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オトメと木星  作者: 等野過去
5/13

「悠斗くん、最近疲れているみたいだけど……大丈夫?」

 愛しの愛梨さんを心配させてしまうなど、世界中の男性諸君から非難ごうごうであろうが、事実僕の心は困憊(こんぱい)しきっていた。といっても毎日の仕事による純粋な肉体的疲労が原因でなければ、日々の仕事と勉学の板挟みから引き起こされる束縛時間による疲弊(ひへい)が原因でもない。太陽を作るなどという奇天烈(きてれつ)な集団組織に組み込まれた事、あろうことか大学の教授という素晴らしい人物までが快く計画に手を貸してくれた事、この二点から引き起こされる精神的疲労に尽きる。

 信じたくもない現実が、次第に空想と真実という相反する二つの要素を肥立(ひだ)ちさせて襲いかかってくるのだから逃げたくもなるが、この世から逃げようなど論外。じわりじわりと現実という鎖に巻かれて、気付けば身動きも出来ぬ無残な立場となり果てるのだ。

 その結果、僕は今こうして途方に暮れながら溜息と親密なお付き合いをしているのだ。愛梨さんの笑顔を見て癒されるも、口から出ようとする重苦しい吐息はひっこむ気配がない。

「何か悩み事? 私に何ができるか分からないけれど、相談に乗るくらいならできるよ?」

「本当に大丈夫、心配かけてごめん。愛梨さんに心配して貰ったらもう情けない顔もできないよ」

 太陽を作るなどという夢物語を打ち明けでもしてみろ、次の日から目も合わせてくれずよそよそしい関係になることは自明の理だ。愛梨さんの心配は涙が出るほど嬉しかったが、僕は口を(つぐ)んだ。それを見て相手も寂しげに視線を落とすものだから、心がチクリと痛む。

「うん……話せないこともあるだろうし、無理に聞こうとはしないけど……。そうだ、余計なお世話かもしれないけど、よかったら気晴らしとして日曜日にどこかへ遊びに行かない? ほら、この前宿題の見直しをした時に、機会があればこの借りは返さないとだなんて言ってくれたでしょ。この日曜日、付き合ってもらおうかな」

 思わぬお誘いに思考が停止した。むしろ隙あらば借りを返すなどというあからさまな理由付けの上で、こちらから誘おうと目論んでいたというのに……目の前の女性は天使か。僕の事を気遣って、あろうことかそのお誘いの引き合いに宿題を見せて貰ったことを出してくるのだから天使どころではない、女神だ。

 突如もたらされた福音を理解すると、体中は温かみを帯び、顔の筋肉が自然にほぐれた。

「ありがとう愛梨さん、僕で良ければ喜んでお付き合いするよ。ぜひ」

「やった、それじゃ決定。あのね、私この前借りた本がすごく面白くて、その舞台に憧れていたの。あれって電車で三十分くらいの近場だって知って、一度行きたいなって思っていて……というとこで、行き先も決定。絶対に一緒に行こうね」

 この状況下で現在の不遇を嘆けという方が無茶だ。僕は柔和な顔つきとともに、敬服のまなざしで愛梨さんを眺め続けたことだろう。感動のあまり、その後は明らかに浮ついた心境で授業を受けていた。

 授業はコンピュータについてのもので、比較的パソコンに強い僕にとっては唯一暇を持て余す授業となる。僕はコンピュータ室で教師の話を聞くふりをしながら、目の前のパソコン画面とにらめっこをしていた。日曜日のデートの場所、周囲の施設や食事場所を調べたりだの夢見心地でいたが、ふとページの隅にあるニュース速報に目がいった。

『△×社、太陽光の発電効率を実用的な水準に』

 別に世の中の科学技術にこれといって興味はなかったが、敏感にも太陽という単語に目が釘付けとなってしまった。こんな時くらい太陽を作るなどという馬鹿げた計画について忘れたい気持ちは強く、僕まで女音菌に毒されてきたかと不安に頭をもたげたが、深く考えることもせずに検索画面を開いた。そして早河教授に聞いた博士について調べようとしたところで、教えられた名前を忘失していることに気付き、渋々心当たりのある単語やそれらしい言葉を並べたが、これといって心当たりのある人物にヒットしない。

