90.いざ、出陣
「私は、キャサリン様の結婚式で、こんな風に御髪を整えて差し上げたかったです」
この頃何度も言っている台詞を、リサはまた繰り返す。髪の絡みを解き、結い上げて行く、その優しい手つき。
「私の結婚式のときも、あなたにお願いしたいわ、リサ」
そう返すと、鏡に映るリサは、眉尻を下げて困ったように笑った。
「大丈夫よ。私の予感は、当たると思うの」
もしオーウェンとミアの代わりに強引に馬車に押し入り、そして何もなかったなんてことになったら、我が身の没落は免れない。リサが心配しているのは、そのことだとわかっている。
だけど私は続編のことを考え、そして最近の状況を鑑みると、ここで何らかの物語の強制力が働いているように感じるのだ。だからきっと、何かある。それを防ぐために、今日があるのだ。
「まあ、計画通りに行っても、お叱りは受けると思うけれど」
何しろ、国を挙げての祝事の場面で、個人の判断で勝手なことをするのだ。それが結果的にオーウェン達の命を救うことになっても、多大なる叱責は避けられない。それだって、覚悟の上である。
「お綺麗です……」
リサの声が、どこか夢見心地に響く。
頭上にティアラを輝かせ、純白のドレスに身を包んだ私が、鏡の中にいる。
「頬紅がもう少しあった方がいいわ」
リサに頼むと、頬にさっと赤みがさした。少し濃いようでもあるが、このくらいでいい。喜びに頬を上気させた、幸せな花嫁の完成だ。
「準備ができました」
「こちらも終わっています」
衝立の向こうから、ノアの声。
「キャサリン様、こちらへ」
リサに手を引かれ、立ち上がる。ドレスの裾は長く、たっぷりの布地が重たい。抜けるような白に、動く度にきらきらと輝く小さな宝石達。王太子の結婚式ともあって、ミアが着るのと同じ衣装は、それはそれは手が込んで、美しいものだった。
長い裾をリサが上手くさばいてくれるので、私はゆっくりと、衝立の向こうへ顔を出す。
「ああ……」
感嘆の声をあげたのは、ノアだったのか、エリックだったのか。ウエディングドレス用の靴は、いつもより少し高くて、足元に気をつけながらエリックの側へ寄る。
彼は騎士団の制服から、オーウェンと同じ、婚礼用の服へ着替えていた。王家の威厳を感じさせる格調高い服は、彼の端正な顔立ちによく似合っている。オーウェンの髪が黒いので、彼には、黒いかつらを付けてもらった。王太子であると紹介されても、オーウェンの顔を知らない人は、疑いなく信じるであろう。
「素敵ですわ、エリック様」
そう声をかけると、彼はびく、と大袈裟に肩を跳ねあげた。目の焦点が自分に合うのを感じ、それまでエリックが、どこかぼうっとしていたことがわかった。
「キャサリン様……」
エリックの一歩は大きくて、こちらに近寄った彼の厚い胸板が、目の前にあるほどの距離感だ。名前を呼ばれたと思ったら、視界が暗く翳った。
「駄目ですよ、エリック様」
「……申し訳ありません。つい、手が出てしまった」
横を見ると、私の体を覆おうとしていたエリックの腕が、ノアによって掴まれている。エリックはすぐに手を引き、ノアに謝った。
「婚約者でもない殿方に、無闇に触れていただく訳にはいきません」
「ああ……仰る通りですね」
ややきつい口調で、ノアは釘をさす。同意するエリックと、私の視線が交錯する。思い出したのは、きっと同じことだ。エリックには、セドリックとの事件で一度、エリーゼを追った時に一度、合わせて二回、抱き上げられている。
この調子だと、もしノアに知れたら、抱き上げたエリックも不用意に抱き上げられた私も、合わせて強めの叱責を受けるだろう。
「参りましょう」
エリックは、きちんと姿勢を正し、私に手を差し出す。これは、正式なエスコートの姿勢。私はその手を取った。
倉庫の側に、ノアが馬車を寄せておいてくれた。私たちは今回、ミアとオーウェンが式場から出て、パレード用の馬車に乗り込む、その寸前で入れ替わる予定だ。式場の出入り口付近には、当日は開けない予定の倉庫があるという。早い時間に向かってそこへ隠れ、時を待つのだ。
「……緊張するわ」
口の中が渇いたような感じがして、そう呟いた。ノアが操る馬車は揺れも少なく、かたかたと軽妙な音を立てて進んでいる。隣の席にはリサが、向かいにはエリックが。王太子の婚礼衣装を着たエリックが目の前にいるというのは、何とも不思議な気分であった。
私の呟きを聞いて、リサは背にそっと手を当て、エリックは穏やかに微笑む。
「あなたの身は、俺が守ります」
「おふたりのご無事を、お祈りしています」
オーウェンの命を狙う者に襲われた時、頼りになるのはエリックだけだ。彼になら、全てを任せられる。私は、ふたりの顔を見比べて、頷いた。
やるしかない。皆と過ごす、平穏な日常を守るためには、ここで私が動くしかないのだ。
まだ人々は家にいるらしく、馬車は止まることなく進んでいく。刻々と、その時は迫っている。馬車の中は静かになり、互いの揃った呼吸が、私たちの心が同じ方向を向いていることを表していた。




