五
「……悠斗くん」
顔を向けると、そこには愛梨さんが心底心配そうな面持ちで僕を覗きこんでいた。
気がかりももっともだろう、現に僕は暗欝で、とても授業など受けられる心持ちではなかった。
「ねぇ悠斗くん、大丈夫? やつれているって言うか、なんだかすごく辛そうだけど」
「ゴメン、ちょっと疲れてるんだ」
まさか毎日が毎日、こうやって女音にとりつかれるとは思ってもいなかった。どころか日々進展していこうとする太陽作成計画に、正直気が滅入っていた。愛梨さんの気遣いも嬉しいには違いないが、いかんせんそれ以上に気持ちの下降が勝っている。明日には女音とK大学に向かうことが決定しているし、先だっての昼食からは延々と女音と母親の掛け合いを眺めていたのだから、心など何ら休まらず重く沈んでいくだけだ。結局僕が家を出る夕方までずっと、女音と母親は意気投合して談笑に入り浸っていた。
いっそ明日は直前で約束を破棄してやろうかなどと企みを巡らせながらも、一方で、家に帰ってからK大学の場所をネットで調べてプリントアウトして、名誉教授のいる建物や部屋番号をメモしておかないとだなんて下準備に思考を巡らす自分がいるのも事実だ。あえて自身を追い詰めていることを承知で事前準備を整えようとしているのだから、頭が混乱して鬱々(うつうつ)としてくる心境は分かってもらえるだろう。もっとも愛梨さんには、間違っても太陽を作ろうとしているだなんて知られるわけにはいかないが。
愛梨さんは突っ伏している僕に顔を近付けると、甘い声を出した。
「悠斗くん、もしかして、彼女とケンカでもしたの?」
体がびくりと震え、反射反応で顔を上げた。未来の彼女――あくまで予定だが――が今しがた口にした言葉が信じられなかった。僕に彼女がいないことなどみなまで言わずとも分かってもらえるだろうに、何を間違えばそんな言葉が飛び出すというのだ。
「いや、そんなんじゃないよ彼女なんていないって、いるように見えないでしょ?」
「嘘、その驚きようはいる反応だ。なによりも、甘い香水の香りがするもの、間違いない、これは女性の香りと見た」
なんという悲劇か、この日曜日のデートで、あわよくば恋人関係へ昇華できるのではと淡い希望を抱いていたが、僕の夢はあえなく両断された。それどころか嬉しそうに恋人の存在を明示してみせる愛梨さんを見て、僕に恋やそういった感情はなかったのだと否が応にも分かってしまい、うぬぼれていたのだと自覚せざるを得なかった。
期せぬダブルパンチにより、もうその日はノックダウン同然のひどい有様だった。全てどうにでもなってしまえなどと投げやりな気持ちで、一層の消沈具合であった。
次の日の寝起きは最悪、それでも馬鹿正直に女音との待ち合わせ場所である駅前に足を向ける僕はまったく情けない。平日の昼前ということで人々がゆるやかに往来する駅に到着すれば、すでに女音は到着していたようで、壁にもたれながらくせ毛をくるくると指に巻いて時間を持て余していた。面倒そうに歩く僕に気付くと、嬉しそうに両手を大きく振ってこちらに駆けてくる。
ああ、おそらく女音はくしの存在を知らないに違いない、そうでなければデートだなんて明言した今日この日にも女性らしさを感じさせないぼさぼさの頭で何の恥ずかしげもなく能天気な笑顔を振りまけるわけがない。昨日のように帽子をかぶっていたならまだ若干ましだった。今朝家を出る時、いやにハイテンションで「デートだってね、しっかりと頑張りな」だなんて茶化す母親に機嫌を損ねられたわけだが、部屋着ではあるまいにワンピース一枚だけというとても外に出るとは思えぬ恰好で佇む女音を見つけた時は、咄嗟に踵を返そうとしてしまった。腰元にはお洒落か趣味か知れぬベルトが両端を結ばれない無意味な状態でぶら下がっているし、その一方、肩紐に至ってはリボン結びで可愛らしくあしらっている辺りがちぐはぐだ。中に何も羽織っておらずやけに露出の多い格好からは、白く細い腕が元気良くすらりと伸びている。秋口の今となっては、半袖というだけでも少々目立つがそれをはるかに凌駕している。
