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オトメと木星  作者: 等野過去
9/13

 またしても一週間のサイクルが始まるのだ、昨日の甘い記憶に、別れ際の辛酸(しんさん)。双方が混ざって朝から心ここにあらずといった状態で仕事へと向かった。

 習慣とは恐ろしいもので、さして滞りもなく仕事を進めていける自分がいた。一時間ほどすると案の定遅れて女音がやってきた。

 来て早々に目が合うと、彼女はぎらりとその目つきを厳しくした。先日のやり取り以来随分と嫌われてしまったものだ、これで少しでも口数が減りでもすれば有り難いのになどと考えているようでは、僕自身の反省の色は極めて薄そうだ。

 そんな上の空な心境でいることを表情からでも察したか、女音はより鋭く睨みながら、ドシンドシンと派手に歩み寄ってきた。そして一度、大きく息を吸った。

「ゆうちー!」

 僕が件の計画に気乗りでないと暴露してから丸一日の時間を挟んだのだ、今一度自身の行いの無謀さに気付いただろうかと期待したが、望んだ相手が相当悪かったようだ。目端を吊り上げて、一日が経過ことでより怒りが強くなったようにすら映って見える。昨日のこともあって半ば自棄(やけ)になっている今、僕に向かってこようとはこれまた良い度胸だ。今一度、改めてガツンと言ってやる必要がありそうだ。

「ゆうちー、聞いてるの? ねえ、昨日の女の人は一体誰よ!」

「だからそもそもにして太陽を作るという話が……って、昨日?」

「そう、駅前にいたでしょ、すっごくすっごく綺麗な人と!」

 一昨日のことは彼女の頭からはぽっかりと抜け落ちてしまっているのかもしれない、一切話題に出ないどころかその類の会話をする気すら感じられない。とりあえず女音でも愛梨さんが美人だと理解できる程度の審美眼は持ち合わせているようだ。

 いや、それどころではない。一体いつ見られていたのだろうか、どうしてそんなシーンを目撃されたのだろうか。もし見られていたのが夕刻の駅前であれば、とんでもない発言まで聞かれていた可能性がある。告白が女音に聞かれたとなれば、それだけで恐ろしい屈辱だ。

「でれでれーっとしてさ、鼻の下があんなにも立派に伸びるものだなんて感心しちゃったんだから、ほんと恥ずかしいったらありゃしない!」

「それって……いつ見かけました?」

「いつもへったくれもないでしょ、朝っぱらから見つけたわよ! せっかく声かけようとしたのにさ、隣に女の人連れているんだもん! 随分とゆうちーも偉くなったもんよ!」

 朝一で見かけたのであれば大丈夫だと、ほっと一息、胸を()で下ろした。僕のような最下層の者があろうことか愛梨さんという美の女神に位置しよう人に告白するなど、正常な神経で考えれば武器も持たずに腰巻一丁で戦場へ赴くようなものだ。そんな無謀な事実を、口が羽より軽そうな女音にだけは知られたくなかった。

 朝方のやり取りを発見されただけならばいい、何とでも言って喚いてくれ。放っておいて仕事にとりかかろうとしたが、それがやはり不服だと、女音は頬をあらん限りにプリプリと膨らませて口先を突きだすと、僕の耳をぐいと掴む。意外に痛いものだ、とても看過(かんか)できずに、振りほどいてまだ何か言いたそうな女音に向いてやる。

「まだ何かあるんですか?」

「何かもすったもんだもないわよ、結局そのあと駅前の喫茶店でずっと待っていたんだから。そしたら何よ、夕方過ぎにやっと戻ってきたと思ったなら、すっごくいい雰囲気になって帰って来てさ!」

「ちょっとまてぇい!」

 どれだけ腰を据えて待っていたというのだ、思わずつっこみながら、顔面は蝋人形(ろうにんぎよう)のように蒼白となったことだろう。夕方過ぎに戻ってきたと公言できるのだから、とてもホラとは思えない。正真正銘僕たちを駅前で張っていたのだ。

