三
「愛梨さん。話していた本だけど、どうぞ」
「さっそく持ってきてくれたんだ、ありがとう」
ただ本を貸しただけでそんなにも感謝されるとは、男心を鷲づかみにする要所を的確に弁えている。静かな水面に小石を投げて起こる波紋のように、自然でありながら静謐でなだらかな歓喜の面持ち。こんな素振りを見せられて心が動かぬ男性など皆無に違いない。口元をすっかり緩ませた蕩けきってしまいそうなあどけない笑み、僕ごときにもこれほど素晴らしい表情を作り上げれるのだなどと悦に浸りながら、気がつけば彼女に魅了されているのだ。付き合ってもいない相手にすらこんな素晴らしい面目を見せる彼女に対し、嬉しさと感謝、そして誰もにこういった喜び方をして見せるのだろうというちょっぴりの嫉妬心をかき立てられた。この感情こそがすでに彼女の虜となってしまった証なのだろう。
「さっそく今夜から読んでみるね。ドラマがすっごく話題になっているし、今から楽しみだな」
「急かさないし、ゆっくりと読んでくれればいいから」
「私こういうの駄目なの、結構凝り性なところがあって……パズルとかもやり始めると一夜かけてでも完成させないと気が済まないから、くれぐれもはまらないように注意するね」
「これがきっかけで愛梨さんが睡眠不足になったなら、嫌がらせしたみたいで良心が痛むよ。睡眠だけはしっかりとお願いするよ」
「約束できないかも……だから悠斗くん、今日出た宿題はよろしくね」
「あー、これは貸したの失敗したかもなぁ」
「えへへ、もう返しませんから」
清楚で品のある、それでいて作り上げたものではなく心から氾濫したように自然と滲み表れる笑顔、見る者をも無意識に綻ばせる。ちょっと子供っぽく言って見せるその言葉から仕草のすべてがとりあえず可愛い。優雅と可愛さという男性の心をくすぐる要素を余すところ無く持ち合わせているのだ、誰もが心を揺るがすのも存分に納得できよう。
まったく、この素晴らしき女性の爪の垢を煎じて、どこぞの女にも飲ませてやりたいものだ。切実に。
「ねぇゆうちー、例の話になるんだけど、適任者が見つかったの」
「は?」
嬉しそうな顔でどこぞの女は前振りもなく突飛な発言を繰り出した。こういう時は、決まって厄介事に巻き込まれる前兆だったりする。
しかしここで反論をしては、話が長引き仕事が増えるだけの不幸な顛末を迎えることが容易に予想できる。往々にして適度に流しながら話相手をしてやるに限る、そして仕事をさせる方向に無理やり結論を誘導してしまえばいいのだ、などと浅はかな目論見を抱きながらもわざわざ会話をしてやる辺り、僕の内部にはふんだんな母性本能が宿されているようだ。女音はこの言動から友人など皆無であろう、そんな惨めな彼女を放ったらかしにできないのだ。我ながらなんと素晴らしい心遣いだろうか。
「私の友達にね、丁度いい人がいたの。これってまさに運命的じゃないかな、どうかな、ゆうちーもそう思わない?」
いきなり前言撤回、友達がいるそうだ。この敗北感は何だ、この悔しき感情は何だ。えもいえぬ悲壮感をかみ殺すと、何食わぬ顔で会話を続けた。
「そうですかそうですか、それは良かった。僕も嬉しいですよ」
「だよね、わわ、そう言ってもらえると私だってどんどんと嬉しくなっちゃうんだから! だからね、ゆうちー。今日の仕事が終わったら夜間学校までちょっと時間あるよね。そのちょっとの時間でいいから私の家に来てくれないかな? ぜひぜひ紹介したいの」
「女音先輩の、家にですか?」
「んふふー、家って言っても恥ずかしいくらい小さな社用のアパートだから、そんな素晴らしい豪邸や宮殿を期待されても駄目だけど。ね、いいでしょ?」