女音が近付くにつれ、僕の引き返したい衝動はみるみる増長していく。何よりも驚いたのがその髪だ。いつもの無造作な跳ね毛でぼさぼさなだけならまだマシだった、あろうことか跳ね毛を無作為にリボンであしらっており、バランスなど考えていないので対称性を欠いたそれは、見ているだけでも違和感を覚えてもどかしくなる。女音が大きく手を振るたびにリボンは菜の花に止まった直後の蝶々ように、上下に弾むように揺れ動いており、よく見ればヘアピンも三つほど前髪を止めるためにつけられている。薄いレースでふんわりと繕われ、レモン色で眩しさを感じるワンピースに、肩から提げた半月型のクリーム色の鞄、黄色で揃えてきたのだろう簡潔な服装に対し、頭には黄色いリボンをあしらうとともに全ての調和を破壊しかねない赤いヘアピンが数本浮きたっていた。幼稚園児が描く絵のような無秩序な格好に、期せずして卒倒してしまいそうになった。お洒落に無頓着な僕から見ても、どうにもこのセンスはいただけない。日本中を渡り歩こうともこんな恰好の人間はいないだろう前衛的なファッションであり、どこか諸外国の正装だと言われたなら素直に信じてしまいそうなほど奇抜であった。
僕のネガティブ一直線の心情など露知らず、女音は両手をひたすらに振って反応が欲しそうに存在主張しているものだから、渋々力無い手をプラプラと振りかえしてやった。
「おはようございます」
「んーん、今来たばかりだからちょうど良かった」
いきなり会話が噛み合わず、僕の元気はみるみる間に擦り減っていく。女音としては「待った?」と聞いて欲しかったのだろうが、なにも違う事を言ったのに同じ返しをすることもないだろう。今日という日がいかに前途多難であるかを今更ながらにひしと感じながら電車に乗った。目的地まではおおよそ半時間だ。
電車での時間、女音は櫻井名誉教授に会ったならどんなことを聞こうかや、どんな人だと思うかなど、気持ちの高ぶりが冷め止まぬ様子でひたすらに絶え間なく話をしていた。かくいう僕は僕で適当に相槌を返しながら、これから向かうK大学の事を考えていた。
通っているのが夜間学校な手前、普通の高校がどういった環境かも知らないというのに、まさかそれよりも先に大学に足を踏み入れることになろうとは思いもしなかった。なによりも大学進学を心の底で望みながらも財政的に厳しい事情がある身としては、一種の憧れの地と言っても決して過言ではない。会社の奨励金の話で大学の存在がなまじ現実味を帯びたことが、なお期待感を膨張させて止まない。
「ほら、ゆうちー。次の駅だよ」
目の前に迫りつつある夢絵図の前では、時間の経過すら干渉を許されなかったようだ。ずっと呆としていた僕は、女音に上着の裾を引っ張られてようやく現実に引き戻された。
目的の駅で降りると、大学までは少し歩く必要がある。女音は初めての町に興味津々で、しきりに上下左右に顔を向けるばかりでまっすぐに歩くこともままならない。看板を確認しながら別の道へ進もうとするし、方向音痴どころの騒ぎではなく、放っておいてはどこぞに行ってしまうやもしれないと、手を取って引いてやるなら今度は顔中真っ赤にして俯いてしまい、すんとも言わなくなってしまった。こんな奇怪な格好の女音とペアで動くのは不本意であるが、ここまできた以上は嘆こうが喚こうが仕様が無い。
ふと、繋いだ手元から、ふわりと風が薫じて、女音が甘い香水をつけていることに気付いた。色気づいて見せようとしているのかしれないが、まずは恰好というかセンスから正さねば滑稽なだけだ。看板に従って少し歩けば、巨大な校門が僕たちを待ち構えていた。
