七
自分の単純さにはほとほと呆れる。昨日までの悩みもなんのその、一晩寝て起きれば待ちに待った日曜日の到来で、一日中愛梨さんと一緒という魅力に心はウキウキと弾みっぱなしであった。愛梨さんに何とも思われていないのだと諦念しきっていたのが嘘のように、胸は希望に満ちていた。
そもそも毎日が仕事と学校という二足のわらじで、とても普通とはかけ離れた生活を送っているのだ、友人と出かけるといった一般の学生らしい出来事があるだけでも気分は浮かれるというのに、それが愛梨さんと二人っきりともなれば喜びに心が弾まないわけがない。ましてや日々太陽を作るだなんて夢物語に振り回されているのだから、現実に引き戻してくれる愛梨さんはまさに女神そのものであった。
待ち合わせに現れた彼女は、いつもに輪をかけて美の化身となりえていた。白と藍のチェック縞のブラウスの上には、色白い肌を日光から守るように淡い萌黄のボレロを羽織っており、その袖口はラッパのように広がってフリルが縫い付けられている。高い位置で引き締まった艶めかしい腰からすらりと伸びた丈の長く細いスカートの丈下では、可愛らしい栗色のブーツが恥ずかしそうにこちらを向いていた。照れながら手提げ鞄を胸に抱く姿は、純然な輝きに満ちており、一目見て僕はあまりの綺麗さに、顔をこれでもかと赤く染め上げてみせたことだろう。控え目に隆起してみせる鎖骨がのぞけ、体全体がブルリと派手に震えあがって慌てて目線を逸らせた。これで模試でも県内で一桁に入るらしい頭脳を併せ持っているのだから、まったく非の打ちどころがない。
これだけ立派なお洒落をされたならば、一般男児であればどれだけマイナス要素があろうともデートを意識せずにはいられないだろう。そう考えたならふと、対照的に奇抜な恰好をしていた別の女性が頭を過った。比べることすら愛梨さんに申し訳ないような女だったが、昨日に喧嘩別れしたことを思い出し、無性に腹が立ってきた。なにもこのデートの前日に喧嘩を吹っ掛けた挙句、よもやデートの当日にまで脳裏に居座って不機嫌にしてくれることもなかろうに。今日だけは忘れたいという時に限って、頭の隅にこびりついて離れないものだ。
「悠斗くん?」
「あ、ごめんごめん。ちょっと寝不足でさ、今日のことを考えるとなかなか寝付けなくて」
「それよーく分かる、私も遠足の前日みたいに、年柄にもなく心が弾んじゃって、床に就いてからも中々眠れなかったの」
きっと眼つき悪く悪態をついてしまっていたのだろう、愛梨さんはそんな僕を心配しておどけてみせてくれたが、当の僕は申し訳なさとそんな自分に対する怒りとで頭の中は混乱していた。あまりに不安定な自分自身に小さな恐怖を覚えながらも、せっかくのデートだと心を持ち直す。
「それじゃ、行こうか。今日は日ごろの鬱憤を晴らそうと、息巻いているんだから!」
「あ、日頃の鬱憤なんてあるんだ」
「小さいところは突っ込まないでくれい」
一瞬場の空気が悪くなってしまったかと懸念したが、愛梨さんの人柄の良さゆえか、すぐにも明るいいつも通りの関係を取り戻し、僕たちは電車に乗りこんで目的地まで向かった。
今更ではあるが、休日に愛梨さんと一緒にどこか遠くに行く、というのは初めての経験だ。今までにも学校が始まる前にちょっと買い物したり食事したりという事は数える程度とはいえあったのだが、それもあくまで社交辞令の一環に過ぎぬような味気ないものであった。考えてもみれば学校が一切関わらない範囲で一緒に行動すること自体が前代未聞の大イベントであり、初めてがまさか電車で移動するような遠出になるとは思いもしなかった。こうして考えてみれば、まだまだ僕にも望みはありそうなものだ、女音の香水を指摘されただけで愛梨さんの気持ちを理解したつもりになって諦めるなど、早合点が過ぎかもしれない。
電車に乗ってからというもの、僕はどこか逃避行している気分になり、女音や教授たち、太陽の計画などは別世界の出来事のように感じて、怒りなど二度と湧き出ないかのように心の奥底に沈殿してしまった。
「普段あまり電車って使わないから、電車でどこかに行くってだけで、いつもと違う事をしているみたいに緊張してきちゃう。悠斗くんとだなんて、嘘みたい」
