36 * 決断
妖艶な笑みを浮かべリンファは筆頭侍女の肩をポンポンと軽く叩いて耳元で言った。
「答えられないの?」
ハクハクと口を無様に動かすだけで声が出ない侍女は、あろうことか涙を溜めた目を私に向けて来て、助けを求めるような泣きそうな表情をした。
「がっかりだわ、ジュリに喧嘩を売るくらいだからどんなに頭の回転が速いのか期待したのに」
そしてリンファは手で侍女の顎を掴んで強引に自分に向けさせた。
「なにその顔、おもしろ~い」
これ以上ないくらいバカにした明るい声でリンファはそう言って侍女の顎から手を離した。そして私の傍に戻る。
「喧嘩を売ってその顔、本当に面白いわ、これからどんな顔をするのかしら?」
ガクガク震え顔面蒼白な侍女に背を向け私の肩を抱いてリンファは歩きだす。
「ちゃんと弁明を考えておくのよ、私とハルトが、世の中の同じ悩みを抱える全員が納得出来るようにね。その時はその顔はしないほうがいいわよ、あなたとカッセル国の考えが間違ってました! って言ってることになるからね」
侍女はその場から動けないのか、私達が歩を進める度に気配が遠ざかるけれど、不愉快な程乱れた呼吸音だけは私達のヒールの音に混じるように暫く聞こえた。
振り向く事なく私達は侍女を置き去りにしてテラスから離れた。
化粧室に向かい、壁により掛かる。
「ジュリ、ジュリ、もう帰りなさいよ」
「大丈夫」
「何が大丈夫なのよ!」
リンファの言う通りよね。
何が大丈夫なんだろう、そう自分を嘲笑う声が心の中で聞こえる。
泣けばいい。
喚けばいい。
何を我慢しているんだ。
と。
【彼方からの使い】は子供に恵まれにくい。
その事実はずっと受け止めてきたつもり。実際に私は妊娠していない。その兆候すら感じたこともない。これからも妊娠することはない、そんな勘が働いたことはいったい何度あったか。
それでもいいと言って私を選んでくれたグレイセル・クノーマス。
二人で生きよう。
子供が全てではない。
そんな彼の思いが私の『救い』だった。
でも、いざ真正面から、他人から現実をつきつけられると。
激しく揺らぐ。
揺らいで気づく。
酷く脆弱な『救い』だったのだと。
産みたいよ、産みたかったよ、私だって。
グレイの子供が産めたらどんなに幸せか。
分かってるよ、嫌というほどわかってる。
クノーマス伯爵家には後継者が必要だって。
ククマット領を受け継ぐ次代の領主が必要なことくらい私だってわかってる。そのことについてグレイとちゃんと話し合わなきゃならないことは分かってた。
養子の話だって何度かしたよ、本格的にその話をしようと思ったことだってある。
なのになんで。
他人に。
悪意で。
そのことを突きつけられなければならないの。
そんなに悪い?
子供が産めないってそんなに罪?
私なんか悪いことしたかな。
こんな惨めな思いするような罪を犯したかな。
ああだめだ、心がドス黒い何かに汚染されていく。
伯爵夫人ってなんだ。
貴族の妻ってなんだ。
その役割はなんだ。
その意味はなんだ。
嫌な言動を微笑み一つでかわせ? 駆け引きは経験で上達する? 圧力も脅迫も場数を踏めば対応出来る? その度に心が病んでもいい? 病んでも出来れば褒められる? そして子供を産めば全てが許される? 勝者だと勝ち誇った顔して生きられる?
そんなこと。
そんなことのために結婚したわけじゃない。
一緒にいたくて、共に生涯を支え合いたいから結婚したのに。
いつから。
どこから。
気づけば、心よりも優先されることが私を雁字搦めにしていたと、今更気づく。
本当に今更だ、自分の馬鹿さに呆れてしまう。
ああ、つらい。
つらい。
つらい。
もう、嫌だ!!
「ジュリ」
切羽詰まったリンファの声。
「もういい、帰りましょう」
「それはだめ」
「なんでよ!!」
「グレイが、いるから。待ってるから」
「そのグレイセルは何をしてるの?! こんな時になにしてるっていうのよ!!」
もう、やめたい。
逃げたい。
こんなことから。
開放されたい。
一体私はなんのために、こんなに苦しんでいるんだろう?
いつからこんなに無理矢理笑って大丈夫と言うようになっていただろう?