 仕方なく博士を直接検索することを諦め、早河教授の名前を調べるために、N大学のページを覗いた。ここでふと大学奨学金の話が頭をもたげ、経済学部とやらを探したが、N大学にあるのは経営学部だけであり、おおかたチーフが聞き間違えたのだろうと軽く考えておいた。いずれにしても今の僕では勉強に励む必要があることは動かしようのない事実であり、将来の展望もない身としては、経済だの経営だのと些細な違いにしか過ぎない。

 改めて理工学部の教授一覧から早河教授を探し出すと、再検索をかけた。

 そして授業中という事を忘れて声が出そうなほどに驚愕(きようがく)した。大学のページをはじめ、世界中のページが無数にヒットしたのだ。参考文献などでヒットしているものも多く、教授ともなればえてしてこういうものなのかもしれないが、それにしてもいくつもの執筆書籍によく見れば世界中の様々な褒章(ほうしよう)を授与された経歴までがある。一大学の一教授などと甘く見ていた僕は、思わぬしっぺ返しをくらった。

 そんな著名な教授と会話どころか、太陽を作ろうと共同しているのだから体中が恐怖にも似た感情で冷たくブルリと震えあがった。現実はヒタリヒタリと近寄って来ては、心安らごうとする僕をあざ笑うかのように恐怖を塗布(とふ)してくる。

 それでも気になってしまい、恐怖を増大させるだけだと分かっていながらも調べ続けてしまうのは、ついぞ興味ほど人を突き動かす要因はあり得ないという事を如実に物語っている。僕は教授の研究について詳しく掲載されているページをいくつか探し当て、順々に話してもらった研究を探してみた。

 球状に気体を散布させる何とかの原理を利用した方法で、十年以上前に行っていた研究と言っていたが……古さが原因か知れないが、残念ながら目的の研究は見つからなかった。いくつかページを見ていたが、一つとして該当する研究の概要は掲載されていなかったのだ。

 疑問符を残しながらも手詰まりとなったことで、ここら辺で太陽計画については忘れるべきだという神の思し召しであると判断し、改めて日曜日のデートの検索を開始した。


 夜間学校を終えると、帰り際には愛梨さんと日曜日の約束を確認し合い、ウキウキとスキップをしながら帰路についた。

 家で母親と適度に会話を交わしながら遅い夕食をとり、風呂から出てようやく一息つくと、パソコンの電源を入れた。

「早河、悟っと……検索」

 改めて早河教授について調べてみる。自分でも意外なほど凝り性なところがあるのかもしれないが、どちらかというと半信半疑な気持ちが強かった。というのも、本当に世界的に有名な教授なのだろうかと、あくまで誇張表現であって、よもや世界的に著名な教授が僕たちなどに手を貸してくれるまいと信じたかったのだ。

 しかし調べれば調べるだけ早河教授の優れた功績ばかりがヒットする。顔写真を見ても同一人物であったし、認めるしかないのだろうと音を上げつつ、同時に話してくれた研究について一切情報が出てこないことを懸念した。

 それでも根気強く、半ば研究については諦めながらも早河教授の関連サイトを漁っているときに、偶然にもその人が出てきたのだ。

「早河悟、尊敬する人物……カルストン=ディマティオ」

 間違いない、このようなイントネーションだったはずだ。ようやく目的の人物を発見した。いざ見つかればあっけないもので、何の変哲もないこの博士を今までどうして見つけられなかったのかと疑問を抱いてしまうのは世の常か。

 続いて『カルストン=ディマティオ』で検索をかけたが、これまた思いのほかヒット数は芳しくなかった。適当にいくつかのサイトを覗いてもみたが、次世代の研究に盛んに取り組んでいたなどと面白味ある言葉で装飾されているだけであり、ましてや研究自体が何十年と前のものだ、当時における次世代の研究とやらの成果がいかがなものであったかは、限られたヒット数を見れば明白だろう。英語表記で検索をかけ直したところで同様にヒット数は然程(さほど)振るわず、それどころかヒットしたサイトの大半がオカルト関係なのは皮肉だろうか。研究者はえてして若く死んだり謎の死を遂げる印象が強いが――個人的な見解だが――当のカルストン博士もその例外ではないらしい。とりわけ死亡日時や死因が遺族の希望から公にされておらず、そのために様々な尾ひれがついているようだ。自殺だの他殺だのと、どうにも日本人はこういった謎に対する憶測が好きらしい。