瀟洒な建物などとても期待してはいないが、それ以前に部屋へ男を誘うということがどういうことか分かっているのだろうか、いや、きっと何も考えていないのだろう。これが愛梨さんの誘いであれば迷う寸隙なく即座に肯定しただろうが、今回は相手が相手だ。さりとて僕は健全なる一般男児であり、相手は腐ろうとも女性であるのだ、年頃の女性の部屋という甘美な響きはまるで僕の脳髄をちくりちくりと刺激しては、やむを得ず向かわなければならぬかのように思考を強制しようとする。いや違う、男女などという性別は一切関係なく、ごく一般的な興味として、このたがのはずれた女性の部屋というものが気になるだけなのだ。
とりあえず、寄り道の時間を作るなら定時の十六時に仕事が終わることが前提となる。
「だったらいつものように時間を延長してまで仕事をしてられませんね。定時に終わったなら、一時間くらいなら構いませんよ」
「やた、それじゃあ昨日と同じくテキパキと仕事片付けちゃうんだから。ゆうちーもいつもみたいにのんびりしていちゃメ、だからね?」
だから僕は今この場で話している時間も少したりとも手を止めていませんとも、あなたと違って。だからガッツポーズは作らなくてもいいし、復唱もしなくていい、さっさと手を動かすんだ。
しかしよくよく考えてみると、何の用があれば僕を部屋に呼ぼうという気になるのだろうか。もしかして部屋に入った途端襲われるのではなかろうかなどと心配もしたが、運動とは無縁の僕であっても女音との取っ組み合いに負けるほど非力でもあるまい。いや、誰かを紹介したいと言っていたか。ところが僕には誰かを紹介されるいわれがない。
なるほど、大体のあらましは掴めた。とどのつまり理由にもならぬ言い訳を並べて僕を誘い出し、部屋で両親に会わせる算段なのだろう、まったく油断も隙もあったものではない。僕は今一度脳裏に愛梨さんを浮かべ、その人を裏切ることができないと確固たる決意を胸に強く抱きながら仕事に没頭した。女音の両親がなんだというのだ、いくら女に縁がなかった僕とはいえ、絶対に靡いてなるものか。
そんな事を冗談交じりに考えていたが、改めて思えば女音の両親とは一体どのような人物であるのだろうか。女音が奔放で夢見がちな性格そのままに大人になった姿を想像したなら、背筋を蟻走感が駆け抜け、恐怖のあまりすぐさま考えを頭の奥底へと追いやって、慌てて仕事に戻ることとした。
「こんにちは悠斗くん、私はN大学理工学部応用化学科気体流動学専攻で教授をしている早河悟です。はじめまして」
瞬時に思い出した、太陽を作るという話だ。というか大学の教授と女音が友達だなんておかしいだろう、十歩引いて知り合いと言うべきだ。きっと女音の頭の中では出会って二三言交わせば友達認定に違いない。いや、それにしてもそもそもにして何故こんなお偉い教授と繋がりがあるのだ。N大学と言えば先だって僕に奨学金の話がもたらされた時に、条件として提示された、あの県下でも有数の大学ではないか。
女音に案内されて社用アパートに入れば、内装は想像以上に簡素に片付いていた。女音のことだから有らん限りに散らかし放題かとも思ったが、むしろ小ざっぱりとしており、いくつかある抱き枕やぬいぐるみに女性らしさを感じるくらいだ。唯一、服や下着が無雑作に干してある辺りに女音らしさが覗けた。タンスや鏡台など無縁なようで、物の少なさときたなら男の僕ですら眉をひそめるほどだ。そんな簡素な部屋で教授は、丸テーブルに肘をついてまるで自宅のようにゆっくりとくつろいで僕を待っていた。頭髪は若干白髪交じりであるが、頬の肉は削げるどころか豊満で艶があり、面構えを司る幾重もの皺は恵比寿様に倣っていて、教授の人の良さを如実に表していた。声も非常に朗らかであり、生涯において怒ったことがあるのだろうかと思うほどに優しさがあらん限りに滲み出ている、第一印象としては最高の人であった。
予想だにせぬ人物の登場に、僕は半ば呆れてその場で固まり、途方に暮れた。
「いや悠斗くん、素晴らしいと思うよ太陽を作ろうだなんてね、見上げた気概だ。そう、やはり人たるもの夢を見て生きていかなくてはいけない、科学の発展だって元をただせばすべて夢物語のようなもの、携帯電話の無かった時代にどこでも誰とでも話ができるだなんて言ったならきっとSF映画の見過ぎだなんて歯牙にもかけられなかっただろうからね」