大学については漠然としたイメージしかなかったが、何よりもその大きさに度肝を抜かれた。校門隣には守衛室があり、そこから一望するだけでも大きな校舎が十棟は見える。これがすべて大学のものであり、その奥にもまた同じようにいくつもの校舎が立ち並んでいるのだろうから、高校とは比類ないほどに異常な広大さだ。仕事先の工場ですら幾つ収まるかも知れない規模に、ただただ圧倒された。インターネットで事前に大学のキャンパスを把握したつもりでいたが、いざ現物を見れば想像を超える広さに頭の地図が上手く結び付かず、現在地ですら把握するのは至難の業だ。数多の人らが様々に行き交い、都会に建てられているにも関わらず至るところにある並木道、世のしがらみや界隈の喧騒とはかけ離れた、おとぎの国が広がっているような錯覚にとらわれていた。
いよいよもって校内に入ったならば、この上なく場違いな違和感が付きまとい、道行く人たちからジロジロと見られているかの不快感が袖を引いた。慣れぬ場所ゆえに過敏になっているだけだとも信じたかったが、実際隣の女音の格好はお洒落とは無縁な無粋簡素なもので、歩く姿は緊張してガタガタで、かつ背丈が及ばぬこともあって周囲から明らかに浮いている。僕は無数の視線に押し潰されるかの閉塞感に身を焦がしながら一直線に櫻井名誉教授の在籍する物理工学部を目指した。キョロキョロと周囲を見渡しながらコソコソと動く様は、都会に出てきた田舎者さながらで、世間知らずの小童であることは誰が見ようとも一目瞭然だろう。
物理工学部の建物に到着すると、まず事務室で櫻井名誉教授の詳しい部屋の位置を確認し、二人しておずおずと校舎の中へ歩を進める。初めは女音も緊張を紛らわせるためかひっきりなしに喋っていたが、次第に口数が減っていった。僕も返事を返す余裕がない程に緊張しており、とりわけネットで調べている時に、櫻井名誉教授は一匹狼でどこの協会や団体にも所属していない偏屈かつ異端の研究者と銘打たれていたのだから緊張するなという方がどうかしている。
目的の部屋の前に到着する頃には互いに無言となっていた。
『304 櫻井喜太郎』
扉の曇りガラスからはおぼろげに明かりが漏れており、本人が在室していることは窺えた。扉の前まで来ていながらしばし薄暗い廊下で躊躇していたが、女音は完全に萎縮しきって僕の背中に貼りついている。結局僕が動くしかないのだと、何も言葉を考えぬままゆっくりとノックをした。
「どうぞ」
返ってきたのは低く渋い声だった。かつ感情のこもっていない無機質なもので、それだけで肉食獣に威嚇された小動物のように僕たちは縮込み上がった。ピンポンダッシュさながらこのまま逃げだしたい野生の本能に抗い、必死に自制するとドアノブに手をかける。
「失礼します」
ドアを開けたすぐ手前には小さな長方形の机を中心に向かいあってソファーが設置されており、狭々(せまぜま)とした応接スペースがしつらえてあった。書物特有の埃っぽい臭いの充満する部屋は真ん中で一面カーテンにより区切られているため、向こう側がどのような間取りとなっているのかうかがい知ることはできないが、僅かな隙間から覗ける様子では大きな机が幾つも置きつめられているようだった。窓から入り込む光が薄いカーテンに透けて、奥に名誉教授らしき人物が座っているのは辛うじて判断できた。名誉教授は顔を見せることもなく影のままで、ペンを走らせる音を絶やさずカーテン越しに事務的な言葉を投げかけてくる。
「何の用かね?」
「あの、実はこのたび櫻井名誉教授にご協力いただきたいことがありまして、こうして直接伺わせていただきました。少しよろしいでしょうか?」
「ちょっと待ってくれ。ああ、そこのソファーに腰掛けていてくれて構わない」
「はい」