「あー、僕も愛梨さんと電車旅行なんて嘘みたいだと感じているところだよ。人生の運がこれ以後残っているのかと心配になるくらいに」
「またまた調子のいい事言って。でも、悠斗くんと一緒なのも、本の舞台に行くっていう経験も初めてだから、浮かれきりなの」
そう言いながら愛梨さんは、カバンから僕の貸した本を取り出した。先日読み終わったと言っていたが、もう一度読みたいからと貸したままになっていたのだ。それをペラペラと捲りながら色々なページを陽気に指さす。
「ね、ここのシーンの噴水って今日行くところにあるんだよね? 私このシーンに憧れていて、深夜の告白と同時にライトアップされた噴水が一斉に噴き出すっていう……こうやって文章で読んでいると想像力ばっかり刺激されちゃって、本物を見るのが逆にちょっと怖かったりもしちゃうね。ごっこ遊びがしたいだなんて言ったら悠斗くんもさすがに引くよね? でも本当、それくらいすっごく憧れているの」
目をキラキラと輝かせて言う様は、まるで子供のようで、そんなにも感動したのかと思うほどだ。僕にしてみればテレビドラマや小説でよくあるワンシーンにしか感じられないが、愛梨さんにすればそれは最高にロマンチックなワンシーンなのだろう。授業が始まるまでの合間、時間つぶしのために買い、休みの日に時間を持て余したことで思い出したように読破したものだったが、それがこんなにも僕と愛梨さんの仲立ちをしてくれようとは、偶然にしてはあまりに出来過ぎており、まさに僕たちは運命の糸で結ばれているに違いないなどと言っては、僕こそ笑われるだろうか。
しかしごっこ遊びだなんて言葉が愛梨さんの口から飛び出すとは思いもよらず、彼女の興奮の具合は相当なようだった。地に足が着いていない、あられもない一面を見たが、それがまた彼女の可愛さを引き立て、僕の心を強く強く締め付けて離そうとしないのだ。
「愛梨さんがそんなにも興奮するなんて意外だなぁ。同年代にしては大人っぽいだなんて思っていたくらいなのに」
「あはは、クラスのみんなには内緒にしておいて、悠斗くんの前くらいだから。でもね、私、このシーンをはじめすごく夜空に憧れるの。……ねえ、突然だけど、悠斗くんも大学進学を希望だったよね?」
「うん、一応は」
今から一年半ほど前、夜間学校に入学と同時に自己紹介があり、特技、将来の展望、働いている人は仕事などを紹介した。その時にほとんどの人が年齢を言っていたために、僕は唯一の同級生だった愛梨さんに目を奪われ、そしてその発表は一言一句逃さぬようにと耳をそばだてていた。愛梨さんも大学進学の旨を言っていたが、彼女までが僕の発表を覚えてくれていようとは、多少は気にとめてくれていたのかと有頂天になった。
僕の場合は学費を稼ぐために夜間学校へと通っている、いわばまっとうな夜間学校生徒だが――何がまっとうかと改めて問い質されては回答にあぐねるが――、よくよく考えれば愛梨さんは家柄も悪くなさそうで成績においても県内で一桁に入る秀才だ、にもかかわらずどうして夜間学校なんかに来ているのだろうかと、疑問が沸いた。
一年半もの期間、愛梨さんと一緒に過ごしてきたが、夜間学校という特殊な性格もあって、こういった将来や家庭についてはまるで禁忌のように話題にすることを避けていたような気がする。
そもそも今までよく話はしていたものの、無味乾燥な当たり障りない会話を交わしていただけに過ぎず、こうも急速に仲睦まじくなり、実りある会話を交わすようになったのはここ数日の話ではないだろうか。従来は仲は良いも話す機会が多い友人程度の付き合いであり、こうして一緒に遠くへ出かけるなど考えたこともない夢のような関係だというのに、現実に今それが叶っているのだ。
「確か愛梨さんも進学希望だよね? 愛梨さんのことだから、医学部とか目指しているの?」
「え、なんで悠斗くんも私の発表を覚えているの……なんだか恥ずかしい」
小さく照れ笑いした姿はいじらしく、悪戯心を余すところなくくすぐられた。
「うん、お兄さんがいるって言っていたのも覚えてる」
「ちょっと悠斗くん、もう。恥ずかしいから」
口先をすぼめて上目遣いに見られては、顔中が熱を帯び、心臓の運動が急激に速まっていく。