「ストーカーじゃあるまいですし、なんで待っているんですかそんなにも長い間! なんですか、ずっと見てたんですか?」

「見つけたらとっ捕まえようと思ったけど、人が多過ぎて喫茶店を出たなら見逃しちゃったのよ……現行犯逮捕できなかったんだから」

 とりあえず告白の事実までは知らないと見て、安心して良さそうだ。しかしどれだけ心臓に悪い脅かしを仕掛けてくるのだと、大きな溜息をついた。

「何でいちいちそんなことするんですか、本当に……別にいいじゃないですか、学校の知り合いと会う事がそんなにもいけないことなんですか?」

「いけなくはないけど……」

「だいたい日曜日に僕が何をしていようと、女音先輩には一切関係ないじゃないですか」

 言うと口をすぼめ、プイと横向かれてしまった。全く強情だ、しかし今日だけはどうにも止まらない。もしかすると件の告白が聞かれたかも知れない、そう思うとまるで(さげす)んで見られているように感じられてしまい、ひたすらに強がってみせては言葉は止めどなく口を突いて出た。

「そもそも太陽を作る話だってそうじゃないですか、僕は元からあんな馬鹿みたいな話、興味なんて欠片となかったんですから。そりゃ文句を言わずに嫌々付き合っていた僕も悪かったと思いますが、それにしても先輩こそ勝手が過ぎるんじゃないですか? もう止めてください、もう僕には構わないでください、金輪際(こんりんざい)コリゴリです」

 きっぱりと言い切ると、しばし静寂が支配したが、次にはそっぽ向く女音がすすり泣く声が僅かに漏れてきた。僕は聞こえないふりをするどころかいっそのこと永遠にそうしていてくれと開き直りながら、無言で仕事に打ち込んだ。

 そうだ、「太陽を作る」などと言い出した時も、黙り込んでしまってからが殊更(ことさら)に厄介だったのだ。僕は全く反省を活かせなかった。納得せずに黙り込んだ女音ほど、野放しにして危ないものはないというのに。


 その日の夜間学校は、なんとも味気ないものだった。

 いつも通り愛梨さんと会話は交わすも、従来のように無味乾燥な話題ばかりで、雰囲気は昨日が嘘のようによそよそしい。告白はやはり止めた方が良かったのだろう、たった一つの行為は静かに確実に僕たちの関係を砕いた。そして愛梨さんの素振りから、タイミングを見計らっているのだろう事が良く分かる。そう、最も僕を傷つけずに断れるタイミングを。その優しさほど心にぐさりと刺さりこむものはない、これでは会話をしているだけでも針のむしろだ。

 学業もとてもではないが熱が入らず、授業中はずっと頬杖(ほおづえ)をついていた。何もかも忘れて一年ほど旅に出たいなどと、誰しもが一度は思うだろう、解放された世界を夢見た。唯一の心安らぐ愛梨さんとのやり取りがこうも崩れ去ってしまったのだ、何を糧として日々を過ごせばいいのか皆目(かいもく)見当がつかない。

 長たらしい授業が終わると解放感に溜息をつき、最近めっきり増えた嘆息(たんそく)に皮肉な笑みが連れ添って表れた。馴れ初めではあるまいに最低限の言葉で愛梨さんと別れの挨拶を交わすと、授業中はずっと無音にしていた携帯電話を取り出す。着信があったことに気付き、履歴を見れば早河教授からだった。シミュレーション結果が出るまでしばらくは連絡しないと言っていたが、こうして連絡があるという事は、そういう事なのだろう。およそ一週間と想像以上に早かったが、シミュレーションの結果が出てしまったのだ。

 周囲を覗うが、授業が終わればほとんどの生徒はすぐに帰路に着く、早くも教室の中は僕一人だけとなっていた。携帯電話を握ったまま窓に体を預けると、夜空を仰いだ。月はおぼろながらにも丸い形で輝いており、明るい夜だった。このまま電話をかけ返さなくてもいいだろうか、このまま逃げてしまっても良いだろうかなんて考えがふと頭をよぎった。愛梨さんへ告白してからというもの心がまるで空気の抜けた風船のようで、まったく覇気が出ず、それでいて太陽を作るだなんて馬鹿げた計画に付き合わされている普通とはかけ離れた自分の立ち位置にひどい憤懣(ふんまん)を抱いていた。別に振られた――厳密にはまだ振られてはいないが、振られたと考えることはあながち早計でもないだろう――こととの因果関係は皆無だが、いい訳を探そうとすれば要因はそこに集約しようとする。

