84.秘められた会話
木々に体を隠したまま見ていると、エリーゼと呼ばれた令嬢は、色鮮やかな服を着た男性に身を寄せた。寄せられた体を、男性は引き寄せる。
「ねえ、あなたの願いを、教えて……」
「何度もお伝えしているではありませんか」
「でも、お聞きしたいのです」
「困った人ですね……あなたとずっと、一緒にいることですよ」
それは、恋人のような、仲睦まじい会話。見れば見る程、彼女の顔はエリーゼだ。髪の色が違うから直ぐにはわからなかった。かつらでもかぶっているのだろうか。
「私も一緒にいたいわ」
「ええ。……僕の願いまで、あと少しです。あなたが王妃となり、国王となったベイル様に、新たな法を作っていただけば」
「わかっていますわ。あなたと共にいるためには、それしかないって」
エリーゼの声は、私やミアに話しかける時とは全く違う、甘く蕩けるような声だ。
「もう少し早く出会えていれば、そんな必要もなかったのに」
「そうですわね。婚約前なら、なんの問題もなかったのに」
ふたりは手を取り合い、じっと見つめ合う。
「それでもあなたを諦めきれない僕を、お許しください」
「それを言うなら、私もよ。あなたのために、国を裏切ろうとしているのだから」
「ああ、エリーゼ様。愛していますよ」
男性は、エリーゼの細い体を抱き寄せる。
「気のない騎士に愛想良くするのは、疲れますのよ。あなたのためでなければ、苦痛ですわ」
「頑張りましたね」
「ご褒美は、キスでしょう?」
そして、落とされる口付け。私は何を見せられているのだろう。吐きそうなほど甘ったるいやりとり。エリーゼは、ベイルの婚約者のはずだ。そんな彼女が、別の男性に抱かれ、接吻を受けているなんて。
「それにね、ニード伯爵に、商人を紹介することができましたわ」
「僕の方でも確認しております。ニード伯爵は、ヘランを購入してくださったようですね」
「そうなの。私、頑張っていますのよ」
「ええ。僕との未来のために、ありがとうございます」
また口付け。
「また明後日、あの騎士のところへお菓子を届けていくわ」
「では、次の接吻はそこまでお預けですね」
「……大人のキスは、してくださらないのね」
「公爵家の方々にヘランを届けてくださるまでは、僕も我慢しているのですよ」
伏し目がちに言うエリーゼの背を、男性は優しく撫でる。
「さあ、また明後日。お気をつけて」
「はい。待ち遠しいですわ」
「ええ。僕もです」
かさ、と落ち葉を踏む音がする。エリックを見ると、唇に人差し指を当てる仕草。私は息を止め、音を立てないよう、じっと止まった。
「……全く。充分サービスしてやっているだろうに、どんどん要求が高くなるな」
エリーゼの微かな足音が遠のくまで、たっぷりと沈黙を置き、ぽつりと呟きが聞こえる。その声は、エリーゼに話しかけていた時の優しく柔らかなものとは全く異なる、低い声音。がさがさと乱雑な足音が聞こえる。葉の隙間から、鮮やかな色彩が離れていく様子が見えた。
どのくらい、そのまま息を潜めていただろう。長い時間の後、エリックがふうーっと、深く息を吐いた。それに合わせて、肩の緊張が抜ける。
「もう、大丈夫なのね」
「はい。ふたりとも、もう感知できないほどに離れました。とりあえず、戻りましょう」
エリックの頬は、どこか強張っている。私も似たような顔つきをしているだろう。今私たちが垣間見たものは、国家の転覆を企てる、決定的な会話だったのだ。
こんな、どこで誰が聞いているかもわからないところで、核心に迫る話はできない。エリックの提案に、私は頷いた。すると、ふわ、と体が浮く。
「えっ? エリック様、私、自分で歩けるわ」
「足元が悪いですから。俺に身を預けてください」
そのまま、ゆっくりと歩き出す。さっきは走っていたからよくわからなかったが、今はそんな、切羽詰まった状況ではない。彼の歩みはしっかりとしていて、体幹の強さを感じる。私を支える腕は筋肉質で、でも壊れ物を持つような、優しい触れ方。触れた部分から、じわりと体温が伝わってくる。金属と砂埃と、微かな汗の匂い。
