8 * 裏切り
「嘘でしょ」
グレイから聞かされた内容に、信じられず軽く笑いながら否定してしまった。
「残念ながら、ほぼ確定だと思ってくれ」
私の思い付きや提案に侯爵家がかなりの額を投資した事業はいくつもある。
その一つで、ここに召喚されてから私が意を決して投資を願い出た一番最初のもの。
螺鈿もどき細工の確立。
私では工芸品に到達させ、そこから更に洗練された高級品へと昇華させる技術はなかった。ただ、基本的な知識はあった。どんな見た目が螺鈿もどきの良さを活かしてくれるか、どういった物に仕上げられらるか、そういうことを伝えることは出来た。
古来から日本に伝わる螺鈿細工は世界遺産に登録されたお堂の柱にも施され、小物だけでなく大きなもにさえその技術を落とし込める。作品として無限の可能性は、類似品である螺鈿もどきも秘めていると。
ラメなどにして私も活用するけれど、工芸品と比べたら私が仕入れる量など微々たるもの。まして工芸品として確立されるならククマット発のものとして大陸に広がり人々に愛される可能性もある。
可愛いもの、安いものだけではない一線を敷く物が螺鈿もどきから生まれる可能性に、クノーマス侯爵家だけでなくククマットにいる職人さんたちも目の色を変えた。
素材だけではない。それを扱うために必要な道具の開発、物流の改革、そして職人の育成。それら莫大な投資の先に『伝統』が生まれるかもしれない。
だから侯爵家は投資をした。それといった工芸品がない領だから。
「……信じ、られないんだけど」
信じられない。
だって。
螺鈿もどき細工の責任者であるヤゼルさんが信頼を置いていた職人が裏切るなんて。
「『特漆黒』のレシピまで?」
「ああ」
「……王家に、献上するはずだったよね? マズイよね?」
「幸い、何を献上するかは伝えていないし、時期も決めていなかった。それもこれも明後日ヤゼルたちが父に完成品を見せ、ジュリが納得したならば王家に使いを出し工芸品として今後生産していく旨を伝えて献上の時期などを決めることになっていたからな」
「そう……そこは、なんとかなるんだね」
安堵するには早い問題が立ちはだかっていた。
昨日の夜遅く。
私たちが寝静まった頃、侯爵家に自警団の幹部であるルビンさんがやって来たそう。
昨日の領地警備責任者担当だったルビンさんが馬を走らせ侯爵家に先触れもなく来るなんて非常事態。
直ぐ様侯爵様に目通りしたルビンさんがもたらした情報は侯爵様が側近やスパイを総動員させるだけのことだった。
―――ヤゼルさんの一番弟子で螺鈿もどき細工の開発の中心を担っていた職人と連絡がつかない。
螺鈿もどき細工で最も重要な『特漆黒』と名付けられた染料のレシピと献上するため作られていたその染料を使った作品十点の紛失が発覚。―――
昨晩、その職人が見慣れぬ馬車に荷物を抱えて周囲をしきりに気にしながら乗り込む姿を目撃していたのは偶然にも自警団の幹部候補の一人。夜中に職人が出歩いているのは珍しいことではない。酒場で英気を養う者は多いから。でも、その職人はククマットでは見たことのない御者と男二人とその馬車に乗ったらしい。その幹部候補は明後日侯爵家での作品御披露目時に立ち会うメンバーの一人だったから、その職人の行動が気になって。
共に市場周辺を巡回していた数人に直ぐ様目撃したことを伝え、彼らは既に寝ていたヤゼルさんの家の戸を叩いた。
そこから怒濤の動きだったらしい。
一部始終を説明され、ヤゼルさんが言ったそう。
「出かけるなんて聞いてねぇ。しかもあいつは下戸だ、夜中に出歩くこともねえぞ」
嫌な予感がしたヤゼルさんたちは、まず男の家を訪ねた。
もぬけの殻。妻子の姿もなかった。さっぱりと片付けられたその様子は明らかに『必要なものが持ち出された』後に見えた。