「ちょっと待って下さいよ早河教授、思いついたのは、発案者は私ですよ! ゆうちーは代表者兼責任者です!」
「ああ、そうだったのかい。失礼失礼」
いや、失礼も何もそもそもにしておかしなこと尽くめだ。教授ももっと僕たち一般人、ひいては全人類のためになることに研究時間を費やしていただきたい、何が楽しくて妄想癖者の詭弁に教授までが付き合わされなくてはならないのか。
しかも今しがた、女音は僕のことを責任者だとか代表者だとか不吉な単語で言い表さなかったか。どうしてそんな馬鹿げた計画の中心人物に、僕が据えられなくてはならないのだ。
「えっと、早河教授……でしたか。協力はありがたいのですが、協力といっても、僕たちは本当にまだ動き出してすらいない状態ですから、とても早河教授のお世話になるには及びません。特に女音先輩がどうやって教授を説き伏せたのか知りませんが、教授だって自分の研究で忙しいでしょう……」
できるだけ温和に、相手の気を立てぬように逃げ道を提示したつもりだったが、逆に教授は目を輝かせて僕に向いた。
「何を言っているんだい! 仮に君たち二人で考えたところでどうやって前進していくんだい? 私のことは気にしなくてもいい、最近は夢のある若者がトンと減ってしまったことを日々嘆いていてね、正直この計画を聞いた時は嬉しくて堪らなかったほどだ、何よりも……こんな可愛い子に協力を頼まれて断れるわけないじゃないか」
「まあ早河教授ったら、お上手なんだから!」
博士の大きな手に頭を撫でられながら、女音はまんざらでもなさそうに頬をだらんと緩める。駄目だ、女音は想像以上に媚を売るのが上手いらしく、また年配受けがいいようだ。幼げな彼女と教授を傍から見るかぎりでは、一歩間違えれば祖父と孫の家族と見まごうばかりであったが、だからこそなまじか美形女性よりも距離感を近く感じさせるのだろうか、教授もとても嬉しそうに話をしているし、しまいには二人して肩を組み合う始末だ。
とても数学や科学とは縁のなさそうな女音だが、直情的で夢見がちな性格がもたらした教授との好相性に、僕は若干引いていた。やたら工場のチーフも女音に甘いがなるほど、歳がいった人たちの受けが非常にいいという簡単明解な答えが目の前に出ていた。
「そうそう早河教授、だからちょっと研究について、ゆうちーにお話しいただけないですか?」
「そういえばそうだったね、よし」
するとまたもや教授は目をギラギラと輝かせて、僕の前でどっしりと腰を据えた。女音とのやり取りがきいているのか、興奮冷め止まぬ様子で鼻息を荒くしている。
「さて、今回私に補助をさせてもらえるのであれば、それは太陽という星ないし巨大な球状の形成という部分に当たる。知っての通り星は自転と公転をしながらほぼ球状なわけだが、そもそも頭の中ですら考えることもままならぬ飛び抜けた大きさの球をどのようにして作り上げるのか、という点だ。たとえば我々が今立っているこの地球も当然丸いわけだが、赤道の長さがおよそ四万キロと言われて悠斗くんはその大きさを漠然とでも想像できるだろうか?」
「いいえ、地平線はおろか水平線を見ても遥かに遠く霞んでいるなというくらいで、遠近感なんてありませんし、とても大きさが想像できるようなものじゃないです」
「だろう、それこそが計算やシミュレーションの得意とする分野だね。それで今回使用するのは一昔前に私がやっていた研究になるのだが、カルストン=ディマティオ博士が発見、提唱した『カルストンの原理』というものがあってね。ああ、それよりも先に、まずは星の要素について説明する方が先かな。悠斗くんは太陽系について、地球をはじめとする惑星を太陽に近い順に述べられるだろうか?」
「はい、水金地火木土天海冥……で良かったですよね?」
小学校の頃に習い、響きが面白くて暗記してしまったものだ。隣で女音はまるでよその言語を聞きでもしたかのようにポケと口を開け放っているが、特に気に掛けずに早河教授の反応を待った。