 この際だ、僕はこの企画から降りさせてもらう旨をしっかりと伝えよう。女音に伝えても聞きはしないだろうから、教授に直接話すのが一番だ。せっかくの教授からの朗報を台無しにしてしまうだろうことに心を痛めながらも、僕はゆっくりとリダイヤルのボタンを押した。

 コール音が二、三鳴り響くと、ピッという電子音の後、声が聞こえた。

「こんばんは、悠斗くんかい?」

「はい、こんばんは早河教授」

 挨拶を交わしたなら、一瞬嫌な間が空く。てっきり真っ先にシミュレーション結果を報告してくるものだと覚悟していたが、拍子(ひようし)抜けした。もしかすると別の要件で電話をしてきたのかもしれない。

 まさか教授こそこの企画を降りようと言いだすのではなかろうか。一度考えが浮かんだなら頭から消えず、嫌な想像は現実味を帯びてあたかも自分が希代の預言者のように感じられてしまうから仕方がない。

 つい聞き返せずにいると、早河教授の方から言葉をかけてくれる。

「こんな夜に突然すまない、例の件で電話したのだけど、今は大丈夫かな?」

「大丈夫です。……それで、お話というのは?」

「ああ、シミュレーションの結果が出たので取り急ぎ連絡をと思ってね」

 なんだ、想像はしょせん想像だ、僕に予知能力など無いようで安心した。いや、安心したというのはまさに嘘だろう。今更太陽を作るという計画の進展話をされるなど、正直うんざりだったのだから残念な気持ちの方がよっぽど強い。

「まあ、これだけ早く結果が出たのだから分かってもらえるだろう」

「はい?」

「シミュレーションだが、本当に申し訳ない。失敗だった」

 一瞬で世界が暗転した。シミュレーションが失敗した、考えてみれば研究に失敗などつきものだろうし、失敗は成功の母という言葉がある通り失敗を積み重ねて成功への道を作り上げるものなのだろう。往々にして初めから成功するわけがないのだ、ちょっと考えれば素人でも分かりそうなものだが、なぜか僕は失敗という言葉を知らないかのように呆然となり、空に輝く月が消え去ったと(まが)うほどに周囲が真っ暗に転じた。

 早河教授が、失敗してしまったのだ。

「すまない、本当にすまない……手は尽くしたつもりだ、だが……本当に、期待だけさせて情けない……」

 やったではないか、これでこの計画は頓挫(とんざ)決定だ。僕が手を汚さずとも計画を断念へと導けるのだから、教授に感謝を捧げたいくらいだ。

 いくらそう思おうとしても、心が受け付けなかった。電話越しに震える、悔しさを露わにする教授の声を聞いたなら、(よこしま)な感情を抱く余裕がないほど断腸(だんちよう)の思いに支配された。その声がただただ痛々しく、耳に携帯を当てているのですら苦痛だ。

「早河教授、でも、いえ、まだ色々と錯誤(さくご)できるんじゃないですか? だって、たった一週間じゃないですか!」

「駄目なんだよ、それが駄目なんだ……本当にすまない」

 電話越しでこうも謝られてしまっては、とても計画から降りたいだなんて言い出せる雰囲気ではない。それどころか悔しさという感情が溢れ出てきては、成功させてあげたいなどという不躾(ぶしつけ)ながらも心からの願いが浮かび上がった。

 そう、僕の心はずっとこうだ。その気もないのに女音に振り回されていたりと、行動が周囲に沿うだけで己の意思がない。一体自分はどうしたいのだ。同情や気遣いなどをはじめとする日和見(ひよりみ)で考えをころころ変えているようでは、最終的に自分こそが他人を振り回してしまうのは目に見えているというのに。

