31.もうひとりの……?
「こんな風に話すのも、久しぶりだね」
オーウェンも、私と同じように感じていたらしい。オーウェンとミア、そして私の会話。学園に入学したばかりの頃は、そこにベイルもいて、4人で過ごすことも多かった。オーウェンが卒業して、アレクシアが入学して。その辺りから、こんな風に話す時間は、ほとんどなくなってしまった。
そのベイルは、挨拶回りをするエリーゼの隣で、客と挨拶を交わしている。見る度に思うけれど、あの顔。アンニュイな表情も絵になると言えばなるが、あれは心ここに在らず、という顔だ。
アレクシアと出会ってからは、私と一緒にいるときも、いつもああいう顔をしていたなあ。アレクシアといるときは、凛とした態度や行動を見せるのに、私と会うと全てのスイッチが切られてしまう感じだった。見るからに、今もスイッチの切れているベイルは、アレクシアに心を奪われている。
あんな顔をするくらいなら、いっそ、駆け落ちでもすれば良かったのに。私との婚約を破棄する勢いがあるのなら、どんなことだってできただろう。それはそれで、ロマンチックなハッピーエンドだ。ヒロインにふさわしい結末。
過去のことを思い出しながらベイルの顔を遠くから眺めていたら、ばちっと目が合ってしまった。ぼんやりしていたベイルの表情が、その瞬間、引き締まる。咄嗟に、私の方から目を逸らしてしまった。
しっかり目が合ったのは、久しぶりだった。最後はたぶん、アレクシアに出会う前。あまりにも久しぶりで、動揺する。
以前の私は、こんな風にベイルに見てもらうことを、切望していた。
「お義兄様、お義姉様、お越し頂いてありがとうございます。あ、キャサリン様も、ようこそ我が家へ」
エリーゼについでのように挨拶されて、むっとする。隣を見れば、ミアの瞳には怒気が浮かんでいた。私を軽んじる態度に、腹を立てているのだろう。その気持ちだけありがたく頂き、私はミアと視線を合わせたあと、笑顔を作って無難に礼を返した。
エリーゼが、肘でベイルの腕を軽く突く。
「今日は楽しんでいってくれ」
エリーゼに突かれ、反射的に喋っている様子のベイル。おもちゃみたいだ。こんな人でも、あの頃の私は、大切に思っていたのだ。せめて、ベイルらしい、凛とした姿でいてほしい。あまりの情けなさに、元婚約者ながら、こちらまで力が抜けてしまう。
「そんな風になるくらいなら、アレクシアのところに行けば良かったのに」
「ちょっと!」
「あっ」
焦ったようなミアの声に、今しがた私は、思ったことが口から漏れていたことに気付いた。ベイルの情けなさに脱力した結果、唇まで緩んでいたようだ。口元を押さえてみるも、出たものは今更取り戻せない。
どんな反応をするだろうと、エリーゼとベイルの顔を交互に見比べる。すると、深い紫色をしたベイルの目が、うるうると涙で満たされ始めた。
えっ、泣いてる?
見間違いかと思ってミアやオーウェンに目を向けるも、ふたりとも驚いた顔をしている。間違いなく、ベイルは泣いている。
「な、なに泣いてるの」
「お前が悪いんだ、キャサリン!」
「……っ!」
感情を昂ぶらせたベイルは、突然大きな声を出した。聞いたことのないような怒声に、身が竦む。
「お前が、お前があのとき泣いていれば……泣くのは俺じゃない、お前なんだよ!」
「何を言っているんだ、落ち着け!」
「落ち着けるものか、俺は、こいつのせいで、アレクシアの居場所すら知らないんだぞ」
ベイルは私を指差して責め立てる。人を指で示すなんて、失礼だ。男性が公衆の面前で泣くのも、余程のことである。そんなこともわからないほど、今ベイルは、混乱している。なんだって言うのよ、いったい。
オーウェンでも、喚くベイルを制止することができない。
「今からでもいい、泣けよ、お前! 俺とアレクシアの前で、泣けって!」
「それって、どういう、」
「お前が最後に泣いて、俺とアレクシアが結ばれる。それが、ハッピーエンドなんだよ……」
声の力を失ったベイルは、床にへたり込み、目頭を押さえる。
「ベイル。今、誰の目の前で、何を言っているのか、わかっているのか? お前の婚約者は、ブランドン侯爵令嬢だぞ」
オーウェンの言葉にも反応せず、うな垂れたままのベイル。この人の心は、本当に、アレクシアにとらわれたままなのだ。
好きだったのね。
アレクシアへの行き場のない恋心が余り余って、感情を抑えられなくなってしまったのだろうか。こんな風に取り乱すベイルを見るのは、生まれて初めてだ。
「私が連れて帰ろう。弟には、よく言って聞かせておく。……会の途中で、申し訳ない。皆は最後まで、楽しんでくれ」
この騒ぎを見ていた周囲の人々に、オーウェンはそう言い、ベイルを無理に立たせる。オーウェンと同じ馬車で来たミアも、その後を追う。
「……お気をつけて」
そう言うエリーゼは、表情を失っていた。かわいそうに。エリーゼは鼻持ちならないが、今回ばかりは、同情を禁じ得ない。
「帰るわ。馬車を出して」
馬車に乗ると、ベイルの剣幕を思い出し、ぶる、と今更体が震えた。
恋心というのは、恐ろしい。ベイルは、アレクシアのために理性を失ったように見えることはあっても、最低限の礼儀や常識を欠くことは……あった。あったけど、でも暴力的な態度を取ることは……言葉の暴力はあった。けれど、あんな風に周囲の目も気にせず怒鳴ることはなかった。とにかくああして男性に暴力的な振る舞いをされたのが初めてで、衝撃的だったのだ。恋というものは、あんなにも、人を狂わせてしまうものなのか。
あれが恋なら、私はベイルに、恋はしていなかった。
ただ、婚約者として、彼を信じていたかったのだ。私は前から、「アレクシアのためにおかしくなっただけで、本当は凛とした素敵な人」と信じていた。でも、思い返してみれば、アレクシアと出会ってからの私の扱いはずっと酷かった。
実のところ、「何をしても良い相手」と元から思われていたから、今回の暴挙に繋がったのだろうか。自分の思いはそもそも報われていなかったと思うと、僅かに残っていたベイルへの執着が、剥がれていく気がした。
馬車のふかふかな椅子に座り、揺られながら帰る。窓にはカーテンを引き、私は向かい側の壁に彫刻された、細やかな装飾を眺める。何の意味もなさそうなパターンを見て、馬車の規則的な揺れに任せていると、心が少しずつ落ち着いてきた。
さっきベイルは、泣きながら、「あの時お前が泣いていれば」と言っていた。お前とは、私のこと。「あの時」って……。
泣くはずの私が泣かなかったのは、「あの時」。ベイルに婚約破棄され、本当ならば、失意に涙するはずだったのだ。ところが私は、ゲームのことを思い出し、泣かずに自己主張した。
ベイルがそのことを言っていたならば、彼も、この世界がゲームだと、知っているの?
問い質したい気はしたけれど、実際ベイルを目の前にして、それを聞ける自信はない。結局、暫くベイルは謹慎するということで、会う機会はなかった。目撃したのが若い貴族だけだったこと、また怪我のような直接的な危害はなかったこともあり、取り敢えず、それ以上の罰は与えられないことになったという。




