36 * 混沌
スレインから走りながら聞かされた大まかな内容に私は奥歯を軋むほど噛み締めた。
(なんで、なんでよ!)
スレインと並び走る私の後ろをキリアや他の従業員も追ってくる。
息切れで苦しくて立ち止まりそうになる頃ちょうど到着したマリ石鹸店。
店前は騒然としていた。誰の声か分からない怒号のような助けや治癒師を探してこいという叫びと、ひっきりなしに人が手に布や水が入った桶を持ってやって来る。
「カイくん!!」
人がひしめくその騒然とした店前に何とか割り込んで、飛び込んだ先でまず目に入ったのがカイくんだった。
「ジュリさん! ポーションありませんか!!」
顔を歪め叫ぶカイくんが抱える人を目にして私は一瞬足が竦んだ。それでも何とか出そうになった悲鳴を飲み込んで再び奥歯を噛みしめる。
「今ライアスに頼んで屋敷にあるもの全部持ってきてもらうようにしてる。屋敷の使用人さんたちも連れて来てくれるはずだから。手当も出来る人達だから安心して」
彼の前に膝を付き努めて冷静に声を振り絞る。悔しそうな顔をしながらもカイくんはしっかりと頷いた。
「止血は僕がしました、こういった傷は騎士団にいたので扱い慣れてます、でもっ」
そこまで言って彼は唇を噛む。
カイくんが抱きしめる人はかろうじて息をしているもののほとんど動かない。
夥しい血が床を染めている。カイくんも血だらけで、手当をしたためか彼の両袖はその血を吸い上げて完全に変色していた。
「カイくんは大丈夫?」
「僕は、その場にいなかったので。……あと一分でも早ければっ」
「お願いだから自分を責めないでね、カイくんのせいじゃない」
「でもっ」
「カイくんのせいじゃないから。それに手当をしてくれたんでしょ、褒められることはあっても、責められることなんて絶対にないから。分かった?」
「……はいっ」
彼が頷くのをこの目でしっかりと確認したその時。
「ジュリさん!!」
「ロディム!」
「呼ばれました。カイさんルビンさんを横にしてもらえますか、治癒魔法をかけます」
誰が彼に声を掛けてくれたのか、研修棟にいるはずのロディムが足早に店内に歩を進めながら腕まくりをして私の隣に膝をつく。
「私が出来るのは止血と切り落とされた腕を軽く固定させる程度です」
「大丈夫、今うちからリンファから買い取った特別仕様の上級ポーションを持ってきてもらうことになってるから」
「そうですか、それならまず止血と意識を戻すことに集中します、これだと上から流しかけるだけではいくら上級でも完全再生しない可能性があるので。飲んで内側からも再生を促すしかありません。リンファ礼皇のものならば完全再生するとは思いますが、あくまで高確率というだけです」
ブワリ、ロディムの手の周りが陽炎のような空気の揺らぎに包まれる。
「カイさん、止血したらルビンさんの意識を戻すことに集中します、ルビンさんなら大丈夫だとは思いますが、中には意識が戻ると痛みで混乱して暴れる人もいますから固定お願いします」
「ああ、任せてくれ。そういうのは僕は慣れてるから」
「お願いします」
彼らのやり取りを深呼吸で気持ちと息遣いを整えながらしばし見つめ、私は立ち上がる。
店の奥にある石鹸工房でも沢山の人が出入りを繰り返し騒然としている。
なんで、こんなことになったんだろう。
石鹸店にはクノーマス侯爵家に招かれ宿泊した人しか手に入れられない石鹸がある。
その石鹸は好奇心から生まれたもので、ホイッパーで空気を含ませてから固めた事でとても軽くそして脆く、けれどきめ細かな泡が簡単に作れる。一つ一つ使い切りの、完成まで手間暇かかる上に保管にも気を使うそれは事前に侯爵家がいつまで納品か、数はどれくらい必要かをマリ石鹸店に伝えてからでないと作らない。