ああ。
こんな時だからこそ。
思ってしまう。
帰りたい、と。
たとえそこにはもう私の痕跡がないとしても。
この理不尽から。
不愉快さから。
惨めさから。
解き放たれるならば。
帰りたい。
『未練』のある過去に。
呼吸を整え、鏡に向かって笑顔を作る。
大丈夫、傾いだ心は立て直す。とても脆くて頼りないけれどそれでも何とか立て直すしかない。
ここには沢山の人がいる。この日のために集まった人達の殆どが私を肯定してくれる人たちで、私の変化に気づいてしまう人もいるから、だから笑う。笑顔を貼り付けて、 《ハンドメイド・ジュリ》の商長として、【彼方からの使い】として、堂々と肩で風を切って歩いてこの場を乗り切る。もう伯爵夫人としての役割なんて忘れ、今はとにかくその場しのぎでもいいから笑ってやり過ごす。
そうすればあの王女も侍女も明日にはこのクノーマス領を出ていく、国に帰って行く。
きっと日常は、すぐそこにあって、すぐに戻る。そう、信じる。
「……セティアさんとハルトは?」
リンファにしか聞こえない声で確認すると、彼女は目を細めた。
「会場には戻っていないわね……ローツはどこ? グレイセルと一緒にいるのかしら」
「失敗した。……セティアさんとハルトに口止めするの忘れてた。ローツさんに伝わってるかも」
「当たり前でしょう、なんで口止めなんて考えるの」
「騒ぎにしたくない。子供の件はグレイにとっても神経使う話題だから……この夜会は侯爵家が開いたの、グレイの機嫌を損ねて台無しにするようなことにはしたくない、今のグレイは何をしでかすか分かったものじゃないし」
「ジュリ、あなたね、ちょっとそれは優しすぎるんじゃ―――」
その後に続くリンファの言葉が何なのか聞くことが出来なかったのは、突然会場がざわついたから。
「ジュリ、こちらへ来い」
「え?」
そのざわつきに視線を向けようとしたとき、グイッと強く腕を引かれよろめいて、はっとした瞬間私は今日二度目、誰かに頭を抱えられて。わけが分からずその誰かの胸を押し離した。
「えっ? なに? へっ? アストハルア公爵様?」
顔を上げて視界に飛び込んだその人の顔に驚いて、そしてその険しさに一瞬思考が止まる。
「いいから、こい」
「ちょっと、待ってください、なんのマネですか?!」
「予定が狂ったな……」
なんの、話?
予定ってなに?
そう、聞こうと口を開いたと同時だった。
「は、はははっ」
リンファの酷く乾いた、笑い声。
「なんてこと。馬鹿にするにも程があるわよっ」
「リンファ?」
「ねぇ、誰が、どこまで、関わっているの? 何を考えて、こんな夜会を?」
ニュッと伸びてきた彼女のしなやかな手は、私の目の前を掠め、公爵様の首に迷うことなく向かった。
「ぐっ!!」
「今の発言、あなたも知ってたわね? 答えて」
「リンファ?! 止めて! 何してるの!!」
「ジュリは黙ってて! 答えなさい公爵!」
両手でリンファの手を掴んで公爵様は必死に剥がそうと試みたけれどびくともせず、私は咄嗟にリンファの手を叩く。それでも離さない彼女の目を見て、私は凍りついた。
明確な殺意だった。
会場は一気にざわめき、悲鳴すら上がった。
「止めて、リンファ……お願いだから!」
「げほっ!ごほ、ごほっ」
情けない震える声でお願いすれば、リンファはようやく手を離し、公爵様は前かがみになりながら咳き込んだ。
「言いなさい、さあ」
苦しそうにしながらも体を起こして言葉を発しようとした公爵様の視線がリンファからそれた。それが気になった。
気になって、振り向いて、今度はその視界にリンファが割り込んできた。
見せまいとする彼女の必死な形相。その輪郭の端に見えた。
黒と赤のコントラストが目を引く、金の刺繍が艶やかに施されたドレスの裾が。
「え?」
思わずそう声が漏れて、私は視線を下げて自分のドレスの裾を見る。
漆黒に、赤と金の刺繍が施されたドレス。
形も色使いのバランスも違うけれど、類似性を強く感じるドレスが、向こうで揺れている。
そのドレスを着ているのは。
サリエ王女。
なぜ。
そのドレスを王女は輝くような笑顔で身に纏い、堂々と現れた。
ドレスと見比べると、印象に大きな差があった。私のドレスはインパクトはあるけれど派手にならないよう大振りな刺繍が裾にメインで施されている。反対に王女のものは金糸を贅沢に使った刺繍が全体に施され、さらに私のものと違ってスカートが五段にもなっていて、そのボリュームが豪奢さに拍車をかけていた。
アクセサリーも違った。
私のはルビーを贅沢に使ったものだけど、派手にならないようにオニキスを散りばめ細工に拘ったもの。けれど王女のは、ダイヤモンドとルビーをこれでもかと使った綺羅びやかなもの。
どちらがより豪華か。
どちらが『上』か。
一目瞭然な差があった。
それはデザイン性を追求するとか、着ている人に如何に似合っているかとか、そういうセンスを無視した差。