声を少し裏返しながらも、とりあえず第一関門は突破かとソファーにゆっくりと腰掛けたが、正面向けた目に飛び込んできた無数の参考書に圧倒されて、背筋を冷たいものが伝った。壁一面を利用した巨大な棚に、小難しい題名の本が何列にも所狭しと詰まっており、下のスペースには分厚いファイルが高々と積み重ねられている。名誉教授というだけあって、さぞ偉大な研究成果を残しているのだろう。
今更ながらに、どうして太陽を作るなどという馬鹿げた計画を話しようとここに来たのか、あろうことか正面から堂々と正攻法にて打診をしに来た自分たちの浅はかさに、激しい後悔が心中をかきむしった。極度の緊張が心音を早める、嫌な汗が体中を這いずる。喉がカラカラになり、姿を確認されていない今であればこっそりと部屋を抜け出しても大丈夫じゃないかなどと逃げることばかりを考えてしまった。
隣の女音に目をやると、彼女は彼女で目をぐるぐると回して、今にも倒れてしまいそうなほど顔を真っ赤にしながら唸り声を洩らしていた。櫻井名誉教授は彼女の最も苦手とするタイプなのだろう、実際に対面せずとも相性が悪いことは容易に想像できる。
しばしの間、ペンの音とキータイプの音だけがその空間を支配していた。息苦しさに僕も次第に顔が火照ってきて、まるで囚われの身であるかのように体が疼き出す。刑の執行を待つ囚人とはこのような心境なのだろう、思考を重ねれば重ねるだけ想像は悪い方向へと転移していくし、いっそ考えのすべてを放棄したいと願うも当然叶わず、幾多ものレンマに精神がどうにかなってしまいそうだった。
そこでペンが机に転がされる乾いた音が響き、僕と女音の背筋は同時にピンと伸びあがった。
カーテンに映る人影が椅子から腰を上げると、奥から顔を出したのは、皺のよった紺のジャケットに身を包み、白髪交じりの髪の毛をざんばらにした初老の男性だった。やせ細った体つきは骨格を露わにしており、とりわけシャープな頬骨の隆起は偏屈さの象徴と言わんばかりで、名誉教授の顔つきを一層厳しいものに仕立てていた。銀縁の眼鏡は鋭い眼つきを際立たせており、その眼は僕たち二人を見た途端に訝しげに歪んだ。
「……君たち、ここの学生かい?」
「いえ、僕はまだ高校生です」
「そうか、そうだろうね、見ても分かるよ。そっちの子は妹かい?」
指差して直接言われた女音だったが、反論どころか泣きそうに顔をしかめるとそのまま俯いてしまった。
気にくわない態度だ、僕は負けじと目つきを据えたが、名誉教授はいっこうに取るに足らないものを見るかの否定的な目線を止めなかった。僕たちの前にゆっくりと腰掛けると、「忙しいのだが」と前置きをした上で何の用かと聞いてくる。
「実は、このたび様々な研究成果を残されている櫻井名誉教授をインターネットで拝見しまして――」
「前置きはいいから、要件を言ってくれ」
あくまで高圧的に話を進めようというのだ。手足は震え、冷汗はどんどんと体を伝う。それでも負けじと眼つきだけは頑なに真剣に向け続ける。元よりこんな馬鹿げた計画について協力を求めようというのだ、この後に一体どれだけ馬鹿にされるか分かったものではない。後は野となれ山となれ、やけっぱち気味に震える声を出した。
「実は、僕たちはこのたび、太陽を作ろうと考えているのです」
流石にこの答えは意外過ぎたか、もしくは出かたを伺っている質問とでも思ったのか、櫻井名誉教授は眉をひそめて首をかしげた。
「太陽とは、あの、昼に姿を見せる天体のことかね?」
「はい」
僕の返事を聞くと、櫻井名誉教授は爪でカンカン、と机を鳴らした。
「計画書を出してはくれないのかい?」
「いえ、申し訳ありませんが、まだ……」
「資料は?」
「……申し訳ありませんが」
名誉教授は大きく溜息をつくと、机に肘をついて体全体を項垂らせ、厳しい上目遣いで僕たちをねめつけた。