 カルストン博士について調べていけばいつか早河教授に当たるかと思ったが、先に当たったのは別の研究をしている人物だった。

櫻井(さくらい)喜太郎(きたろう)……K大学物理工学部名誉教授」

 K大学名誉教授、その言葉に目が惹かれた。検索してみると、どうやらエネルギー学の専門家のようだ、研究内容を見れば核融合やらプロトニウムやら、どこかで一度くらい聞いたことのある言葉がずらりと並んでいる。引き続き調べていくと、どうやらカルストン博士は様々な分野に精通しており、その研究のメインはエネルギー学だったようだ。

 しかしヒット数が少ないのだ、エネルギー学の専門家の中でもカルストン博士の研究を踏襲(とうしゆう)しているのは櫻井名誉教授くらいで、他はほとんど参考資料程度のぞんざいな扱いでしかない。とりわけ肝心の早河教授にしても、三十年ほど前における僅かながらの研究成果が残されているだけで、それ以後カルストン博士についての研究は全く行われていなかった。これでは以前の資料をひっくり返すだけでも一苦労に違いない。

 櫻井名誉教授に関しても同様に、原子力発電などの研究ばかりで、カルストン博士についての研究論文は数十年前に書かれた一つだけ、しかも何かの論文大会で発表したのか、ご丁寧にもすべて英語で書かれており、見たこともない専門用語で装飾され尽くしたそれを翻訳する意欲はさっぱり湧かなかった。

 それでも一瞥(いちべつ)すれば冒頭にカルストンの名が英語表記で出てきている辺り、かなり綿密に関係しているに違いない。僕は論文の題名に目を向けた。

「『Generation Principle of Permanent Energy with Luxon Particle』……えーと、世代の原則、永久的なエネルギーの、……なんだこれ、ルクソン? の塵……じゃないルクソン粒子か。初めの単語は世代の原則じゃしっくりこないな、これは生成原理っていう表現が適切かな? 『ルクソン粒子による永久的なエネルギーの生成原理』ってところか」

 訳したところでブルリと寒気がした。エネルギーといえば、ちょうど女音が太陽を作ろうと宣言した時に、僕が真っ先に突っ込んだ問題ではないか。そもそも早河教授が太陽について語ったとき、そのエネルギーは原子力発電と反対の原理だと言っていたか。現代の科学でも成し得られぬ原理と言っていたのだから、太陽を作る上で無尽蔵ともいえよう莫大なエネルギーの問題はまだなお解決できずにくすぶっているのだ。

 無限のエネルギーと永久のエネルギー、予期せぬ共通点は神の思し召しか。余計なお世話だと最大限の拒否権を行使し、逃げるようにパソコンの電源を落として床に就いた。


 次の日、目覚めるとゆっくりと曜日を確認する。間違いなく本日は水曜日、工場での仕事が休みの日だ。学校は土曜と日曜が休日、工場は水曜と日曜が休日なので完全に休める日は日曜日だけであるが、水曜日は限られた朝寝坊できる曜日だ。構わずに僕は二度寝をしたが、すぐにも携帯電話が鳴り響いて床から重い腰を上げる羽目になった。

 会社から支給された携帯が鳴る以上、出ないわけにはいくまい。目をこすりながらブツブツと文句をごちて携帯を手に取り、画面で電話相手を確認したなら、そこには不機嫌に拍車をかけるかの人物名が表示されていた。

「……もしもし」

「あ、おはよーゆうちー。ちゃんと起きているんだね、えらいえらい」

「お陰さまで」

 今しがたまで寝ていた事実を語ってはどことなく情けないように感じ、負け惜しみを言いながら怒鳴りたい気持ちを抑え込む。せっかくの仕事休みだというのに、どうしてこんな時にまで女音の声を聞かねばならぬのだと大きな溜息が口を突いて出た。

 起きがけで彼女の声とテンションに対応するのは、地獄の責め苦以外の何ものでもない。

「それで、電話なんてかけてきて、どうかしたんですか?」

「どうしたじゃないでしょ! 工場に来たのに、ゆうちーがいないから心配しているんだから」

「そうですか、それはそれは水曜日にまでご苦労なことですね」

「あ……水曜日? あー、そういえばそうだ!」

 実のところ、女音がこうして休みを勘違いして電話をしてきたのはこれが初めてではない、それどころか一ヶ月に一度はこういった事態が起こるのだ。いつか怒鳴ってやらねばと思いつつ、ついつい怒れずじまいだ。そもそもにして、普通であれば休みを区切りとして一週間の予定を立てようものであるのに、その休みを忘れるというのだから、よほど休みの日にやることがないのだろう、もしくは何も考えていないかのどちらかだ。悲しいのは答えが後者であろうことか。