一人っ子の僕には到底分らないが、もし愛梨さんのような素晴らしい妹を持っていたなら、他の女性を見ても何も感じず、シスコンとなってしまうのではないだろうか。家でお兄さんに頭を撫でられている愛梨さんを想像したなら、羨ましさと嫉妬で心が焦がれてしまいそうだ。
「えーと、それで……正直なところ、将来なんてまだ想像もできないっていうのが本音かな。でも、血を見たりとか怖いから、医学の道なんて考えたこともなかったな。凝り性なところもあるし、研究職とかが向いてるかも」
「研究?」
医学の道に行きたいわけでないと明言したので、それならば昼間の保育園の事務仕事と関連して保育園の先生になりたいのかと推測したが、答えは予想の斜め上をいった。
「他には天文学とか、特に好きなの。お星様って、すごく夢とロマンが詰まっているじゃない、本当、子供っぽいだなんて笑われるかもしれないけど」
その一瞬、僕はどんなひどい顔をしてしまったのだろうか。いずれにしても愛梨さんの台詞が女音とかぶり、沈殿していた感情が再び心の中にみるみる広がっては、激しい嫌悪を見せていたに違いない。結局僕たちは改めて無言となり、残念なほど居辛い空気に包まれる羽目となったのだ。
もともと相性が良かったなどというと、自信過剰だと世の男性諸君からお咎めを受けるかもしれないが、現地にさえ着いてしまえば僕たちは時間が経つのを忘れて楽しさに夢中となり、いくつものスポットをめいっぱい語らいながら渡り歩いた。公園の中心にシンボルのようにある噴水はただ単調に水を噴き上げているだけであったが、際を歩けば虹色に光る霧雨が肌をひやりと涼しくさせたし、夜の指定された時間になれば水の演戯が始まるのだろういくつもの噴水口が随所に見受けられた。公園と道路の境目には、秋に似合わぬ鋭い日差しの太陽から地面を覆い隠すように立派な木々が立ち並び、それらに沿うようにレンガ畳の並木道が公園の一辺にまっすぐに敷かれ、デコボコとした地面は葉が重なりあう隙間から降り注ぐ疎らな光の雨により綺麗な影絵を演出し、二人で歩くには少し狭い一本道は小説さながら肩を寄り添って歩くしかなく、互いに顔を赤らめてゆっくりと一歩一歩大切に練り歩いた。木々の中でもひときわ大きく青々とした広葉樹の向かいには、車が三台しか置けないこじんまりとした駐車場を構える赤レンガ造りの風変わりなレストランがあり、一面張りの大きなガラスからは中の色めいた様子が覗け、小説で演じられていたように、ガラス越しに中と外で見合ったなら随分と目立って恥ずかしいに違いない造りだった。その他にも公園周りをぐるりと張りめぐらされている波状の格子柵から細長く高いスポットライトのような街灯に至るまで、小説と同じ点を見つけるたびに、二人して世紀の大発見でもしたかのように高揚し、はしゃぎ合った。
公園は想像していたものに輪をかけて広く、僕たちは本当の恋人同士が共有するような一体感ある時間を長々と満喫していた。一通り歩き終われば揃ってクタクタとなり、ベンチに座って日向ぼっこをしながら愉悦なる怠惰を貪った。
電車で帰る頃には時間は十八時を回っており、季節柄ようやく陽が落ちて暗くなりゆく頃合いだった。
「あ、ほらほら、一番星一番星!」
愛梨さんは今日一日は童心にかえったように無邪気にはしゃぎ、それがいつもの着飾った彼女ではなく、僕だけが知っている本当の彼女のように思えて心が激しく揺れ動かされた。藍色と朱色を混ぜ合わせた空模様の中、薄くぼやけた月と小さな星たちに囲まれ、僕たちは駅に降りる。
長く充実した日帰り旅行が終わり、これにて解散というところだろうが、僕の心は長時間を二人きりで過ごしたほとぼりが冷めず、今日この時こそは神が用意したもうた舞台ではないかと思っていた。いや、そうであると確信しきっていた。
「それじゃ、悠斗くん。今日は付き合ってくれて本当にありがとう。悠斗くんを元気づけるため……だなんて言いながら、私の方が楽しんじゃったね。またちょっと余裕できたり、いい所あったら絶対一緒に行こうね」
「うん。また機会があったら誘うから、くれぐれも断らないようにお願いするよ」
「任せておいて、次は悠斗君からのお誘いを待ってるから。それじゃ、また明日、学校でね」