「痛くはありませんか?」
「私は、特に……エリック様こそ、辛いでしょう?」
そして、あんな話を聞いた後でも普段と変わらない、優しくて落ち着く声。なんだか妙な気分だ。触ってもいない頬が、熱い気がする。
「辛いなんて、とんでもない」
「そうなの?」
「はい。俺は、もっと……」
何か言いかけたエリックの顔が、陽に晒される。木立を抜け、通りに戻ってきたようだ。エリックに降ろされると、そこはもう、地面がきちんとならされている。ふわふわとした非現実的な気分なのは、何が原因なのだろうか。
「私たちにこれから、何ができるのかしら」
鍛錬場へ戻りながら、私は考える。
「ねえ、エリック様ーー」
「お屋敷まで、お送りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいの?」
「はい。抜けてからずいぶん時間が経っていますし。あのような話を耳にした後で、おひとりで返すのは心配です」
エリックと相談できるのなら、それに越したことはない。ありがたい申し出だ。エリックは近くの騎士に断り、私と共に馬車に乗った。
「……エリーゼは、あの男性と、恋仲にあるつもりなのよね」
「男には、そのつもりはないようでした」
「利用されているのだわ」
そうしたことに疎い私でも、エリーゼが男性に恋愛感情を抱いていて、それを利用されているのはわかった。接吻を餌に、ヘランを広めさせられているのだ。彼女が私やミアに、ヘランを勧めたがっていたわけもわかった。位の高い貴族にヘランを広めれば、より良い報酬を受け取れるのである。
なんて、情けないのだろう。ベイルという婚約者がいながら、他の男性にうつつを抜かすなんて、あり得ない。
「そしてあの方は、コリンを利用して、騎士団にヘラン入りの菓子を広めているのですね」
「そうみたいね。エリック様は、大丈夫なのよね」
「俺は、コリンとは親しくありませんから。食べているのも、一部でしょう。しかし一部でもヘランに侵されているとしたら、警備の穴は、突きやすくなります」
「ああ……」
騎士こそが、ミア達の結婚式の警備の要なのだ。そこに穴があるようでは、危険性が格段に上がる。ヘラン欲しさに、あるまじき行動に出る可能性だってある。
「このことは、私達だけで留めておける問題ではないわ」
「俺は、団長にこのことを伝えようと思っています」
「そうよね」
エリックの言う通り。パレードの警備を担う人々に伝えて、対策を練るべき問題だ。
「私は、お父様に伝えてみるわ。驚いたけど……でも、結婚式の前にわかって、良かったわ」
「不幸中の幸いでしたね」
どういう訳だかわからないが、エリーゼの差し入れは誰にも咎められず、騎士の口に入っていた。このまま気づかずに、ヘランに嵌った騎士が警備に配置され、タマロ王国に良いようにその穴を突かれていたら。それこそ、続編の展開は免れなかった。
やっぱり世界は、続編の方向に流れていたのだ。しかしそれも、食い止めることができそうである。
「王太子様の結婚式が無事に終われば、安心できるわね」
「そうですね。キャサリン様、このことが終わったらーー」
がた、と音を立てて馬車が止まる。屋敷に着いたようだ。エリックが先に降り、私に手を差し伸べる。
「ありがとう」
こんな風にして彼の手を取るのは、もう何度目だろうか。
この手がさっきは、私を抱き上げていたのだ。
そのことを思うと、胸がどくんと鼓動した。手を取って歩くことなど、何気ないことなのに、握った手から伝わる熱が妙に気になる。
「では、また」
挨拶をして、彼と別れた。エリックの気持ちは気になるけれど、その話を落ち着いてするためには、まずは続編に向かう流れを阻止しなければならない。今日、直ぐにでも、父と話をしよう。
私はそう固く決意し、早速父の部屋へ向かった。




