35 * ジュリの憂鬱
ジュリが普段人には言わない事を書いてみました。
楽しくないお話しでしたね、申し訳ありません。
今日の私は、朝から少し調子が上がらなかった。
ここ数日キリアとフィンと三人でレースの糸として仕入れたいもののことで話し合っている事が主に私を悩ませていた。
薄紫色と極めて淡い水色でランダムに染められたその糸は爽やかな夏を表現するのにいいとフィンがかなりお気に召した糸だった。ランダムに染められた糸は細やかな目と柄のレースにすると不思議なムラを生み出してくれるので私もキリアもこれでフィンやおばちゃんトリオが編んだらそりゃもう面白くて素敵なものが出来るだろうと期待していた。
カラーも黄色とエメラルド、ピンクと白、等々色々な組み合わせがあって、大きさや形、柄でかなり印象が変わるだろうというワクワク感もあった。
でもいざ、仕入れとなった途端問題が起きた。
最初に提示されていた仕入れ価格を大幅に上回る金額。
何割、どころではなかったの。
約十倍。
信じられない金額だった。
というか、そんなことをしてくるとは予想もしない相手だったのでその金額がかかれた紙を見て私たち三人は『こういう冗談もあるのか』と本気で笑ったくらい。
でもそれは冗談でも何でもなく本当だと理解したのはグレイとローツさんの共通する言葉を聞かされた時。
「元々派閥が違う。可能性がなかったわけではない」
と。
でも! と言い募ったのは私だけではない。キリアとフィンもそんな一言で納得できることではなかった。
だって、その糸の染色をしている工房は螺鈿もどき細工の染料『本深紅』を開発しクノーマス家と共に献上し、そして販売を開始したジェッダ伯爵領にある工房だから。糸のサンプルを仕入れた時だって手紙には是非購入を検討してくださいとか売値やまとめて買うならこれくらいになるとか確かに書かれていて。ところがいざこの色でこれくらいの量はいつまで用意出来るかと問い合わせたら返ってきた返事はその出荷予定日とバカみたいな高額な合計金額。
「ベリアス家からの圧力が掛かっているのは間違いない。螺鈿もどき細工はクノーマス家との契約に基づいているが、糸の仕入れなどは同じクノーマスでも伯爵の私だ、クノーマス侯爵家と 《ハンドメイド・ジュリ》が切り離されていることをよく理解しているし、糸を最初に提示された金額で卸すという契約をしていないところを突いてきたところを見ると裏でそうするよう指示した者がいる。父の息が掛かっているあの家が今さらクノーマス家に楯突くことは出来ないとしても、大元は派閥が違う。ベリアスの嫡子あたりの入れ知恵と圧力だろうな、家を新興したばかりの私に対して手出しは出来ないが資金力があるところに目を付けられ、金をむしり取ることにしたのだろう。こればかりは仕方ない。対策を考えよう」
納得できなかった。
とにかく、納得できなかった。
この糸を使ったレースの見本を見て、シルフィ様はもちろんルリアナ様もかなり気に入ってくれたし、たまたまそこに居合わせたシルフィ様の御友人である子爵夫人も商品化したらぜひ欲しいと言ってくれたもの。フィンたち作り手も新しいデザインはどうしようと入荷を心待にしていた矢先のことだった。
でもシルフィ様もルリアナ様もグレイとローツさんと同じ反応をした。
こればかりはどうしようもないから、と。侯爵様とエイジェリン様がこの件について抗議はしてくれることになったけど、それでも期待はしないで欲しいと言うだけで話を切り上げられてしまった。
わけがわからない。
キリアもフィンも私と同じ気持ちだった。
アストハルア公爵様にも相談したの。こういうことは普通なのかって。
そしたら。
「納得できないか?」
開口一番その問いを返された。返されて、ああ、同じ答えしか返ってこないんだろうなと悟ったの。
それでも食い下がろうとした私に対してアストハルア公爵様はうちで似たような染色が出来るかどうか試してみると言ってくれたけど、それが何となく、私を宥めるための口実に見えた。
以降、私とキリアとフィンは意地になっていたのよね。似たような糸を探す、近隣で同じような染色ができる工房がないか探す、とにかく、手当たり次第。それが数日間続いて夕べグレイから言われた一言に、私は、明らかに不快感が込み上げた。