「悠斗くん、取り合えず明日の夜、女音ちゃんの家で一度話をしよう」

「はい……」

 相当脱力しきった声だった、簡単に頷き返したなら、すぐにも電話は切れてしまった。

 実験が失敗するなどよくあることだろう、その度に新たな方法を考え、障害を超えていくのが研究の本質ではないのだろうか。一度の失敗で諦めてしまうなど、とても教授らしくない考えではないか。いや、つまり一度の失敗ではなく、すでに考えの限りを尽くし終えたのかもしれない。詳しい話は明日聞く方がよさそうだが、あまりの展開に心は痛恨のもどかしさに占拠されていた。

 忙しい中で無理に付き合わせた教授が、こうして失敗したことによって責任を感じて元気なく「すまない」だなんて造詣(ぞうけい)の浅い高校生に謝するのだ。なんて馬鹿でなんて情けない話なのだろう。そんな中で脱退しようと考えている自分がいることが恥ずかしかった。しかし辞退の念はどれだけ考え直そうとも当然の感情だと思うからこそまた、ジレンマにうなされる。

 これ以上深く考えていると頭が痛くなりそうだし心が病みそうだ。とりあえず女音にも教授の方から話がいくだろう、もしくは明日の仕事中にでも電話の内容を伝えればいいか。厄介なことは考えず、後回しにしてはやはりどこか遠くへ旅に出たいだなんて思いながら教室を後にすると、靴を履き替えて玄関を出る。

 薄暗い校門を抜けると同時、体がびくりと震えた。満月でよく見渡せる校門の先に女音の影が映り、本物であるわけがないと脳裏が訴えかけてきたが、耳も貸さず反射的に手前の柱に隠れた。

 見間違いかと思い目を擦るが、残念ながら見まごう事無き本物だ。どうして女音がここにいるのだ、理解できないと恐る恐る首を伸ばして覗き見れば、彼女の前にはあろうことか愛梨さんが立っていた。陰と陽とでも言おうか、決して交わってはいけない二人がこうして対面していたのだ。女音がいるだけであれば僕を目的として学校へ足を運んだと考えれば済むことであるが、二人が面と向き合っているのだから理解などとてもできず、悠々とその場に顔を出すことは(はばか)られた。

 いや、向き合っているというよりも、傍目には女音が愛梨さんに突っかかっているように見てとれる。

 聞き耳を立てるまでもなく、二人の声は鮮明に聞き取れた。

「ゆうちーに何をしたの? ゆうちーがおかしくなったんだから、承知しないんだから!」

「だから……ねえ、女音ちゃんだったわよね。何度も言っている通り、別に私は何もしていないわよ」

「うそ、うそ、だって昨日見たんだから! 二人で一緒にどっか行ってたの、この目で!」

「だからそれは認めているじゃない。でも、別に私が悠斗くんとどこに行こうといいじゃないの。女音ちゃんの許可は必要無いのでしょう、さっきそう確認したわよね」

「でも、そうだけど別に許可とかじゃなくて、何もしていないならゆうちーがあんなにひどい事言うわけない! 私悔しい、絶対に何かあったんだもん……!」

 校門先で何をやっているんだあの馬鹿先輩は、今日は頭を痛めることばかりが次から次にやってくる。

 愛梨さんは一つ一つ丁寧に噛み砕いて対応しようとしているが、女音の呑み込みが悪く、すぐに堂々巡りになってしまう。どこまで面倒見が良いのだ、どこまで付き合いが良いのだ愛梨さんは。

 僕はとうとう見るに耐えかねて柱から体を出すと、二人へと歩み寄った。

 足音に気付いて僕の方を向いた女音は、後ろめたそうに俯いた。

「女音先輩、なんでこんな所に来ているんですか……愛梨さんが困っているじゃないですか。もう止めてください!」

「うう……ゆうちー……」

「別に僕は(たぶら)かされたわけでなければ、そそのかされてもいません。女音先輩、すみませんけれども、お昼のあれは僕の本心なんです!」

 よりにもよって愛梨さんに噛みつくとは、相手を誤っているにも程がある。自身が悪かったと一度でも思わなかったのか、どうしてこの後に及んでなお愛梨さんのせいだと考えられるのだろうか。その神経が理解できない。

