30.紳士、ふたたび
ミアが去ると、私はワインを片手にひと息ついた。口に含んで飲み込むと、喉がぼんやりと熱くなる。学園を卒業してからお酒が解禁されて、少しは嗜むようになった。お酒の味は好きでも嫌いでもないけれど、飲んだ後の感触はあまり好きではない。
相変わらず人の多い大広間。ダンスホールではたくさんの男女が相手を何度も変えて、踊り回っている。本当ならば、独身で、しかも婚約者のいない私は、率先してあの輪に入って踊っていなければならないはずだ。ただ、どうも気分が乗らない。
「あ……」
私を誘おうとする男性が言葉を発する前に、気付かないふりをして身を翻す。断ると角が立つから、誘われる前に、それとなくかわしていた。
踊っている男女の中でひときわ目立つのは、ベイルである。さすが攻略対象と言うべきか、容姿も動きも華やか。例えそれが考えなしの王子であったとしても、容姿が抜群に魅力的なのは間違いなく、周囲の注目の的だ。だけど、あの不服そうな表情。あれは、アレクシアに心奪われたままに違いない。エリーゼは一緒に踊りながらあんな顔をされて、気分が悪くないのだろうか。
「ベイル様は素敵ね」
「あの方も素敵よ」
ベイルは、令嬢達の注目の的である。
人々の視線を追っていると、もうひとり注目を集めている男性がいる。私より少し歳上に見える、騎士団の制服を着た人。誰と踊るわけでもなく、そこに佇んでいるだけなのに、周囲の人はちらちらと彼を見ている。
さらりとした銀髪に、髪の色と調和した淡い灰色の瞳。切れ長の目と、澄ましたような表情が、冷たい印象を与える。すらっとした長身で、騎士団の制服が劇的なほどよく似合う。
ベイルと遜色ない整った容姿だ。しかし、私の記憶にあるゲームの登場人物で、あんな人はいない。ゲームと無関係なのに、攻略対象と同等の容姿をもっているだなんて、羨ましい。
あれだけの容姿なら誰を誘っても断られないだろうに、どうして彼は辺りを見回しているだけなのだろう。随分変わった人らしい。私もだけどねーーなどと考えていた、その時。
「先程は会話に割り込んで申し訳ありません、キャサリン様」
「御機嫌よう、ブランドン侯爵令嬢」
親しげに話しかけてくるエリーゼに、笑顔で、しかし距離を置いた返事をする。学園時代に仲が良かったわけではないのに、いきなり距離を詰められて、こちらとしても対応に困る。
「どうなさいましたの」
「今度、新たな趣向のパーティを催すのです。キャサリン様もお誘いしたいと思いまして」
「そうなの。招待状を送ってくださる?」
エリーゼと私の関係は良いものではないし、彼女のパーティに参加すれば、もれなくベイルが付いてくるのも気が引ける。断るつもりでそう言うと、エリーゼの表情がぴき、と固まった。意図が伝わったのだろう。
「ミア様もいらっしゃるのですよ。私達、これから、家族になりますから」
エリーゼの鼻持ちならない表情といったら。ただ、そう言われると、途端に断れない気分になる。ミアだって、行きたくて行くのではなく、関係性で仕方ないから参加する部分があるはずだ。
私は王の病でばたばたしているミアのことを何も知らず、呑気に過ごしていたことを、ずっと後悔している。だからこそ、こうして相手もいない、好奇の視線で見られる舞踏会にも参加しているのだ。気が乗らなくてもミアは参加するのに、私が行かないのは、先日の二の舞だ。そう思って、少し考えてしまった。
その、考え込んだ様子を「了承」と取ったようで、エリーゼは「では、よろしくお願いしますね!」と去っていった。跳ねるような足取りで、人混みの中に消えて行く後ろ姿。なんて図太いんだろう。その姿を見送っていると、なんだかどっと疲れた。
「聞こえた? 今の……」
「いいえ。何のお話かしらね」