「仕方ないだろう、意地になることでもない」
冷静になればグレイの言うとおり。分かってる、分かってるんだけど、どうしても納得いかなくて。だから昨晩私は殆ど寝られなくて朝方ようやくうとうとしたところでもう起きる時間になっていた。
寝不足と消えてくれなかった不快感。
明らかに今日の私は調子が悪い。
そんな状態でクノーマス侯爵家で開かれる夜会に出席しなくてはならなかった。
結果から言えば最悪だった。
私が社交界に少しでも馴染めるようにとシルフィ様とルリアナ様が最近『伯爵夫人』として自宅で行われる夜会やお茶会に私を招待してくれるけど。
ドレスは元から性に合わないし形式ばった挨拶が繰り返されるのも今でも慣れない。何より、今回の夜会で何食わぬ顔してジェッダ伯爵が挨拶してきた。それにグレイもいつもと変わらない貴族らしい笑みを向けて挨拶して。その時私は笑顔なんて出せる状態ではなくてとてもじゃないけれど社交場でしていい顔ではなかったんだと思う。ジェッダ伯爵も困ったような顔をして、グレイが何とか会話で繋いで。周りはそれを眺め挨拶するタイミングを見計らったり憶測だけで話を始めたり。
「はー……」
馬車に乗った途端、溜め込んだ不快な感情を吐き出すような溜め息が出た。
「ジュリ」
「分かってる、口出ししないから」
「……」
「溜め息くらいいいでしょ」
グレイの言いたいことは分かっていた。彼は私の不満を理解している。貴族社会の複雑さ、理不尽さ、それについてはグレイはもちろん侯爵家や格上のアストハルア公爵家だっておいそれと『これはおかしい』『間違っている』と言えないこと。だからどんなに悔しくても惨めでも飲み込まないとならないこと。
「来週の母のお茶会に出なくてもいいぞ、次のもたった五人の気心の知れた会だと言っていただろ? 断ったとしても誰も責めたりしない」
「出るよ」
「だが」
「仮病も諸事情も使えないよ、こんなに近くにいるし、私のことなんてククマットでちょっと調べればすぐにわかるし。そんなことでシルフィ様に迷惑掛けられないから」
いつもなら、『ああ疲れた』とグレイの肩に頭を乗せたりするけれど、今日はそんな気分にもなれなかった。
グレイと結婚した私が避けられないことだと分かっている。
それでも、堪える。
怒りや不満を喚いてぶつけて誰かに解決してもらうことは簡単。私が本気で嫌だと言えばきっとグレイは動いてくれる。アストハルア公爵様に相談したらきっと何らかの解決策を見いだしてくれる。でもそれを私がしてしまったらきっと社交界は混乱に陥る。
伯爵夫人だから。
この肩書きは【彼方からの使い】とは違った重荷として私にのし掛かっている。
覚悟していたつもりが、その覚悟がたりなかったのかと、結婚に夢見て浮かれていたんだなって自虐的になる。
グレイは静か。私にどんな声をかけていいのか分からない、そんな感じ。
それで良かったのかもしれない。少し気まずいこの空気でも私にとっては十分イライラを静めるには役に立つものだったから。
糸の仕入れは断念した。その旨を手紙で送ると、今度は提示した半分の値段でもいいという手紙が返ってきた。
「その工房も資金繰りに困ってるんだろうな。……うちから直接交渉したから伯爵は関与していないだろ? だから夕べも知らぬ存ぜぬの顔して挨拶できたんだろう。クノーマス伯爵夫人相手に無茶苦茶な提示なんてたかが一工房が出来るはずがない、必ず伯爵は把握してるし指示も伯爵本人だろう。ただ、黒幕であるベリアス家からの圧力で仕方なくやったことだから騒がないでくれってことだな、じゃなければジュリの前に立てる訳がない」
ローツさんは昨日の最悪な気分を引きずる私にそんなことを言ってきた。
「それで納得しろってことよね」
「そうだな」
「わかった」
あっさりとした私の返事が意外だったのか、探るような視線を向けてきた。
「なに?」
「納得はしてないだろ?」
「しなきゃいけないんでしょ?」
「それは、そうだが、ジュリとしては」
「ここで騒いでも解決にならないんでしょ? ローツさんに八つ当たりしたくない、これ以上この話をしないでくれる?」
ローツさんに八つ当たりしかけた気持ちは、手紙を破りゴミ箱にぶつけるように捨てることで何とか抑えた。
「……交渉しだいで、価格は変わる」