そして工房は。
厳重に保管するため、工房の地下倉庫にしまっていた螺鈿もどき。そこに入る鍵は新調されてヤゼルさんとその職人と、あと一人侯爵様の計三人だけ。荒らされた形跡はないけれど、鍵を使い開けたそこには、あるはずのものがなかった。
厳重に封をされ、『特漆黒品十点』の文字が書かれた紙が貼られた箱が。
そして自警団は侯爵家からの指示を待たずにすぐさま行動した。
自警団の詰所にいたルビンさんに伝え、彼の指示により直ぐ様その馬車を追いかけること、他の酒場で最近親しくなった人たちと酒を飲んでいた領民講座でダンス講師をしている、元騎士団団員のカイくんに協力を要請して。
彼らの行動で、ククマットは夜中にも関わらず騒然となったらしい。
『特漆黒』は特別なもの。
この世界には漆がない。あの艶やかさ、照り、なにより比類なきあの深みのある上品な黒い染料がなかったの。
それを知ったとき、ならば全く別の色で作ることを私は勧めた。だって私がきっと今ある染料を使った作品を見せられても納得できない気がしたから。その時、ヤゼルさんが言ったのよ。
「時間をくれ、そしてジュリの納得する黒い染料が出来るまで、螺鈿もどきは世に出さない」
って。
並々ならぬ決意だった。
ヤゼルさんだけじゃなく、職人全員が。
新しい染料の開発のために侯爵様が他領に掛け合い協議を重ねて職人や調合師を引き抜いたし、木工品の職人として名の知れた人を引き抜いて連れてきてもいた。
それにどれだけのお金がかかるのか、少なくとも侯爵家に近い立場の私は理解していた。
莫大な投資をしていたの。
それを職人もククマット地区の皆も、そしてレフォアさんたちを通してフォンロン国、ハルトを通してロビエラム国、そしてマイケルとケイティを通してテルムス公国も。静観しつつも、この国の王家だって、知っていた。
それだけのお金と人が動いていた開発だった。
そんな中生まれた『特漆黒』は職人や調合師数十人の努力と執念の塊にふさわしい、漆と言われても区別がつかない完成されたものになった。
螺鈿もどき細工の基礎が誕生した瞬間だった。
なのに。
職人が裏切った。
大事な染料のレシピと、献上させるために作られた作品と共に消えた。
「朝一でヤゼルには螺鈿もどき細工の特別販売占有権への登録をするようにすでに指示している。民事ギルドにも使いを出した、すでに登録は始まっているだろう」
「嫌がってたよね? 自分の名前で登録すること」
「……今後のことを考えれば、そうも言ってられない。個人ではなく領地特産品での特別販売占有権登録は時間がかかりすぎる」
「そう、だよね……」
混乱する頭を必死に整理する。
そもそもなんで裏切ったのか?
知っていた。確かにその職人もすでにククマットだけの話しではなくなっていたことを。完成後の侯爵様の確認、そして私の最終承認に至ればククマットには【彼方からの使い】を通してフォンロン、ロビエラム、そしてテルムスから職人が送り込まれる手筈まで整えられていて。
個人では到底太刀打ちできないこと。
何を血迷って、盗み逃亡を図ったのか。
……個人?
「……グレイ、その職人さん、捕まったの?」
「まだだ」
「……クノーマス家の、自警団の上層部の追跡から個人で逃げられるものなの?」
「素人なら不可能だ。しかもカイも追跡に加わってくれている、盗賊や何らかの集団だとしてもあいつから逃げるのはほぼ不可能だと思っていい」
そうよ、不可能よ。
長らく騎士を輩出してきた侯爵家の血統が治めるこのクノーマス領の自警団の上層部は異質だとハルトが認める程なんだから。選び抜かれた上層部は国の所有する騎士団にも匹敵すると教えられている。しかもカイくんは見習い騎士時代の時すでにグレイの覚えが良かった逸材だと聞いている。
そんなのから、逃げられる?