そのためクノーマス家からの招待でもかなり前からの招待であること、一泊以上の滞在でその石鹸を使う機会となる入浴をすること、最低でもこの二つの条件が揃わなければならない。空気を含んで軽くなったことで脆く崩れやすいだけでなく湿気にも弱くて水を少しでも含んでしまうとたちまち型崩れしてしまうので作り置き出来ない。
滞在する人の地位が高いとか低いとかなんて関係なく、ないときはない、そういう代物。
突然店を視察するとあの王女一行がこのマリ石鹸店に来たらしい。
何の前触れもなく使者がやってきて一方的に言いたいことを吐き捨てたった数分。サリエ王女はクノーマス侯爵家で出された石鹸が欲しいから用意しろ、と店主のトルマさんに言ったけれどトルマさんは全て侯爵家に納めているのでありません、申し訳ありませんと頭を下げたらしい。それに対して、『ならば作って寄越せ』、と。
「酷かったよ。……固まるまで二週間かかるものだってお父さんが言ったら、作れと言ったら作れ、命令だって……。王族の命令に逆らうのかって、怒鳴られたら、怖くて何もいい返せなくて当たり前じゃないっ、私達が言葉を失ってるのを見て腹が立ったのか何なのか分からないけどっ」
そこで言葉を切り、娘のビルナがゆっくり顔を上げて辺りを見渡した。
固まってカットするだけになった色とりどりの長い棒状の石鹸が床に落ちて折れ、歪み、汚れている。
これから型に流し込む液状の石鹸が入ったボールは蹴られたのか何なのか、側面に凹みが出来て床に落ちている。飛び散った液状の石鹸が、ぽたりぽたりとゆっくりとテーブルから落ち、床の広い範囲で乳白色の浅い溜りが出来ている。手当たり次第にひっくり返された道具、踏みつけられひしゃげ汚れた丁寧に紙で包まれたばかりの真新しい石鹸。
包帯を腕や頭に巻かれ、項垂れ体を寄せ合う石鹸職人のトルマさん夫婦。
相当の恐怖とショックを受けたのか、店番をしたり製作補助をする女の子二人が泣きじゃくる。
店前で行列が出来れば交通整理、旅行客や冒険者に道を聞かれれば陽気に対応し、不審者や荒くれ者達がいればその対応をする自警団の若者二人も怪我をしつつも怒りが収まらず殺気だっている。
「誰かグレイを呼んできて」
自警団幹部ルビンさんは肩から腕を切り落とされるという大怪我を負ったもののロディムの治癒魔法とライアスや屋敷の人達が持って来てくれたポーションで何とか繋ぎ合わせ、更に駆けつけてくれたマイケルにより重ねての治癒魔法によって骨も神経も筋肉も正常な位置で繋がった。それでも感覚を完全に取り戻すまでは最低でも二か月、さらに大量出血をしていることから暫くは自宅療養を余儀なくされることになった。
マリ石鹸店の人達は治癒魔法で傷もキレイに消える軽傷ではあったけれど、それよりも心の傷、ショックが大きいようで事情を確認する自警団のレイドさんたちに向けて話すその声はとても弱くて聞きとるのも難しい小ささだったし、時折鼻をすする音も混じった。
あの後一番苦労したのはカイくんを宥める事だった。
「あいつ等、全員許さない、絶対に許さない」
ブツブツと呟くその姿は異様で怒気を放ちながらどこを見ているのか分からないけど不気味な光を宿すその目は決して誰とも視線を合わせようとせず自分の世界に閉じこもって誰も寄せ付けなかった。それを『やっぱマイケル怖い!!』と思わずにはいられない方法、お得意の呪詛でわざとカイくんを呪いで苦しめ正気に戻らせ半泣きにさせ、『たすけてぇぇぇ!』と叫ばせたマイケルにその場にいた全員がドン引き、カイくんだけでなく皆がちょっと冷静になろう、マイケルを怒らせないようにしようとスンとなった。でもその強引な方法のお陰でカイくんは自分が今何をすべきかと考え始め行動に移すことに繋がったので結果オーライではあった。
だからこの時、一番冷静じゃなかったのは、私だと思う。
私が駆けつけてからグレイを呼んでとまわりの人に伝えてからすでに一時間以上。
まだ現れない。
(なにしてんの?)