「私は、私は……」

 女音は依然納得いかない顔で悔しそうな声を絞り出し、ややもすれば泣き喚きだしそうだ。

 面倒なことになりそうだ、(うと)い心情が表情からも透いて感じ取れたのか、女音は期待通りに目端から大粒の涙を垂らして、くちゃくちゃの顔を隠すこともなく泣き出した。

「私はただ、……えぐ、ん……ただ、ゆうちーによくやったってほめて欲しくて、ゆうちーと楽しかったねって笑い合いたくて……なのに、なのに。ゆうちーなんていつもつまらなさそうで、ひどいことばっかり言ってくるし……もうヤダ、ヤダ。くやしい」

 だからといってどうしてこういった行為に繋がるんだ、どうしてあんな計画を思いついた挙句に僕を振り回すんだ。殊のほか、女音の涙にも決心は揺るがずに非情で冷静な態度を保つことができた。

 しかし愛梨さんは相当人が好いのだろう、あえてその本能のままに叫ぶ女音に近付いていく。

「女音ちゃん、落ち着いて。ね、その要因が私にあるのなら、私はいくらでも話を聞くから、だから、ね」

 言いながら腰を落とし、女音に目線を合わせる。ゆっくりと肩に手をまわして彼女を落ち着けると、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭いてやる。と、そこで愛梨さんはまるで何か新しいことに気付いたように目をしぱたたかせ、鼻先をひくりと動かした。いっとき固まり、すぐにもくるりと顔を女音から僕へと向けた。

 愛梨さんの眼差しは女音に向けていた優しげなものとは異なり、まっすぐと見据える意志の強さが感じられるものであった。端正な顔立ちに強く見つめられたならば、心臓は大きく一度、ドクンと警鐘(けいしよう)を鳴らした。

「悠斗くん。昨日の答え、今ここで返させてもらうね」

 突然矛先(ほこさき)がこちらへと向き、僕は驚いて一歩退いた。何よりも昨日の返答といえば、間違いなく告白に対する答えであろう。真剣な眼つき、そしてこの状況で返答するという決心の固さ、僕はすぐさま逃げ出したかった。震える唇は緑色をしていただろうし、顔はさぞ青一色で染められていたに違いない。

 答えはもう分かっていた、あとはタイミングだけだというのに、そのタイミングが今ここに成立してしまったのだ。答えは聞くまでもないのに、だ。

 目の前で愛梨さんはゆっくりとしなやかに美しく、腰を折り曲げた。

「ごめんなさい」

 ……終わった。

 返答としては単純にして明瞭だった、そして想像通りのものだった。今この場で僕と愛梨さんの関係を一番明白に何でもないと決定付けるに最高の返答だ。昨日駅前で僕たちの姿を見たというのだから、愛梨さんはまだ女音が僕の告白を聞いていないという事を知らないに違いない。逆に僕が愛梨さんに告白したのを聞いたからこそ、こうも食いかかってくると思ったのだろう。

「え、え……昨日の返答って、え……ゆうちー、ねぇ、昨日のって何……?」

 女音は冷めきった空気をただ事でないと感じたのか、呆然と立ち尽くす僕の袖を引っ張って尋ねたが、そんな彼女を今すぐ振り払ってしまいたかった。

 血液がめまぐるしく循環して頭が熱くなった。沸々と湧いてくるのは怒りの念だ。もしかすると愛梨さんは良い返事を考えてくれていたかもしれない、しかし女音がいたために今こうして断ったのではないだろうか。情けない逃避の想像であったが、今はそれにしがみつきたくて仕方なく、あたかも真実であるかのように錯覚して自身に言い聞かせてしまった。

 その時の僕は、八つ当たりと理解しながらもただどす黒い悔しさにかまけて、さぞ激しい憎しみの目を女音に向けてしまったことだろう。そうでなければ彼女がああも怯える理由がありはしないのだから。

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