「私の元に来たということは、水素ないしの核融合の原理を扱うシステムを期待しているのかもしれない、それ以外ではとてもではないが、太陽と私は結び付かないからね。いや、結び付けるのもまた、利口だとは言えないね。太陽ほどの膨大な質量からエネルギーまでを作り上げ、果ては人類が制御などできるわけがないというのが、私の見解だと前もって断っておこう。まぁ否定的に物事を捉えていては科学の発展など到底望めないことは承知しているし、それ自体は実に面白い試みだと思うよ。ただ、思いつきで行動するのはいただけない、専門家に任せればどうにかなるかなどと考えているのだろうが、そんなことに費やす時間は私たちにはなくてね。まずは君たちが勉強し、何が必要か、何をすべきなのかをしっかりと資料にまとめてからアポイントメントを取って私のところに来るべきだ。無知で興味の赴くまま遮二無二動くのは若々しく結構だが、私たちまで巻き込まないでくれ。研究にもお金がいる、自分で言うのもなんだが、こうして私が大学にいるというだけでもお金は発生しているのだよ。その時間をどうして君たちに費やすことがあるだろうか」
ズバリ言われた言葉は真に迫っており、反論の余地はなかった。しょせん僕たちはずぶの素人であり、とりわけ天体や宇宙に興味があるわけでもない。もっと言ってしまうなら僕に至っては太陽を作るというこの計画に対して興味すらないのだ。その上で青写真の一つも描かずに足を運んでくるのであれば、はね退けられてしかるべきだ。
そう、断られることは当然であるし想定していたことだが、あまりなものの言い方に素直に納得し辛かった。
口をもぞもぞさせつつも結局何も言えぬもどかしい僕の隣から、女音が必死に声を絞り出す。
「でも、でも……名誉教授サマ。夢は、常に現実に追いやられてしまうものではないでしょうか? どんな素晴らしい夢であっても、叶わず語らずいたならば、それはただ寝ているときに見るものと同じ、朝起きてすぐに意識のかなたへと忘れ去られてしまう何の価値もない夢ではないでしょうか?」
必死に口を動かす女音だったが、圧迫感から頭はほとんど働いていないだろう。この状況で何を言ったところで、けんもほろろに切り捨てられるだけなのは分かりきっている。
「だから別に協力しないと明言はしていない、ただ努力もせずに甘いことばかり口にするなと言っているんだ。夢を見るのは大いに結構、ただ現実の壁を取り払って下さいと私に懇願されても、こちらだって自分の夢ないし研究を成就させることで忙しいのだよ。他人の夢にかまけている余裕などありはしない、分かるね?」
「はい……でも、名誉教授サマはどう思いますか、この世界に太陽が二つできたなら! きっと素晴らしい、今までとは全く違う世界が広がっているんですよ?」
「太陽が二つできたらか、別に興味はないな、私の興味と夢はもっと別の分野に注がれているのだよ。どうなるかだなんて、知るものか。想定したいのであれば別の専門家に頼みに行くことだね、それは私の研究分野とは何の因果関係もない」
「でもでも……うぅ」
案の定鋭い言葉でばっさりと切り捨てられた女音は、歯を食いしばりながら、両手を膝の上で強く握り締めてぽろぽろと涙を流した。その悔しさは痛いほど良く分かった、女音は馬鹿なことばかり言うが、その何においても常に真っ直ぐ全力で向かっていくだけの愚直さがあるのだ。だというのに、名誉教授はそれを容易く踏みにじるのだから見ているこちらとしても気分の良いものではない。普段の僕の行いを棚に上げるつもりはないが、女音のことを何も知らぬ赤の他人にこうもひどい扱いを受けていては、気に障って堪らない。
