12 * 涙の意味
入学式を終え、ルリアナ様は私とケイティ三人だけになったタイミングを見計らって、座ったはずの学長椅子から突然立ち上がるとソファーで寛ぎ明日からのことで話が盛り上がっていた私達に突然頭を下げてきた。
「ケイティ、ありがとう」
「え、な、なにっ?!」
突然のことと何のことか分からないケイティの声がひっくり返った。
「あなたが手配してくれたと教えられたの。……二期生を受け入れる前の休校期間、イサラを伯爵領に派遣して侍女に爪の手入れとマニキュアの綺麗な塗り方、手のマッサージなどの基本的な指導をさせる旨、そして四期生受け入れに合わせて入れ換えになる補助員に伯爵家の侍女を入れる手筈を整えたとの書状が侯爵家から届いたと兄から手紙が来たわ」
「……ああ、そのこと」
ケイティが苦笑しながら、ルリアナ様に頭を上げてよ、と声をかけた。ゆっくりと頭を上げたルリアナ様の顔に、驚いた。
今にも泣きそうな、嬉しいのか悲しいのか分からない複雑な表情で。
「手紙から……兄はもちろん家族がとても歓んでいることが伝わって来たわ……特に母は、義姉にようやくお礼ができると、とても喜んでいたと。本当に、喜んでいたそうなの……」
ルリアナ様のお母様が長らく闘病していたことは私が召喚されたときから聞いていて、症状が悪化してルリアナ様が数ヶ月実家に帰っていた程で。命に関わるものではないけれど完治まで時間がかかる厄介な病気の方を側で誰よりも支えたのがルリアナ様のお兄さんである伯爵の奥様、現在の伯爵夫人だった。
そんな伯爵夫人へ何かしてあげたいと家族皆が思っていた時、ルリアナ様から届いた手紙。
―――補助員として侍女を一人預かる枠をハシェッド伯爵家にも用意できた―――
それにルリアナ様のお母様は、ご自分の侍女ではなく伯爵夫人付の侍女を行かせてあげることにしたの。
補助員は講師の手伝い等をこなしながらネイリストに必要な知識や技術を間近で見ることが出来、そして余裕があれば授業にも参加できる。
それを知り、ルリアナさまのお母様はこれから必ず富裕層の女性のおしゃれに必須となるであろう手元をより美しく見せる技術となる爪の手入れやマッサージ、そしてネイルアートを夫人付きの侍女に学ばせてあげようとしていた。
現実は、そう甘くなかった。
この補助員の枠は絶対に増やさない、というのが私とケイティの最初から譲らなかった条件。
講師一人につき二人まで。
これ以上増えてしまうと、この補助員たちのために講師が時間を取る羽目になるかもしれない。講師は本来生徒のためにいる。だから絶対にその枠は増やさないことはこれからも変わらないと思う。
所がそれが仇となってしまった。
おそらく『どうにかならないか?』という打診が王家もしくはその筋からあったのだと思う。生徒の枠を増やすか、補助員の枠を増やすかできないか? と。侯爵家はそれを断った。確かに断ったけれど。
『どうしたものか……』と悩む姿勢を見せた。
悩む必要なんてなかったのに。
私とケイティが認めないんだから、悩みようがないはずだったのに。
それを見たルリアナ様が言ったらしい。
「実家の枠を、お譲りするよう兄に伝えます」
と。そしてそのことに侯爵様、シルフィ様、そしてエイジェリン様が『感謝』してしまった。
その提案を、すんなり受け入れてしまったの。
それを聞いたとき、私は『そうですか』としか答えられなかった。
私が口出し出来ることではない。侯爵家と伯爵家のことだから。
でも心の中ではモヤモヤしていた。
どうしてルリアナ様が折れなければならないの? と。なんのために私たちが決まり事を作ったの? と。
確かにネイリスト専門学校は侯爵家の出資で設立し権利も侯爵家、でも根底には私とケイティがいて、私達の意見や希望が最優先されるという流れで今まで来ていた。それが今回崩れた。これくらいなら許容範囲なのかもしれない。でも相手は王家。一度こういうことをしてしまったら、この先どう展開するのか分からない。それが怖いから、私は出来ないことは出来ないとはっきりと伝えて 《ハンドメイド・ジュリ》と 《レースのフィン》は条件が合わなければ誰からの依頼であっても受けないと決めている。
「学長になるあなたに近い人が、ネイリストについて知らないとそれこそ社交界で肩身が狭い思いをするでしょ? それにネイリスト育成のためにあなたが尽力していたこと、私は知ってる。爪染めになる樹液がとれる木の栽培に適した土地の候補を絞り込んだのも、ウィニアとイサラが学校のことに専念出来るように新しい侍女を雇い教育していたことも、そしてウィニアとイサラにあなたの知る社交界の人間関係などを丁寧に教えていたこと、他にも沢山、全部ちゃんと私とジュリは知ってるわ。今回のこと、あなたが譲る必要なんてなかった。我慢する必要なんてなかった。でも、あなた優しいから……エイジェリンのため、侯爵家のためにって思っちゃったのよね。自分が我慢すれば、丸く収まるって」