「いるよね、後ろに」
「ああ」
職人を引き込み、この騒ぎを起こした有力者が。
お店に着いて馬車を降りると、既に工房がザワザワしている気配を感じた。
夜中にも関わらず自警団が殺気立って動いたせいで、その空気はククマット市場を朝から言い様のない緊張感と既に知れ渡ってしまった情報で息苦しいと錯覚するほど覆い尽くされているように見えた。
工房は騒ぎを知った従業員たちがほぼ全員集まっていてひしめき合っていて、急遽研修棟に皆で移動した。
ローツさんはグレイの説明を聞いても終始落ち着いていているから既に昨晩のうちに事情を把握していたのかも。
聞かされた皆は一様に緊張していた。
グレイから底知れぬ怒りが滲んでいるし。
それはもう、私も頭を抱えたくなるほど。
そのお陰で私は冷静さを取り戻したけれど。
螺鈿もどき細工について今後の方針をグレイが話始めようとしたとき。
「おはようございます」
カイくんだった。彼はちょっと大袈裟なわざとらしい疲労感を吐き出すような息づかいをして、視線を私に向けてきた。
「さっき、職人を捕まえました。連行して侯爵家の牢に入れることになりそうです」
ザワッ!! とその場の空気が揺れた。
「ついでに」
カイくんは、爆弾を投下した。
「職人を護衛していたベイフェルア王都警護兵と思われる三人も」
「とりあえず、『特漆黒』のレシピと『特漆黒品十点』は、全部無事だったんだね……」
カイくんの爆弾投下に心臓が止まるかと思ったけれど、淡々と他にも状況を説明され、なんとか持ちこたえたわよ。
職人と、逃亡を手引きし護衛していた二人と御者、計四人はこれから侯爵家にあるという地下牢に入れられ外部との接触を絶たれるらしい。
「おーい、ヤゼルの特別販売占有権の登録が済んだそうだ」
ライアスがすこし前に研修棟を飛び出して行ったけど、どうやらその確認がしたかったらしい。
「先に登録されてたらアウトだったわ」
私は脱力して椅子に体を任せた。
「この周辺ではまず間違いなく登録出来ないだろう、今はもう螺鈿もどき細工が特産品になる可能性があることを知らない人の方が少ないからな。だから夜中にここを出て、なるべく遠くへ行くつもりだったんじゃないか? 少なくとも他領に行かないとな」
ローツさんはそのあとも自分の見解として、と前置きして話してくれた。
「身元は確認させるが、王都の兵ではない」
「その根拠は?」
「王家が主導し絡んでいるなら、まず王都の兵と分かる物を身に付けたりしないし、もう少しマシな逃亡計画をさせるはずだ。しかも、逃亡に手を貸した三人も恐らく詳細を知らされず動いている」
「そうなの?」
「ああ、余りにもお粗末だ。こんな大それたことをするような計画としてはあり得ない。じゃあなんでこんなことになったと思う?」
含みのある言い方だった。何となく、嫌な予感をさせる。
「端的に言うと、圧力と妨害だ」
「つまり、レシピと作品を盗んで逃亡するのが目的じゃなかったってこと?」
グレイはただじっと、ローツさんの言葉を聞いているだけ。
「そうだな。『特漆黒』のレシピと献上予定の作品は盗み出せれば儲けもん、程度だったはずだ。そして職人もな。引き抜きするために恐らく莫大な金、職人としての立場、身の安全の保障をちらつかせて、実際に引き込めたならそれに越したことはないが、ダメならダメで構わないってところだろう。職人も逃亡幇助の三人も捨て駒だった」
「……嫌がらせのために?」
「ああ。あの職人はヤゼルの次に螺鈿もどき細工の重要人物になっていた、あいつが欠ければ今後の職人育成にも影響を及ぼすし、生産の安定性にも影響は出る。大がかりな開発を少しでも邪魔して混乱させたかったんだろう」