しかしながら相手の言い分は至極まっとうであるし、自分たちがどれだけ世俗離れした馬鹿なことを口にしているかも承知しているつもりだ。世間一般などと大層な言葉を使うまでもなく、正しいは名誉教授であり、そもそもにして間違っているのが僕たちなのだ。冷静になればなるだけこんな馬鹿なことをしている自分に嫌気がさしてくるし、だからといってこんな扱いを受けたことに憤りを覚えてくるし、感情が混沌のるつぼと化した頭は今にも内側から弾けてしまいそうだった。
諦めるしかないのだろう。鼻をすすって泣き続ける女音が居た堪れなくなり、早く会話を切り上げてこの場を後にするのが適当だと踏んだ。
「そうですね、櫻井名誉教授の言う通りです。事前連絡もなく、いきなり僕たちの我がままに付き合わせてしまってすみませんでした。つきまして、最後に……もしよろしければ、櫻井名誉教授の他にカルストン=ディマティオのルクソン粒子によるエネルギー循環の研究、または似た研究をされている人を、ご存知でしたらぜひ紹介いただきたいのですが……」
櫻井名誉教授に協力はとても望めない、割り切って別の人を紹介してもらおうと尋ねたのだが、なぜか僕の言葉を聞いた櫻井名誉教授は信じられないといった驚愕の表情で口元を震わせた。
「……カルストン=ディマティオだって?」
「あ、名前間違っておりましたでしょうか、すみません。ただ、その研究と似た研究をされている方を――」
「どうしてそれを先に言わない!」
突然叫びあげると、机をドンと叩くものだから僕と女音は二人して驚きに飛び上がった。女音など泣く事も忘れ、目をぱちくりと瞬いている。
そんな僕たちなど相構わず、櫻井名誉教授は立ち上がると部屋の扉から廊下に顔を出して周囲を伺い、続いて扉の上についている小さな窓を閉めて戸締りを確認すると、改めてソファーに深く腰掛けて声を潜めた。
「いいだろう、手を貸そうじゃないか。老いぼれに何ができるか分からないが、極力協力することを誓おう」
僕たちは完全に呆気にとられていた。突然こうも対応が変わる理由が理解できず、あまりの反応の変わりように置いてけぼりをくった。
「え、どうして突然……」
「だから言っただろう、君たちの夢に付き合う暇があれば私は私自身の夢を追うと。つまりは数十年前からずっと抱いていた私の夢と、君たちの夢が合致した、そういう事だ。人生を捧げるつもりで協力することを約束しよう」
一瞬にして女音の表情が明るくなり、いつもの何も考えていないだろうはじけた笑顔を浮かべた。やはり女音はこうでなくてはいけない、あまりに上手く飛躍した話の運びように半信半疑であったが、女音の笑顔を見てまずは一安心した。
「カルストン博士の研究というと、ルクソン粒子によるものだろう? ルクソン粒子というものをご存知かね? まぁ知っていると豪語されても困るものではあるが、ルクソン粒子とは光速で運動する粒子の総称であり、そうだね、例を挙げるとするなら光子そのものだ。その他にも質量が存在しないという極めて異色の特徴もあるのだが、この研究ではとある状況下において分子と分子の特殊な衝突を誘発させ、莫大なエネルギーを放出させることで、そのエネルギーを利用して分子が一瞬間のみ疑似ルクソン粒子となることができる、と見ているのだよ」
ルクソン粒子や光子だなんて用語を使われてもピンとこなかったし、光速と言われたところでそれがどれほどすごいものなのか、さっぱり見当がつかない。
そんな上の空な僕たちを見かねて、櫻井名誉教授は声のトーンを若干落としながら、一度呼吸をし、改めて、今度はゆっくりと理解を求めるように話しだした。
「突然光速と言われても、それがどうしたかと思うだろう。しかし世の中には人間の常識では計り知れない世界がいくつも存在してね、例えば絶対零度、氷点下二百七十三・一五度においては、水はコップの壁を登るんだ。そんな想像もできないような現象が起こるのは、速度の最たるものである光速でも同じでね。光速で動く物体はその時間の経過が遅くなるんだ。俗称ではウラシマ効果というんだがね、速度の上限である光速においては時間が無限に伸長し、理論上では時間が経過しないこととなる」