 今朝も安眠を妨害された憤怒に身を任せて怒鳴ってやりたい気持ちは山々であったが、言うだけ無駄だろうという考えが先行し、結局は早く電話を切って改めて床に就きたいという結論に至った。

「それじゃ、気を付けて帰ってくださいね、さようなら」

「ちょっと待ってよ、だって、私ゆうちーに今日も会う気でいたのに、会えないだなんて寂しいんだから!」

「知ったことですか、明日があるからいいじゃないですか明日で」

「ゆうちー、今日は夕方まで暇ってことよね? そうよね、今まで寝ていたんでしょ、ゆうちーのことだもん、声聞けば分かるよ。だったら今日はゆうちーの家に行くね、うん、例の計画についても話したいしさ、わぁ、初めてのゆうちーの家だ、楽しみー」

 人の話を聞かないどころか、人の意見すら聞くつもりのない言葉に顔面蒼白となったことだろう。眠気と血の気が一斉に引き揚げる。僕の憩いの水曜日、ひいては憩いの場所を守らなくてはならない。

「待て、待ってください聞いてください女音先輩。僕の家は駄目ですよ、母親もいますし、部屋もちらかっていますし」

「ええ、だからお母様にもご挨拶をしないとね。私のこと気にいってもらえるかな? うん、お部屋だって綺麗さっぱり片付けちゃうんだから、任せておいて! えへへー、ね、なんだか夫婦みたいじゃないの、ね」

「違う、そうじゃなくて片付けなくてもいいし挨拶などもってのほかで……何よりも先輩、僕の家知らないでしょう?」

「大丈夫、ゆうちーの履歴書見た時に知ったから。早座間町(はやざまちよう)の二の四でしょ? もうそっち向かっているから、あと十分もすれば着くんじゃないかな」

「え、えええ?」

 女音の頭のどこにそんな微細な物事を収納できる記憶力があるのだ、予想だにせぬ特技の披露に敗北感が脳の節々より滲み出し、混乱は加速していく一方だ。

「私ね、以前一度話して貰ったお母様のハンバーグがすっごく気に――」

「あの、先輩、おい、おいって!」

 なんという事だ、話をしながら己で電話を切るなど正気の沙汰(さた)ではない。いや、それよりも十分後には来ると言っていたか、着替えて部屋を掃除して、寝癖を直す時間はもうないか……いや、それよりなによりまずすべきことがある。

 僕は慌てて部屋から飛び出ると、一階でゆっくりくつろいでいる母親に大声で叫んだ。

「母さん、今日の昼はハンバーグにしてくれ、一人分多く!」

 母親は片肘をついて寝転んだまま大きなお尻を二回ほど叩き、顔をテレビに向けながら声だけを返した。

「珍しく休みの日にまで朝早く起きてきたと思ったら、なーに言い出すんだい、今日はハンバーグの日じゃないだろう。あんたがハンバーグ好きなのは知っているけど、二人分も食べたいんならファミレスにでも行ってきな」

「違う、知り合いが、母さんのハンバーグを食べたいって女が来るんだよ!」

「嘘つくんじゃないよ、あんたの人生において友達を呼んできた試しなんて、あろうことか女の子だなんて夢を見るにしてももう少し現実的な夢を見ればどうだい、実際の自分と比べたなら悲しくなるばかりだから。決まってそういう子が少年犯罪とか起こすんだってね、ああ、くわばらくわばら。そうさね、女の子を呼んできた日にはハンバーグだけじゃなくて赤飯でも炊かないといけないかもしれないね」

「赤飯なんていいから、お願いだからハンバーグを頼むよ時間ないんだから!」


 ものの十分もしない内にインターホンが室内に鳴り響き、僕は着替えただけの押っ取り刀で玄関の扉を開けた。

 信じたくもない現実が目の前には存在していた。

「実は電話したときにはこの辺りにいたんだけど、さっぱり迷っちゃって……ちょうどそこの道歩いてたおばちゃんに、教えて貰ったの」

「会社から来たにしてはやけに早いなと疑問に思っていましたが、先手の返答ありがとうございます。とりあえずどうぞ上がってください」

「失礼しまーす!」

 親にどうこう言われる前にさっさと二階の自分の部屋に上げてしまおうかと催促したが、女音が何食わぬ顔でいつもながらに大きな声を張り上げたなら、女性の声に過剰反応した母親はまさに電光石火(でんこうせつか)、滑り込むように居間から玄関へと登場した。

