36 * 不穏
サリエ王女が来てから丸三日。
「……大丈夫?」
お店の二階、扉に鍵をかけることをローツさんから了承を得たグレイは朝私に会うなり小脇に抱えて二階に駆け上がり休憩室に飛び込み鍵をかけると椅子に座って私を膝に乗せぎゅうぎゅうに抱きついてきた。あまりのぎゅうぎゅうさ加減に『窒息する!』と頭を引っ叩いたけれど、ちょっと緩めただけでガッチリホールドされたまま。なんか手が変な方向に曲がってるのを直したいんだけどなぁ、と考えていたら首筋に顔を擦り付けてきた。
「大丈夫だ。これはジュリを補給しているだけだ」
「私はポーションか何かか」
「はははっ!」
笑ったグレイはいつものグレイ。でもストレスが溜まっているのは腕の力で分かる。多分これ以上緩める事ができず私に怪我をさせない限界に何とか抑え込んでいる状態。
「私に出来ることがあればよかったんだけど、ごめんね」
「ジュリは何もしないでくれ。関わらなくていい」
あ、また。
拒絶。
拒絶は大袈裟かな。でも、確かに感じる疎外感のようなものを私はどうしても見て見ぬふりができずにいる。
私が無関係であるはずがない。何らかの駆け引き、それも無茶苦茶なことを言われた可能性がある。だから私を遠ざける。私が傷つくことがないように。
「グレイ、私のことで何か言われたんじゃないの?」
「あの女が何を言おうがジュリを関わらせるつもりはない」
「そんなこと聞いてないよ」
躱された事にイラッとして発した言葉はいつもより低い声だった。グレイはサッと顔を上げて腕を緩めて私の顔を覗きこむ。
「ジュリ?」
「誤魔化すの?」
「何を?」
「……そうくるんだ。じゃあもういい」
「え?」
「もうすぐミーティングの時間だよ、下に行こう」
するりと腕から抜け出した瞬間。
「ジュリ! ダメだ、まだ行くな」
両腕を鷲掴みにされ、そのまま引き寄せられる。
「行くな、まだ、もう少し」
「……全然、大丈夫じゃないじゃない」
グレイの上で座り直し、私の胸に顔を埋めるその頭を両手でガシガシと撫で回す。
「嘘はやめて。ちゃんと話して。そうしたら、いつでもこうしてあげるから」
「うん」
恐ろしく素直に返事をしたグレイは、ようやく腕の力を抜いて、気を緩めた。
それでも腕から背中に回ったその手が私の服を掴む事に変わってから離すまで、それなりの時間は掛ったけれど。
チグハグな言動は感情が不安定だからなのか、意図してしていることなのか、私はわからないままただグレイの頭や肩を撫で続けた。
「変なのが来たって?」
「……それ、外で言わないでね?」
「外で聞いたんだけど」
「は?」
グレイは落ち着くとまた侯爵家へ行ってくると出ていった。私はそんな彼をため息をつきながら見送って、その後今日の予定についてセティアさんと打ち合わせを済ませる。するとそのタイミングを見計らっていたキリアがススス、と静かに寄ってきた。
そして今の会話になったわけ。キリアの言ったことが理解できずポカンとすると、セティアさんも困惑が混じる仄暗い笑みを浮かべた。こんな顔をするのを初めて見るので面食らって私は固まってしまった。
「昨晩から酒場や宿を中心に噂が流れてるんです」
セティアさんが普段より低い声でそう言った。
「噂って?」
「あんたがグレイセル様と離婚するんじゃないかって噂」
「……は?」
キリアの返しに再びフリーズ。
「それならまだいいかもね。ロビンが聞いたのはカッセルの王女がグレイセル様の第一夫人になってあんたが第二夫人になることを了承したって話。近くで仕事してるならそのへん知ってるんじゃないのかって友達にも聞かれたらしいのよ」
「私も出勤前に耳にしたんです。市場を通る時に王女を娶ってグレイセル様がカッセル国の後ろ盾を得る、とか。主人が出払っているのも今その出所を探すためです、これは問題になる可能性がありますし」
二人曰く、ククマット内は噂話をする人たちとそれらに奇妙な目を向けている人達に二分しておかしな空気になっていると。その流れで侯爵家に滞在中の王女一行が『変なの』扱いされ始めていると。
「え、ちょっと待って? セティアさん、これって問題っていうか、結構マズイよね?」
「はい、相手はカッセル国の王族です、もし今ククマットでこんな事が広まってしまい、王女側に届いてしまったら侮辱したと罪に問われる可能性が極めて高いです」
「だよね」