今度は逆に、櫻井名誉教授の言っていることが理解できるからこそ僕は呆気にとられた。人間の科学がどれだけ発展発達しようとも抗えぬ時間という壁、ずっと時間というものは不変であると信じてきたというのに、科学の世界ではそれらを超越することすらできるというのだ。タイムマシーンであったり瞬間移動であったりと、SF世界の産物だと思ってばかりいたが、もしかすると世の中には本気でそれらを作ろうと研究を続ける科学者が五万といるのかもしれない。
「分かってもらえただろうか。ルクソン粒子がたった一瞬間だけ放出する膨大なエネルギーとチェレンコフ光、その一瞬間という何千、何万、いや、何億分の一秒は、現実世界における何千、何万、何億年に値するだろうか! 光速の粒子が持つエネルギーなど常識を凌駕する強大なものであり、普通であればとても我々には制御できないだろうが、ことルクソン粒子に限ってはその限りではない。粒子自体の時間が止まっているのだから、時間要素の考慮が簡潔となり、特殊な制御法となるが比較的容易に……と、少々込み入った話までしてしまったね」
まくし立てられて思わず理解が飛んだが、とりあえずルクソンという光速粒子の存在により、ほぼ永久かつ莫大なエネルギーを作り出すという研究に間違いはなさそうだ。
まだ上手く現状が理解できていないが、まさかの協力宣言にとりあえずはホッと一息ついた。女音も今では名誉教授を怖がる意識は払拭されたらしく、蕾が開花したような快活さで協力を歓迎している。
しばらくは喜びで満ちていた室内だったが、名誉教授も忙しいようで、チャイムが鳴ったなら慌てて立ち上がり、本棚に向かって次々と資料の用意をしだした。
「ああ、すまない。せっかくだけど次の講義があってね……残念だ」
「せっかく名誉教授サマと分かり合えたのに……本当残念です」
「わざわざ足を運んでくれて悪かったね。最後に、これを二人に」
そう言って差し出してくれたのは、櫻井名誉教授の名刺だった。
「メールアドレスもあるし、携帯電話の番号もあるからいつでも電話してくれ、歓迎するよ」
教授の世界でも蹴落としや責任のなすり合いなどがあるのだろう、初対面では完全に威圧してきた櫻井名誉教授だったが、いざ心が通じ合えば何かと協力的で良い人だった。最後まで笑顔は見せなかったし、口調にはどこか厳しさを残していたが、それがまた頼りある印象を強く植え付けて止まない。
「それと、一つだけ確認したいのだが……」
真剣な顔つきで、声をさらに小さくして僕たち二人にこっそりと語りかけてくる。
「この計画だが、他に誰か知っているのかい?」
「え、その……他の協力者として、N大学の早河教授がいるのですが……存じておりますでしょうか」
「聞いた事はあるな。その人は信用できるのか?」
「大丈夫です、何せ私の友達ですから」
自信満々に答えた女音を見て、名誉教授も納得したように首を縦に振った。
「他には?」
「今のところ、いません」
「そうか、だったらいいが……私の協力については、くれぐれも他言しないでくれ。いかんせん世間体というものがあってね、その早河氏にも、絶対に知らせないで欲しい」
凄みある剣幕に気圧されて、僕たちは頷くことしかできなかった。考えてみれば真剣に念押しするのは当然かもしれない、名誉教授ともあろう人だ、太陽を作る非現実的な研究に協力していると知れ渡ったならば、世間的にはもちろん大学からも良く見られない事は明白だ。櫻井名誉教授が一匹狼と揶揄されている背景には、こういった事情がかんでいるのかもしれない。
本鈴が鳴り響き、僕たちは名誉教授の部屋から追い出された。
新たな協力者を手に入れたはいいが、とんとん拍子の展開に頭の理解が追い付かず、僕は少しの間現実が信じられぬと呆然としていた。