン様は見たことがないので」
「そう? じゃあそのうちね。きっとそう遠くない未来に会えるはずよ」
「楽しみに待ってます」
互いに暫し純粋に会話を楽しんだ。神様とこうして話せるなんてやっぱり異世界でファンタジーだな、なんて事も思いつつ、それでもその摩訶不思議な体験は心地よい。夢の中、ふわふわと温かな空気に包まれるようななんとも表現し難い包容感に心を委ね、私は気になっていることを質問した。
「あの」
「聞きたいことは分かっているわ」
「……セラスーン様は、グレイにどんなお仕置きをしたんですか? グレイは瀕死の状態にまでなった、とは言っていたんです。でも、『何かが失われた感覚があった』とも言っていて」
「……そう、気づくとは思っていたけれど。知ってる? この世界は輪廻転生が本当に起こる世界なの」
え、と声が出かかって、セラスーン様の目を見てその声が喉元でつっかえたように止まった。
「だからね、二つ、奪ったの」
「……」
「まず一つ」
「……っ」
「グレイセルは、あなたと二人でいられればそれでいいと言っていたわね、いつも、いつも、それでいい、子供が出来なくてもそれは不幸なことではない、と。でもあなたは違った。産みたい、そう、何度も願った」
「……」
「だから奪ったの、子孫を残せないように」
セラスーン様は、少し怖いと思ってしまう笑みを浮かべた。
「慰めになるかどうかは分からないけれど男と女として重なり合って愛し合うことは今迄通り出来る身体よ」
「……」
「だってあなただけ苦しむなんておかしいわ。今までもそして今回、これ以上ないくらいあなたは苦しんだ、一生分の苦しみと言ってもいい、だからグレイセルも同じだけ背負わなきゃ」
声が、出ない。
言いたいことがあるのに、出ない。
「そして、グレイセルが天寿を全うしたら、その魂は悠久の時の中少しずつ少しずつ、欠けて、薄れて、そして完全に消え去るまで私の手の中にあり続けるの。時折、輪廻転生の環に乗れる人間の魂があるわ。数はとても少ないけれどね。……あなたがもしその輪廻転生の環に乗ったとしたら? 新しい生命として誕生し成長し、大人になって恋をして、愛を知り、幸福な人生を歩むとしたら? 記憶はなくてもあなたの魂の欠片を持つ人が、愛する人の子を生み幸せな家庭を築いたら。……グレイセルは、幸せを願うことも、憎むことも出来ず私の手の中で藻掻くのよ、消滅するその瞬間まで、自分には出来なかった与えられなかった幸せを得るかもしれない、決して手の届かないあなたの魂の欠片に執着し渇望しながら、ね」
そして、今までの会話から理解できない程の笑みを溢した。
「安心してね、あなたの魂に手を出すことは決してないから。私は、あるがままのあなたが愛おしいの。輪廻の環に乗っても乗らなくても、あなたの魂がいつか自然に消滅する瞬間まで、この私がずっと見守り、慈しむわ、誰にも邪魔は、させないわ。それがあなたをこの世界に召喚した私の罪滅ぼしでもあるのだから」
セラスーン様の【彼方からの使い】である私への執着の一部が垣間見えたように思えた。
残酷な神の寵愛を知った夜。
「……―――リ、ジュリ?」
「うー、う……うん?」
「大丈夫かっ、魘されていた」
「……グレイ? え、うん?」
「ああ、すまない、余りにも苦しそうで起こしてしまった」
私の瞳を覗き込むグレイは、狼狽した表情で瞳が揺れている。
「きっと最近の事で……私のせいだな、寝る部屋を今からでも変えられるか確認してみよう」
「え? あ? 違う違うっ」
ベッドから降りようとしたグレイの寝間着を咄嗟に手で掴む。のそりと体を起こし、私は不安げに見つめてくるグレイの頬に触れる。
「グレイのせいじゃないよ……って、あれ? 何の、夢だったかな?」
「ジュリ?」
「えっと……セラスーン様が出てきたような……その後……その後に、あれ? なんだっけ、思い出せない、忘れちゃった」
セラスーン様が出てきた気がするけれど、覚えていない。きっと魘されたのはその後の事じゃないかな。
とりあえず、両手でグレイの頬を撫でくりまわしてから、今度は彼の袖を引っ張った。
「忘れたから大丈夫」
「本当に?」
「うん、それより寝ようよ、明日リンファと永久凍土の観光に行くんだから」
「……そうだな」
私が袖を掴んだまま横たわると、グレイも体を横たえフカフカの寝具をかけ直してくれた。
ぬくぬくとグレイの体温を感じながら再び眠りに落ちる。
今度は夢を見ない眠りだった。
何故か、その感覚だけは確かに残っていた。まるで夢を見なかったという記憶が貼り付いたかのような、不思議な朝を迎えていた。
マイケルは治療した本人であり、状況から知っているかもしれません。でも、魂のことまでは流石に分からないですね、きっと……。
ジュリはセラスーンから直接言われたものの夢の中、思い出すのかそれとも忘れたままなのか。
そしてグレイセルはいつか『奪われた何か』に超人的な第六感でそう遠からず気づくかもしれない。
けれどそれが原因で別れるなんて選択はしないでしょう。
今更離れられない依存と執着の二人です。他人には決して理解されない愛情で繫がる二人です。
きっと人知れずその辛さを共有して生きて行くでしょう、どうその事実と折りあいをつけるのか、皆様のご想像にお任せしたいと思います。