「どうしますか?」
「そうだね……まず回覧板を回せるところは直ぐ回そう、それと自警団の幹部、誰でもいいから手を貸してもらう。工房や商店伝いで近隣の住民たちにカッセル国の王族に関する会話は控えるようにできるだけ早く広く通達しないと。近くの村もだね、臨時で巡回馬車を手配して回ってもらうのも有りかも」
「あ、あたし行ってくる!」
事の重大さに気づいたキリアが作業台に派手に腰をぶつけ『いったぁ!』と叫びながら飛び出して行くのを私とセティアさんは苦笑して見送る。
「間違いなく、カッセルの王女だよね」
「そうですね」
「わざとそういう話を広めて、関係ない人たちに喋らせて、それを侮辱したと責めて、排除するつもりかな?……セティアさんたちは大丈夫? 侯爵家は結構大変な思いしてて対応に四苦八苦してるみたいだけど。ローツさんも確かカッセルに行った時、第二夫人がどうのこうのって言われたんだよね?」
「はい、そう聞いています。……実は、昨晩王女の使者と名乗る方が訊ねて来たんです」
「えっ?」
「クノーマス侯爵家で王女歓迎の夜会を開いてくださるというので是非ご参加下さい、と」
「私そんなの聞いてないけど?」
「……ささやかな夜会なので男爵のみの参加をお願いしますと、夫人はご遠慮下さいと言われました」
肩を竦め呆れたようなそんな笑いを浮かべるセティアさん。
「それ、口頭で言われたの?」
「はい、ビックリしました、クノーマス家が開く夜会の事を貴賓側が伝えに来る事も、招待状の持参もないことも……その、経験がなく、正直どうしたらいいのかと主人とその場で笑顔を貼り付けるのに精一杯で」
「だよね!!」
つい叫んでしまった。
ルール違反も甚だしい。そもそも夜会を開く側がすべてを仕切る。例え主役の貴賓が色々と我が儘や指示をしてきても、それは全て主催側が一手に引き受け調整する。そして以前アストハルア公爵夫人から教わったのは、夜会や晩餐会といったそれなりの規模になる会では招待状がその人の証明書の役割となるので必ず、例外なく、たとえ当日の直前になろうとも主催者が用意した招待状は渡さなければならないし受け取ってそれをもって入らなければならない。これはこの大陸共通のルール。身内や信頼のおける親しい人によるごく少人数の茶会でも必ず出すという人もいる程、招待状は重要なアイテム。
それが無し。しかも、主催側でない人が伝えに来た、と。
常識がないというか、目茶苦茶というか。
好き勝手するにも程がある。
こっちを、ククマットとクノーマス家を混乱させたいのかもしれない。
「はぁ」
堪らず溜め息を漏らす。
「ジュリさん……」
「とにかく、出来ることは先手を打つつもりでやっちゃおう。この件に関しては既にグレイもクノーマス家も動いてるはずだから、私達はできる範囲で周りが巻き込まれないようにしてあげようね」
「そうですね」
全く、とんでもない嵐が来たものだわ。
間もなくローツさんが戻ってきた。キリアが声をかけた自警団の幹部であるバールスさんもほぼ時間差なく来てくれて、噂の出所の確認と回覧板や巡回馬車の手配、そして自警団の協力も取り付け問題解決のためテキパキと動く。
「はー、疲れた。これでとりあえずある程度は抑え込めるかな」
肩を回しながら一息つけばローツさんがジッとこっちを見ていることに気がついた。
「なに?」
「グレイセル様から、何か言付かってないか?」
「ローツさんに? ……ごめん、ない、何で?」
「いや、こういう時私に話が真っ先に来るはずだと思ったんでな。……カッセル国相手となると侯爵家側としてグレイセル様が動くと確かにこちらの負担が減るから楽ではあるんだが」
(そういうことじゃない)
言いかけて、止めた。
「そうかもね、まして王女の狙いはグレイとエイジェリン様みたいだし」
単に関わらせたくない、それだけの気がしている。それはやっぱり私が少なからずの原因になっていて万が一の時はこの件でなるべく関わらないローツさんに私のことを任せようというグレイの思惑だ。
私を何から守ろうとしているのか分からない。けれどそのために背中を無条件で預けられるローツさんにまで何も話していなというのは如何なものかと思わずにはいられない。せめて一言事情があるから話せない、とでも言ってあげればいいのに。
「そうだな、そのへんは後で俺も確認してみるよ。……あ、っと……こんなときに何だが」