 母親は余程目の前の現実が信じられないのか、まばたきすら忘れて女音を凝視していた。彼女はいつもの跳ね毛ばかりのだらしない髪形を隠すかのようにニット帽をかぶりながら、真っ白いワンピース……はひだが何重にもひらひらとしており、どちらかというとドレスという方がピンと来るような服をだらりと着飾ったちぐはぐな格好をしていた。間違いなく一緒に街角を歩きたくはない格好だ。会社に行ったと言っていたが嘘だろう、曜日を間違えたなどと理由を捏造(ねつぞう)して、初めから僕の家に乗りこんでくるつもりだったのは格好を見れば明白だ。

 女音は母親に見つめられ恐縮しきって表情を強張らせたが、両手でそれぞれスカートの裾をちょこんとつまむと、ゆっくり深々と頭を下げてみせた。

「お母様はじめまして、わたくし悠斗くんと一緒に働かせてもらっております、佐竹女音といいます。悠斗くんとは毎日仲良くお付き合いさせてもらっております」

 一体何のキャラクタの真似だろうか、目が点になった母親の横で、僕も目を点とした。というか半歩引いていた。かつぜつが悪く、独特のイントネーションを持つ女音では、丁寧な言葉を口にしても陳腐(ちんぷ)なだけだ。

 女音はそんなこちらの事情などお構いなしに目をキラキラと輝かせながら、両手を合わせて母親へ向かって笑顔を満開とさせた。

「まぁ、素晴らしいお母様ですね、わたくしの想像通りだわ! それもそうよね、なんといっても悠斗くんのお母様だもの、わたくしが好きにならない道理はないけれども、ただわたくしを気に入っていただけるのかが気がかりだわ」

「……」

 固まりきっている母親にはこれ以上の接触は酷だと判断し、女音を早急に玄関へと引き上げると、そのまま階段を押し上げて自分の部屋へと運搬した。部屋へ押し込めたところでようやく、二人して大きな息を吐いた。

「ああ……どうかな、お母様に気に入ってもらえたかな、変な子だって思われたんじゃないかな……まったく気が気じゃないんだから」

「多分両方とも大丈夫ですよ……残念ながら」

 僕は知っている、母親は女音のようにどこもかも抜けきっている少々おかしな子が大好きなのだ。絶対に女音と母親は相性が良いという事を承知していたからこそ僕は今までできうる限り二人の接触を避けていたというのに……しかもあの挨拶をされたのでは、女音の事を彼女かそれに近い存在だと勘違いしたに違いない。後で訂正するにしても、階下で隅に置けないな、などとニヤリほくそ笑んでいる母親を考えると、現状における僕のくたびれ具合は溜息以外ではどうやっても表わせそうになかった。

 とりあえず母親のことは忘れるとして、やけにいじらしくしながらもじもじと部屋を見回す、たいへん不快な女性をどうしてくれようか。

「それで、今日は何用ですか?」

「え、何用って……えっと、例の計画の話よ、例の計画」

「ああ、そうでしたよねそうでしたよね」

 例の計画か、そのために無理やりな理由が出来上がって母親と女音を邂逅(かいこう)させる羽目(はめ)になったのだと思うと悲しさのあまり目端が僅かに潤んだ。どれだけ夢物語に大わらわとなればいいのだろうか、どれだけの犠牲を払えば気が済むのだろうか。

「あ、やっぱりパソコンがある、パソコン。情報収集なら、まずはパソコンよね」

「どうぞ電源を入れておきますから、自由に使っていてください」

「ゆうちーは?」

「寝る」

 何か言いたそうな女音を放っておいて、僕はベッドにごろんと寝転んで背を向けた。パソコンの中の(いや)しいファイルやらなんやらを整理したい気持ちも山々だったが、女音がちゃんとパソコンを扱えるとは考えられない。精々ネットをするのが関の山だろうと目を(つむ)る。