言葉の次は、物による『悪意』。
刹那このあとに起こることを予測できてしまった。
「まあ……ジュリさんのドレス、よく似ているわね?」
「王女のドレス……あちらは、凄いな」
「そういえば噂をききましたけど……あれを、見るに」
「え、あなたも? まさか、ねぇ、でも、結婚となると、色々あるものだし……」
会場のどこからともなく湧いてくる。
分かってる。
何を意味しているのか、そんなの聞かなくても分かるわよ。
僅かに遅れて現れたグレイが着ているものを見ればそんなこと分かるよ。
あの王女がここに来てからあることないことを吹聴して、人まで雇って噂を流して私とグレイが離婚して王女がグレイの後妻になるって沢山の人に聞かせていたから、なんとしても私を退けて繁栄続くククマットを手に入れて散々馬鹿にしながらも 《ハンドメイド・ジュリ》も手中に収めようとしていたことも知ってる。その噂や火消し、王女の接待でグレイが奔走していたの、知ってる。不満を抱えつつも、グレイが頑張ってくれていることだけは、知ってるし感謝してる。
でもね。
グレイ。
憮然とした顔で自分と並んで腕を組んでくれとせがむ王女を冷たくあしらっていても、だめだよ、グレイ。
その装いは、私と合わせたものなのに。
いまどんな態度でいようとも、その隣にいるのは私じゃない。
私は一人、ここに立って見てるだけだ。
何を企んでいるのかわからないけど、何がどうなってこんな状況になっているのか分からないけど。
だめだよグレイ。
今隣にいるのは王女。
私のドレスよりも遥かに豪華で艶やかなそれを着た人。
どんなに微妙な空気が流れていても、拒絶する態度を見せても、勘違いする人は、いる。
「まさか、本当に伯爵は王女をお迎えになるのか?」
ほらね。
そのひと言の怖さを、よく知ってるはずなのに。
それでも、そこにいるのはなぜ?
そして。
言ったよね。
私の知らないところで勝手に私のことをどうにかしようとしないで、って。
蚊帳の外にするなって。
今の私は、些細なことで心が荒むのに。
そして。
プツリ、自分の中の『糸』が切れた。名前の分からない、ずっと大事にしてきた糸が、切れたそんな感覚だった。
限界だった。
「もういいわぁ」
あっさりと口から溢れた言葉。リンファと公爵様、心配して集まってくれた人たちが、私のその言葉を拾い、目を私に向けてきた。
「去って、見世物じゃないわ」
リンファの厳しい声が、集まった人たちに向けられた。
「誰も近づかないで、不愉快極まりないわ。今ここにいる人は誰も信用できない、さっさと離れて」
怒気を孕んだその言葉に公爵様でさえ後ずさる。
「礼皇、話を」
「聞かないわよ、謝罪以外受け付けないわ。公爵、弁解や説明は今必要ないわよね? 必要なのはジュリに何かを隠してここまで事を進めていたこと、それで彼女を傷つけたこと、それに対する心からの謝罪だわ」
「はははっ」
自分でびっくりしてしまうほど、軽い笑い声が出て、それを間近で見ていたリンファたちが固まってしまった。
「あははは! バカバカしい!!」
想像以上に大きな声が出て、その声は王女やグレイにも届いたようだった。あっちとこっちで二分していた人々の視線が全て私に集まる。
「ジュリ」
グレイが私を呼んだ。
その声はいつになく切羽詰まった声に聞こえたけれど、心は揺れなかった。
自然と、手がネックレスに伸びた。
鷲掴みにして、下に向かい力任せに引きちぎって、それを放り投げた。
王女を突き飛ばさんばかりに引き離してから足早に近づいて来たグレイの足元にそれが落ちて、グレイは立ち止まる。
また自然と手が、今度はピアスに伸びた。
宝石の揺れる豪華なピアスは掴みやすい。まずは右を、そして迷うことなく左を、引っ張ってまたそれを放り投げる。
「ばか、なにしてるの!!」
あ、失敗。耳が痛い。リンファが怒ってるのか心配してるのか分からない顔で私の肩を掴んで、その彼女の手にポタポタと赤いもの、血が落ちる。うわ、無理矢理やったから耳切った。夜会で流血するとか前代未聞じゃない?
「あはは、ごめんね?」
あれ、なんで私こんなに笑ってる? もしかして病んでる? でも自分で病んでるって言う人は病んでないってよく言うよね、それはそれでヤダなぁ。
「ジュリっ」
「グレイ」
私に近づこうとしたグレイを、名前を呼び返して手を突き出し制止する。
「誰かにこれ以上目茶苦茶にされる前に自分で終わらせる」
「え?」
「離婚して」
静寂がその場を包む。
「もう無理。離婚しよう、一度ちゃんと終わらせて私達の関係を今後どうするのか、話し合おう」
なんでこんなにあっさり言えたのか。
何が私にそう言わせたのか。
分からないけれど。
不思議と『やってしまった』なんて後悔は、この瞬間微塵も生まれなかった。
むしろ。
言えたのだと、僅かに安堵する自分がいた。
先日に引き続き、鬱展開……。
ですが。
流れが変わってきます、ようやく。