「うん?」
「ちょっとジュリに相談があってな。本来ならグレイセル様にも一緒に聞いてほしかったんだが、商長のジュリには早く話しておきたいと思って」
「そうなの? 夜には帰って来るはずだからそのときに私からも触り程度にグレイに話すよ」
「そうか」
いやしかし、何もこんな時に王女の襲来とか勘弁してよと叫ばない私を自画自賛しておく。
「うおおっ、なにこれキラッキラだわ!!」
「オメーがデザインしたんだろうがよ」
「わはははっ! そうだった!!」
王女のことばかり悩んでられないです、相変わらず忙しいんです。
最近『ヒロインなりきりセット』に料金増々で追加できるコンパクトミラーが完成し、検品も終わり後は売り出すだけのそれが百個、布の敷かれた作業台にずらりと並ぶ。
『お前が驚いて叫ぶな』って顔をするライアスはスルーさせてください。
色ガラスをカットしたものと金属パーツや螺鈿もどきのカットパーツがこれでもかと使われたコンパクトミラーは今回、中に仕切り無しでヘアピンなら二個程度入る小物入れタイプと専用のパレットと筆がついた紅入れタイプの二種になる。開けやすさは勿論子供の手で持って使いやすいよう配慮したそれは貴婦人達が持つものより一回り大きいのでさらにキラッキラ具合が強調されてインパクトある仕上がり。
「そしてオリヴィアさん流石です」
「うふふ、ジュリさんに褒められちゃいましたわ」
《タファン》の店長オリヴィアさんはなりきりセットを売り出すに当たって、 一部の商品に付属されている専用の袋を参考になりきりセット専用の袋を開発していたの。
ベルベット生地で濃紺か真紅のカラーどちらかを選べるのと、その袋は巾着タイプになっていて、その巾着口を縛る為に通される紐もしくはリボンは十種から好きにその場で選べて付けて貰えるというもの。袋も特別感を持たせて出したり閉まったりも楽しんで貰えるよう目指したのだとか。
「ジュリさんのアイデアを参考にしましたの」
「凄くいいですね、袋にオリジナル感を出すだけでも特別って気持ちが伝わるし感じられますからね」
これはうちの店でも扱えるアイデアだね、ちょっと取り入れられそうな所はないかフィンやキリアと相談しよう。
そしてオリヴィアさんが帰れば入れ替わるように入ってきたのが内職さん数名。
立体の飛びだす絵本は装丁や印刷もあるので製本を生業とする工房や商家との話し合いが必須だけど、メッセージカードなら作れるので内職さんたちに声を掛けたり新たに内職さんを募集したりして既に見本がいくつも出来上がり、順調に商品化に向けて進んでいる。
「新しい紙専用ナイフの使い心地はどう?」
「凄く良かったです、軽くて扱いやすいので疲れにくいし」
「それは良かった、今は刃先の消耗対策も考えたのを開発中だからいずれは刃先の研ぎなおしにわざわざ来てもらわなくて良いようにするからね」
「そうなんですか?! 今でも十分なのに」
立体メッセージカードは紙を切るだけじゃなく、押し花を貼りつけるのと同様接着剤を使うため丁寧な作業が求められる。そのためには小回りの利く筆のように先の細い刷毛も必要で、こちらも今のもので十分だと思いつつライアスたちの探究心に甘えてさらなる改良に励んで貰っている。こういう物は実際に何度も繰り返し使う人達の意見がとても重要になってくる。だから従業員だけではなくこうして定期的に今日のように直接納品しに来てくれる人やこちらから回収に行く人に聞く時間を設けている。
こんなことの繰り返しと商品開発に商品製作、外部の人との取り引きに打ち合わせ、後輩たちの指導にお金の管理や書類の製作、株主制度や協賛金制度など私が持ち込んだシステムの見直しや微調整などなど……。
うん、忙しくて当たり前だわな! という私なので、本当に面倒事がやってくるのは勘弁して欲しいわけよ。
「ねえジュリ!」
そういえばあの王女はいつ帰るんだ、とふと疑問に思ったその時。息を切らせて入ってきたのは友達のスレイン。工房側の扉を勢い任せに開けたせいでバタン!! と派手な音を立てたからその場に居合わせた内職さんたちは勿論私達の会話を聞き取りメモしてくれていたセティアさんも座っていた椅子の上で跳ねるように肩を揺らした。
「大変なの! ちょっと来て!!」
「な、なに、どしたの?!」
「マリ石鹸店で!! とにかく早く!!」