「あ……愛梨さん、ちょっと待って」
僕は彼女を引き留めた。愛梨さんはこちらを振り返ると、疑問符を浮かべつつおどけて首を傾けて見せる。綺麗だと、心よりそう思った。
「今日は、本当に楽しかった」
「うん、私も」
「それで……その……」
もじもじとしていてもいけない、今この時、ズバリ言わなくてどうする。ずっと想い人であった彼女と、今こうして二人きりで満悦でいるというのに。無謀なことは分かっている。それでも本気の思いを今ぶつけずに、いつぶつける気だ。
駅前は時間帯も相まって非常に人通りが多かった。立ち止まっているだけで次から次へと通行人が背や肩に当たってくるが、張り詰めた神経はそれどころではなく、目の前の愛梨さん以外はすべて背景としか映っていなかった。
口の中が乾燥し、唾液でそっと濡らしたが一度呼吸すればあっという間に乾ききってしまった。血液が熱く滾り、渇いた咽には空気が詰まり、体温が高まって緊張はピークに達しながら、暴れる心臓を無理やり抑圧しては、ゆっくりと深呼吸と共に言葉を漏らした。
「愛梨さん、……好きです」
全ての雑踏が、消え去った。胸が空き、同時に真っ先の後悔、達成感よりも先んじたのはそれだ。愛梨さんは目を見開きながらまだ頭の中で僕の言葉を反芻しているのか、理解が追い付いていないように窺える。
今の状態でも十分に満足して幸せだというのに、この告白が原因でギスギスしく亀裂が入ったならどうしようか。存分にあり得るし、それが怖かったからこそ一方的なカップル妄想で我慢していた。なによりも一級品の美貌と頭脳を兼ね揃えた彼女相手だ、成功する可能性など皆無に等しいということは重々承知していた。
にもかかわらず、僕は今、分不相応にも彼女を好きだと告白してしまった。女音や教授方、次々に襲いかかってくる現実世界の非現実的な計画に嫌気がさして、それらから逃げ出したかったのかもしれない。彼女に癒しを求めたのかもしれない。僕を告白へと突き動かした衝動の正体は確かにそれらに違いないが、それでも愛梨さんを好きという思いは現実の本物なのだ。
彼女は困ったように眉をひそめていた。どこか泣きそうにも見え、表情は哀愁を帯びていく。口元は僅かに震えながらも、言葉が飛び出す気配はいっかなうかがえず、しばらく僕たちは無言で向き合っていた。
愛梨さんは一度顔を伏せて耳にかぶった髪の毛を払い、首を心持ち前傾にしながら上目遣いに僕を見据えた。赤く艶めかしい唇がそっと、ゆっくりと開いた。
「悠斗くん。どうしても今、返答が必要かな?」
「……いつでも大丈夫。待ってる」
辛うじて出た声はひどく震えており、僕が無理をしているのは明白だった。感情を表に現さぬよう普段通りを心がけたが、実際のところほとんど反映できていなかったに違いない。
しかし愛梨さんはそれに気付いた素振りなど微塵と見せなかった。
「とりあえず、考えさせてほしいの。いつになるとは言えないけれど……ごめんなさい」
「大丈夫、待ってるから」
返答とは無関係であるも、ごめんなさいだなんて言われたなら心がキリと痛む。震える声は、同じ言葉を紡ぐだけが精一杯だった。
数秒だけ互いに無言で見つめ合ったなら、愛梨さんは目を逸らすかのように頭を深く下げた。
「ありがとう、悠斗くん。うん、今日は、ありがとう」
言うと、逃げるように走り去ってしまった。
僕は雑踏に紛れ込む愛梨さんの背中を見送りながら、体中から一斉に緊張感が抜け去るのを感じた。
即答しないという事はつまり、僕のことが本当に好きという、明確な両想い関係には至らなかったという事だろう。しかしながら拒否されないところからすると、まだ可能性があるかもしれない。いや、無理と言わないのは僕を傷つけたくないという彼女なりの慈悲かもしれない。いつもの都合のいい解釈など介入する寸劇もなく、猜疑心はみるみる肥大していく。
十人いれば十人が綺麗と口をそろえるだろう相手だ、元より付き合えたとしても同情によるものしか望めなかったのかもしれない。
ネガティブに陥ってばかりいても仕方がない、勇気を出して告白した自分をまず褒めるべきだろうと自身に言い聞かせ、重々しい足取りで帰路につき、家に帰ったならえもいえぬ後悔から逃げるように布団へ潜り込んだ。