「そうだね、もっとも冥王星だけは惑星の定義から外されてしまったが、今は別の話だから割愛しようか。そして、その中で火星より太陽に近い星、つまり水星、金星、地球、火星を構成する主な要素は、岩石など固体なんだ」
「はぁ……」
星が固体でできている、当然のことを改めて言われてもピンとこない。火星や金星の表面写真などを教科書で見たこともあるから、性質は違えど土や岩といった要素から構成されているのは考えずとも分かりそうなものだ。何よりも今僕たちが生活している地球こそこのように大地で形成されているのだから、わざわざ説明されずとも直観的に理解できよう。
「一方で、木星よりも遠い惑星に関しては、気体や氷から形成されている」
「気体……ですか?」
大地や岩でできている星であれば、想像に難くない。氷で形成されていると言われてもまだ辛うじて想像できるが、気体と言われたならとても想像が及ばない。
小学校中学校と天体の勉強は大がつくほど嫌いであったので授業の内容であったりは記憶に乏しいが、意見を聞きながら会話を進展させていく教授の手腕が実に長けており、正直なところ僕の興味は程良くくすぐられて、すっかり会話にとりこまれてしまっていた。
「気体でできていて、どうして教科書なんかに載っているような綺麗な惑星ができるのか、ちょっと分かりかねます……。何よりも、惑星というとどうしても固体から形成されているイメージが強くて……」
「そうだろうね。でも、よくよく考えてもらえないだろうか、教科書に月や火星の表面写真は掲載されていただろうが、果たして木星や土星の表面の写真は掲載されていただろうか?」
なるほど、言われてみると確かに月のクレーターが映っている写真や、火星表面で探査機が動いているような写真は見たことあるが、木星や土星に至っては模様や輪に焦点が当たるばかりで、表面がどのようになっているのかは取り上げられていなかったように思う。
「そして結論から先に言うと、太陽も気体でできており、そのほとんどが水素で形成されているのだよ」
太陽は表面が炎で覆われており、プロミネンスやコロナといった現象は記憶にも残っているが、水素でできていると言われてようやく、同じ内容を中学校の理科の授業で習ったことを思い出した。
しかし水素でできているとパッと言われても、石のように形の思い浮かぶものではないし、ましてや水素がどういった性質のものかも知らない。水素エネルギーや水爆など耳にするからには、そうとう大きなエネルギーを生み出すことができる気体なのだろう、漠然とそう感じるだけだ。
いや、こと水素に関しては、その巨大なエネルギーを生み出す、という点が大切なのかもしれない。
「太陽のエネルギーは、水素が作っているということですか?」
「おや、若いのに随分話が早いじゃないか。つまり太陽は自身を形成するその水素を消費することによって、あれだけ巨大な熱のエネルギーを生み出しているのだよ。今しがたちょうど半分くらい消耗していて、あと五十億年後には太陽といえど、寿命を迎えるのだが……それはいいとしよう。そしてその水素によって作られている星というのは、実は太陽だけでないのだよ」
面白そうに言われたが、あまりに規模が大きすぎてどれくらい面白い話を聞かされているのかが、今一つ掴めない。僕は真剣な眼つきだけを残して、頭には疑問符を無数に浮かべていた。
「つまるところ、宇宙には太陽と同じ要素の星など何億個も存在するのだよ。そもそも君たちは、太陽はこの世に一つだけの特別な星だなんて思っていないだろうか? 太陽というのは、宇宙という未知の領域に存在する……そうだな、仮に宇宙を地球規模に例えるのであれば、局部超銀河団という『地球』の中にある、局部銀河群という『国』の中にある、銀河系という『地域』の中にある、太陽系という『家庭』の一大黒柱が太陽に過ぎないのだよ。この世にどれだけの家庭があるだろうか、そのそれぞれに大黒柱がいるのだから太陽だって一家庭の父親というだけで何も特別な存在ではなく、極論となるが宇宙という括りで見れば、我々の地球と同じ一つの星に過ぎないのだから。そう、同じ水素という要素から成り立っている星を身近なところで挙げるならば、木星がそれに当たるくらい他の星たちと大差はないのだよ」