「ケイティ……」
「頼ってくれていいのよ、ネイリストの件は私とジュリがいなければどうにもならないんだから。まだまだ発展途上、侯爵家だけではネイリスト専門学校は成り立たない。支えてるのは私とジュリの知識、そして影で尽力している人がいてこそ出来ること。……この件で、もうあなたは一人悩まないでね。引き下がったりしないでね。私たちが、いるから」
ポロポロと、ルリアナ様が涙を溢した。
そんなルリアナ様をケイティは笑顔で抱き締めた。やっぱり、悲しいのか、嬉しいのか、わからないそんな顔をしていた。
「ルリアナは大丈夫だったか?」
夜、グレイの屋敷でご飯を食べ終えてのんびりしていたとき突然彼からそう問われた。
「兄に聞いた。ルリアナが最初から譲ったわけではなく王家から打診があった話を聞かされて変更する流れになったと」
その言葉に私は、ワインの入ったグラスを口に持っていく手が止まった。
「……やっぱり、打診があったの?」
「ああ、口を割らせた」
「えっ? どういうこと?!」
「入学式のあと、補助員として入った王妃付きの侍女が父と兄に真っ先に挨拶に行っていた。生徒も含めて他の者は皆ルリアナの所に向かっていたのに。今日はルリアナの学長としての立場を示すためにわざわざ端に席をとって目立たないようにしていた父と兄の所に迷いもなく行くのはおかしいだろ? あの二人に挨拶をする時間は設けると事前に通達済みだったしな。それが気になって後を追った」
まさかの尾行を彼氏がしていた。
「で……。『この度はこちらの申し出にご配慮頂きありがとうございました』と言っていたのを聞いた」
「……そうなんだ。やっぱり、打診あったんだ」
グレイは険しい顔をして、私の隣にどかりと腰を下ろす。
「さすがに腹が立ってな、父上と兄上にどなったよ。『侯爵家が経営しているからといって勝手なことをするな、ケイティとジュリに全て話を通せ』と。珍しく反論せずに顔を強張らせて謝罪してきた」
私は苦笑しつつ肩を竦める。
「反論せずに謝罪……それなりにお二人にも隠すようなことをしている罪の意識はあったってこと?」
「そういうことだろう。だいたいルリアナに預けた補助員の一枠はルリアナの今までのネイリスト育成専門学校への協力に対するケイティからの感謝の印でもあった。それをあの二人は、いや、母を含めて十分理解していた。……それを、こんな形で。バレなければこのままこちらは知らずに過ごすことになっていたぞ」
ムシャクシャしている、そんな様子でグレイは頭を手で豪快に掻き回した。
「納得いかない、な。……こんなことになるなら魔法紙の契約で全て許可を必要とするか無理を承知で私が経営権を得れば良かったな」
「その代わり、ケイティがイサラちゃんを休校中に伯爵家に行かせるようにしたからルリアナ様は喜んでたわよ。ルリアナ様はそれで事を収めたい感じだったし」
「分かっている、分かっているが。一度こんなことをしてしまえば歯止めがな。何のために今まで 《ハンドメイド・ジュリ》が徹底して理念や規定を守ってきたと。…… 《レースのフィン》も 領民講座も、『王家だから』を認めてこなかったしこれからもそうするつもりはないだろう? なのに、ネイリスト育成専門学校は侯爵家が経営するからの一言で罷り通るとなれば、関係が深く、そして近くゆえに影響し合うククマットにある 《ハンドメイド・ジュリ》も 《レースのフィン》も 領民講座もいずれ必ず『王家だから』の一言で問題が発生する」
「……それは、うん、私も思った」
悪気があったわけではない。
侯爵様もエイジェリン様も、忠誠を誓う王家、特に気にかけて下さる王妃からの打診にはなるべく応えたいんだろうことは容易に想像つく。実際王妃は私に対して友好的だし、協力を要請すればなるべく私の意に沿ってくれるはずと私も希望を持っている。
けれど、ケイティが言っていた。
王妃一人の力には限界があること。王家そのものとなればそれ以上の力が動くこともあるって。
国王が今回のことを黙認してくれているとしても、その次は分からない。王妃を介し、国王が干渉してくるかもしれない。
『一度受けているのだから次も大丈夫だろう』
と。
それを、侯爵家ははね除けられるの?