眉間に刻まれるシワを消せなかった。こみ上げる不快な感情に名前はない。どう表せばいいのか分からない不快なもの。
(領主でしょ、何やってんのよこんなときに)
また奥歯を噛み締めた事にハッとして両手で頬を叩く。
「グレイセルはまだかい?」
マイケルが痺れを切らし自分の名前を出して再度グレイを呼びに侯爵家まで馬を走らせ戻って来た自警団の一人に問いかける。
「それが」
彼は困惑した顔をして言いくそうに少し声を抑えた。
「自分は侯爵家の屋敷に残り王女一行から事情を聞き、厳重注意をし、監視すると」
「は?」
マイケルにしては珍しい上擦った声だった。信じられない、そんな顔をして真っ直ぐ見つめるので居た堪れなくなった自警団員が俯く。
「まあ、いい。……御苦労様、僕の我が儘きいてくれてありがとう」
その場を離れる自警団員を暫く眺めてからポツリ。
「何か、考えがあっての判断かな」
「……多分ね」
私の返答が意外だったのかマイケルは僅かに目を瞠る。
「ジュリは何も聞いてないのかい?」
「聞いてないわよ。そもそも、王女が来てから対応はどうするのか、その話すらされてないから」
「言うべきだ」
毅然とした迷いのない声だった。
「あの王女の言動は明らかにジュリを巻き込む、迷惑をまき散らす。無関係じゃない、君にはその対応をどうしていくか知る、口出しする権利がある」
「マイケル……」
そして労るような柔らかな声色へと変化する。
「ここでイライラするだけで、不満を溜めるだけで、解決に向かうならいい。でも今回怪我人は出ているし一歩間違えばルビンは命を落としてた。その対応に奔走した、伯爵夫人でもある君はこのククマットの要で全てを把握する権利があるんだよ。侯爵家とカッセル国の兼ね合いとか、そんなのは二の次だ。ジュリ、君は【彼方からの使い】だ、僕たちと同じ、何も知らずこの世界に連れてこられた人間でありながら君がここまでククマットを大きくした、君有りきのこの土地だ。そんな君には、君に関わること全てを知る権利があるし、なにより、君は自由にしていい。戦っていい、力の限りやっていい、傷ついてもいいんだ、君にはその権利がある。そして僕たちがいる、大丈夫、抗っていい」
ストン、と心の中で何かが落ちて。
「そう、だね……」
この瞬間の私が渇望した言葉だった。
自分に言い聞かせるのではなく、誰かに言われることで理解した。
今の私が求める言葉が、何度も何度も何度も何度も、頭の中で反芻される。しつこく鬱陶しく感じるほど。
何を望んでいるのか。目指しているのか。何を守り何を知りたいのか。
ここにあるもの。
全部、私は。
偽善でも何でもなく、培ってきたものが形になり始めたここを、自分の手で守りたい。
この世界で生きるためにようやく手に入れた生きる証。
私は、守りたいんだ。
「なんか、今更、分かった気がする」
「何を?」
「なんでこんなに元の世界への未練が強いのかなって、なんで時々、帰りたいって気持ちがぶり返すのかなって。……ここにあるものが未練そのものなんだよね、【技術と知識】【変革する力】は生まれ育った世界の思い出と記憶と学んだ証だから。捨てられないよ、絶対に」
「ジュリ……」
「捨てられるわけがない」
知らず握り拳を作っていた。掌に食込む爪が痛くてようやく気づく。
ルビンさんはマリ石鹸店で暴れる王女のお付き達に決して武器を向けることなくただ防御するだけだったらしい。当たり前だ、相手は他国の王女、下手に剣なんて向けたら不敬罪だと即刻その場で斬首されていたかもしれないから。
ルビンさんが何もしてこないことで調子に乗ったのか、お付き達は工房を荒らすだけでなくマリ石鹸店の皆に暴力を振るい出した。それを庇うルビンさんに、王女が腹を立てたらしい。
「私の言うことが聞けないの!」
そう叫んで、護衛に命じた。
「こんな無礼な男、殺して。不敬罪だもの、殺されて当然よ」
と。
慈悲か、躊躇いか。護衛は命を奪うことはしなかった。それでもルビンさんは腕を切り落とされて大量出血で、駆けつけたカイくんがもう駄目かもと思う状態だった。
盗賊とか、犯罪組織と変わらないじゃない。
王族って、なに?
本当に何をしても許されるの?
私達はこんな理不尽なことを全て受け入れなければならないの?
そうしないと、この世界では生きられないの?
「……ムカつく」
口の中、誰にも聞こえないように呟いていた。
こんなに制御しがたい感情は久しぶりだと思う。
脳裏に浮かぶ不愉快な出来事と王女の顔。
そしてそこに、グレイの顔が掠めた。