「それはしない」
「え?」
「一回でもしてしまったら、それが通じる相手だと思われるから。だから仕入れない。少なくとも一度はあっちは私が買おうと思えた金額を提示してきたんだからこっちからの交渉はしない。買って欲しいなら、あっちが戻すでしょ。戻しても当分買わないけどね」
「買わないのか?」
「信用できない。それだけ。貴族云々関係なく信用できないよそんな工房は。商売人として私は信用しないよ」
ローツさんが困ったような顔をした。
「グレイの奥さんとしてこういうことするのは不適切?」
「あ、いや、そういう訳じゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔するのよ?」
「それは……いや、止めておく。ジュリにとって」
「私が不愉快になること言いそうになった?」
「俺はっ」
ローツさんが言葉を詰まらせた。
「後ろに黒幕がいるのは分かってる、でもおいそれと手出しは出来ない、なら。私が出来ることは一つだけだよ、相手にしない、関わらない。それだけじゃない? グレイの名前に傷をつけないように今の私が出来ることってそれだけなのよ、社交界のヒヨッコの私が出来ることなんて、それだけだよローツさん。駆け引きとか私には無理、これ以上、抱えられない」
私の『抱えられない』という言葉に、ハッとした顔をしたローツさんは私の現状をようやく思い出してくれた。
「すまない、配慮がたりなかった」
「……ごめんね」
「えっ」
「私、そんなに優秀な人間じゃないから。ハルトやグレイみたいにチートだったら良かったんだけどね。問題事をいくつも抱えられる人間じゃないから、社交界が絡む駆け引きとか取引とか、してる暇もなくて」
「ジュリ、俺はそんなことを言わせるつもりは」
ローツさんの気遣う言葉をこれ以上聞きたくなくて、私はその場を離れた。
「はあ、しんど……」
一人になった途端、自然と溢れた言葉に自分で驚いてしまった。
グレイと夫婦として夜会に出たりすることそのものは苦ではない。ただ、『伯爵夫人』になったと同時に敵意を向けてきた令嬢や婦人が少なからず出てきた。
結婚に興味ない、しないと思われていたグレイセル・クノーマスが結婚したのは『国が認めていない【彼方からの使い】』。ようは平民と変わらない身分。平民は貴族と結婚出来ないという訳じゃないけれど、それでもシルフィ様のように実家が豪商だったり著名な神官や魔導師、騎士の血縁という『箔』を持つ人たちが殆どで、本当にごく平凡な人間が結婚で貴族社会に入ることは極めて稀。
クノーマス家と血縁関係を結びたい貴族は多い。子供になかなか恵まれなかったエイジェリン様とルリアナ様は『第二夫人』や『愛人』の座を狙う人たちを蹴散らすのに陰ながら苦労した話は知っている。それはウェルガルト君が生まれてもお二人をまだ悩ませることがあるらしい。クノーマス家が繁栄の兆しを見せているからその繁栄のおこぼれにありつこうと虎視眈々と狙う人たちがどんどん増えていてそれもあって余計な事をしてくる人は一向に減らない。
その根底に私がいる自覚はある。それを知ってる人たちがとても多い。
それなら私は歓迎されて然り、と思うのは浅はかなことだった。
私は邪魔なの。
周りが欲しいのはお金や権力。
伯爵になったグレイセル・クノーマスの隣に相応しいのは自分だと本気で思っている令嬢たちがいかに多いか。
視線や会話で分かる。
『あなたはお金さえ生み出せばいい、ばら蒔けばいい、グレイセル・クノーマスの隣にいる必要はない』
と。
令嬢だけじゃない。
今回のように、強引で理不尽な取引を平気でしようとしてくるのは私が『伯爵夫人』である前に『認められていない【彼方からの使い】』だから。
私は。
結局何も認められていない。
この国で、世界で、私の存在は最も半端。
これからも、こういうことが続く。
避けられない。
それでも。
守る。
立ち向かう。
「はぁ」
負けてたまるか。
「悩んでも仕方ない、か」
今手にあるもの、大切な人たちを守る。
「……はぁ」
それでも今日は、溜め息が多い。
それくらいは、許されるはず。
今日くらい、調子が悪くてもいい。そんな日もあるよね。
「よし!」
気合いを入れて頬を叩く。
私は。
出来ることをするだけだ。