エリーゼとの会話自体だけでなく、彼女と話していると、噂好きの女性達の視線を感じるのだ。元婚約者と新婚約者の会話なんて、格好のネタだろう。どうしてそういうことが気にならないのか、エリーゼの感覚は私とずいぶん違うみたい。私は視線を振り払うつもりで、その場を離れた。
目的もなく歩き出してしまったので、壁伝いにゆっくり歩く。外の空気を吸って、気持ちを切り替えたい。思い出すのは、この間の騎士の忠告。ひとりで屋敷の外まで出るのはやめよう。かと言って、妙な誤解は受けたくない。誰かが来たらすぐに広間へ戻ろうと決め、人のいないバルコニーを見つけると、できるだけ目立たないようにさっと外へ出た。
「涼しい……」
人混みで火照った頬が、外気に晒される。
夏が近づきつつある夜の風は、しっとりと湿り、土の匂いを運んでくる。ローレンス公爵の屋敷はバルコニーが広い作りをしているので、手すりに寄ると辺りは暗く、空にまたたく星も、部屋の明かりに邪魔されずによく見えた。
手に持ったままだったワインをまたひとくち、飲む。喉の熱さも、この涼やかな夜風の中でなら、若干快い。
「ご一緒してもよろしいですか」
「いえ、私は直ぐ戻るわ」
「……そうですか、それは残念です」
休む間もなく話しかけてくる男性の声に、私は反射的にそう返した。ひとりで出てくる私を、見ていたらしい。こう暗くては、部屋の中からでは誰と誰が話しているかなんてわからないだろうけど、慎重になって損はない。
広間に戻ろうと振り向きながら、声の主に目をやると、そこには騎士団の制服があった。暗くてぼやけているが、胸元で微かに光るのは、騎士団入隊を示す勲章である。
「……先日の騎士様ですわね」
「良かった。覚えてくださっていたのですね」
そして、温かく、柔らかなその声に、聞き覚えがあった。彼は適切な距離を置き、私の隣に寄りかかる。風に乗って、金属的な香りがふわりとした。普段鎧を着て鍛錬している、彼の香りだろうか。
「きちんとバルコニーに出てくださったのですね」
「叱られてしまいましたからね、あなたに」
「ええ。しかし今日は、もう一つ叱りたい気分です。こんな薄暗いバルコニーにひとりで出たら、良からぬ男性が寄ってきますよ。窓の近くにいたらよろしかったのに」
「言いつけ通りにしたのに、だめなのね?」
「本当は、おわかりでしょう」
もちろん、わかっている。人目のないところにひとりでいることは、危険が大きい。ダンスホールでは音楽が流れているし、悲鳴をあげても気づかれないかもしれない。こうした正式な会に呼ばれる人に、おかしな気を起こす人はいないだろうから、おそらく何もないだろうと高を括っていた部分はある。
暗いところで、ほっとする時間が欲しかったのだ。
「わかってるわ。でも、ひとりになりたかったのよ」
「理由を、お聞きしても?」
「……皆の視線が気になって、疲れるのよ。見られて、笑われている気がして」
口を突いて出た言葉に、自分自身ではっとした。暫く社交界から離れていたから人混みに慣れていないのだとか、エリーゼと話しているときに見られるのは仕方ないとか、いろいろ言い訳したり諦めたりしていたけれど、私は人の視線が気になっていたのだ。「あの婚約破棄された令嬢」と笑われている気がして、嫌だったのだ。
皆が案じてくれている中で、そんなことを言ったら、心配されてまた社交界から遠のけられてしまう。
パーティにもお茶会にも出ず、家で皆とのんびり過ごしている日々は、最高に気楽で、楽しかった。それでも、知らなければならないことを知らないで、人の苦労を知らないで、呑気に過ごしているのはもう嫌だった。
「皆が見ているのは、あなたがお美しいからですよ」
何か言葉の続きそうな、暫しの間。「そんなこと」と返そうと口を開けた途端、彼の方が先に言葉を継いだ。