出来ませんと、拒否出来るの?
漠然とした不安が襲った。
私に影響するよね、と。
いま、この流れを止めるなり変えるなり出来なければ必ず私に。
いつ起こるか分からないし、どんな形で現れるかも分からない。とても漠然とした、形のはっきりとしない不安。
それに私にとって侯爵家のこの動きはタイミングが悪い。私は王妃から王女のデビュタントを祝う晩餐会で招待客に配られる贈り物の特注を受けて納品も完了したばかり。こちらからかなり条件を突きつけて受けた依頼だけど、今回のことは『侯爵家ならば』という言葉が付くことで壁が低くなったように思う。少なくとも王妃に近い人たちにはそう捉えられたはず。
私が王妃の依頼を受けたから、繋がりができ、そして関係性が強まり『融通が利く仲になった』と勘違いされる可能性がある。
つい、唇を噛んでしまった。
侯爵家は当然悪意はない。何かを企んでもいないはずと信じたい。
だけど。
変化しないとは限らない。侯爵家の向こうにいるのは王家。
「大丈夫だ」
不意にグレイが肩を引き寄せてきた。コツン、と頭に彼の頭が優しく当たる。
「ジュリのことは、私が守る。なにがあっても」
「……うん」
目を閉じ、息を吐く。いつの間にか体に力が入っていたみたいで、フッと力が抜ける感覚があった。
「でも、グレイも大変な時は必ず教えて。私のことで一人で抱えたりしないで。私のことで一人グレイが苦しむのは、見たくないし嫌だよ……知らないって、怖いし、辛いから」
「分かってる。ちゃんとふたりで解決しよう」
額を寄せあいぎゅっと手を握り合う。
私達はこうして、言葉にして対等である努力をしている。それで百パーセント理解しあっているかは別としても、ルリアナ様は違った。一人抱えて、それをエイジェリン様に言えなくて、何より愚痴を溢せなくて、きっと不満がくすぶっていたに違いない。『私のしたことでジュリやケイティを困らせたらどうしよう』と不安だったに違いない。
「……ルリアナ様、一人で抱えないでほしいなぁ。もう、泣いてるの見たくない」
「泣いた?」
「うん、ちょっとね。ケイティに頼ってくれていいよって言われて、なんだか気が抜けたみたいで。落ち着いてから恥ずかしそうに『誰かに理解してもらいたかったみたい』って笑ってたわよ。……最後にね、『頼る人はエイジェリン様と決めているの、気持ちだけ受け取っておくわ』って。なんか、ちょっと切なかった。侯爵夫人になる人の、覚悟を見た気がしてね。そう簡単に色んな人を頼れる立場じゃないんだろうなって思っちゃって」
「……そうだな。兄上には、ルリアナのことを話しておく。今回のこと、兄上はルリアナにちゃんと向き合って謝罪すべきだろう、夫婦なら尚更、無視していいことではないはずだ」
後日、グレイが教えてくれた。
エイジェリン様がルリアナ様に謝ったこと。
その時ルリアナ様が。
―――あなたは次期侯爵です。妻に頭を下げてはいけません、お立場をお考え下さい――――
と窘めたこと。
エイジェリン様が、その姿を正面から受け止めて初めて、こうやっていつもルリアナ様が何かを我慢してきた、諦めてきたんだろうと悟ったこと。
その晩、お二人はずっとベッドに座って並んで語り合ったらしい。
ルリアナ様のことを。
エイジェリン様が少々強引に聞き出すような形で。
でも翌日、眠そうな顔を隠しもせず、二人は笑っていたそう。
ルリアナ様が笑っていたなら、きっと大丈夫。
お二人はこれからもっと仲良し夫婦になれるはず。
だから。
私たちの当面の心配事は、絞られた。
今後の王家の動向に。
どんなに仲が良くても、協力し合う仲でもどこかに綻びがあって、ちょっとしたことでその綻びから不和な部分が見えて浮き彫りになることってありますよね。とくに貴族とジュリたちの間にある綻びは、大きくて数も多いと思います。
そして明日はホワイトデーですが、バレンタインネタを掲載していないのでこちらも今年はありません、ご了承ください。