 ふと甘い香りがし、先ほど女音を二階へと押し上げた時に彼女の香水がついたのだと気付いた。香水だなんてまた似合わない真似をするものだ、甘い香りとカチカチと鳴るマウス音を聞きながらまどろみに身を任せ、うつらうつらとしていた。

「ゆうちー、木へんに貝を二つ書いて、その下に女でなんて読むの?」

「ん? 木へんに貝が二つ……? ……あー、それはサクラだ、櫻井って名字のことだろ……!」

 寝ぼけながら言葉を紡いだが、ふと正気に戻ると起き上がり、一目散に女音を押しのけてパソコンに向いた。

「どうして履歴なんて見てるんだ!」

 慌てて女音の手からマウスをひったくると履歴を消去し、怪しげなサイトの入り乱れるお気に入りも隠した。女音は相変わらず分からない、住所の事といい、油断していると足元をすくわれかねない。

「いいよ、僕も手伝おう」

「やた、やっぱり私とゆうちーは一緒じゃなくちゃいけないわよね。それで、櫻井さんってどなた?」

「K大学の名誉教授だそうですよ、早河教授に教えて貰ったカルストン博士を調べていたら……いや、違う違う、ただ興味があって調べてみただけで別に太陽を作ることを調べていたつもりはなくてですね……」

「んふふー、分かった分かった」

 女音はこの上なく嬉しそうに、絶対に分かっていない特大の笑顔でうんうんと頷くと、櫻井名誉教授について検索をかけた。やはり大学とエネルギー工学に関する研究がヒットする。すぐにも彼女は検索ワードにカルストンを加えると、再検索してテキパキといくつかのページを開く。

 そしてその内の一つ、リンクの文字の色が変わっていて、僕が開いた形跡のあるページをクリックすれば、そこには大きく『Generation Principle of Permanent Energy with Luxon Particle』と書かれていた。

「なんて書いてあるの?」

「ルクソン粒子が形成する永久的なエネルギーの原理とかそんな感じです」

「へえー、永久的なエネルギー! 永久とか永遠ってすごく夢が詰まっている言葉だと思うの、特に永久のエネルギーだなんて、前にゆうちーが私に言ったのもエネルギーの問題だったわよね、これってすっごく運命的だと思わない?」

「……そうかもしれませんね」

 ぶっきらぼうに答えた僕のことも照れ隠しにしか見えないのだろう、女音はまるで隠していたお菓子を見つけた子供のように意地悪く勝ち誇った微笑を強くした。

「んふふー、分かってる分かってる」

 言いながら改めてK大学のページを開くと、尖らせた口先に指を当てて悩み始めた。

「ゆうちー、今日は夜間学校あるんだよね?」

「ありますね」

「うーん、お昼のハンバーグを外すことはできないし、かといって夕方までに戻ってくるとなると昼以降にここを出たんじゃちょっと難しいし……ね、この日曜日に一緒にK大学へ行くのはどうかな?」

 馬鹿を言うな、この日曜日にはとっておきの愛梨さんとのデート――あくまで主観だが、客観的に見てもそう表現して間違いないだろう――が待っているというのに、何ゆえ太陽を作るなどという素っとん狂な計画のためにそれを断念せざるを得ないのか。

 例え天変地異が起きて明日が来ないとしても、この日曜日だけは空けておかなければならない。

「いや、日曜日はいけないでしょう。……その、やっぱり日曜日は電車とかも混みますし、そう、大学や教授も休みじゃないですか?」

「あっそうか、じゃあ……早いに越したことないし、明日にしよっか。ね、有給まだ余っているでしょ? やた、明日ゆうちーと一緒にデートできるなんて思うととっても楽しみなんだから!」

「ちょっと待て、待って下さい明日いきなり休みますって無理ですって、有給は三日前には言えって入った時に注意された……」

「大丈夫大丈夫、私がなんとかするからゆうちーは心配無用。それよりも櫻井名誉教授、あー、どんな人かしら、すっごく楽しみなんだから!」

 何が悲しくて貴重な有給を太陽を作る夢物語に費やし、かてて加えてその休みにまで女音のお守りをしなくてはならないのだ。なんとしても避けたい所存ではあったが、経験上知っている、こうなった女音は何を言っても聞きやしない。

 僕はこの散々な結果に深く項垂(うなだ)れ、ただ一つ、今日のようなあべこべな格好で明日会う事がないようにと切に祈った。

 階下から、やけに弾んだ声で母親が昼食が出来たと呼んでいた。

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