「木星が太陽と同じ、ですか?」
そもそも木星など、樹木でできている星でなければ緑色に輝くというわけでもなし、ただ太陽系で一番大きい惑星というだけのイメージしか持っていなかった。しかしその実態は、なんと太陽と同じ性質を持つ星だというのだ。
「でも、木星は恒星ではないですし、炎をあげているわけでもないですよね?」
「ゆうちー、恒星って?」
「ああ、余計なところで口を挟まないでください、光る星ってことですよ!」
興味深い話に水を差され、蔑ろに扱ったなら女音は大きく頬を膨らませてプイと横向いてしまった。しかし僕にとってそんなことはどうでも良く、好奇心を埋める方が先だ。
「そう、木星はそれでもなお、大きさが足りなかったのだよ。太陽は水素をヘリウムに変えることで莫大なエネルギーを作っており、これを核融合というのだがね、いわば原子力発電とは真逆の原理によって成り立っているのだが、木星ではそれが成立するには単純にサイズが及ばなかったのだよ。それはそうだ、核融合は今なお二十一世紀のエネルギーとして期待されながら、我々の科学力をもってしても実現できていない特殊なものなのだから、太陽のような質量を持たずして簡単に成立するものではないのだ」
また一つ思い出した、確か太陽はその七割以上が水素であり、残りのほとんどがヘリウムであると理科の教科書には記載されていたはずだ。早河教授と会話をしていると、まるで歴史を紐解くように記憶が呼び起される。もっとも、ヘリウムといわれても風船に使われるくらいだから空気よりも軽いということは容易に想像できるが、その他には吸い込むと変な声が出る程度のイメージしか湧かない。
しかしこのように改めて考えてみれば、太陽でなくとも気体でできている星が存在することは中学校より教えられてきたはずだったが、いざ立ち止まってイメージしようにも僕の乏しい想像力が及ぶ範囲ではなく、まだなお太陽が特殊な星であるから気体でできているだけではないだろうかという固定観念は抜けきらなかった。
「木星と太陽が同じ構造でできているだなんて、とても想像が及びません……。つまり、木星を肥大化させることができれば、太陽を作ることが可能……という事でしょうか?」
「あら、木星が太陽になるだなんて、すごく夢のような話じゃない! だったら私たちの地球だって、頑張れば太陽になれちゃうのかしら?」
「女音先輩、とりあえずもうちょっと黙っていてください」
木星と太陽の共通点から導かれる可能性の話をしているというのに、人の話を聞かずに、ロマンありきで語れるところにだけ喰いつかれては進む話も立ち止まらざるを得ない。
「私もさほど詳しいわけではないがね、それでも木星が太陽ほど大きい星となったならばきっと、もう一つの太陽となる可能性を秘めていただろうね」
木星から太陽を作る、そんな型破りとも思える方法があるなど全く予期していなかった。現存する惑星が太陽になり得るなど、子供がいつか大人になって一家の大黒柱になるように、人間同様に星もそれぞれが別の性質を持ちながら、根本的な部分では星という同一の括りであり共通するものがあるのだ。太陽が親で木星が子供だなんて、まるで漫画の設定のようだ。
「と、まあ話はしたが木星のことはひとまず忘れてもらおうか、今回は一から太陽というものを作るのだろう? 木星を肥大化させるのであれば私の研究とは随分と方向性が違うので、別の専門家を頼ってもらうしかない。さて、そこでようやく本題に戻ろうか。先ほど話に出した、私の研究でもある『カルストンの原理』についてだが、その原理では真空状態のもとであれば、特定の気体を望む濃度で球状に凝縮させることができるのだよ。常に所望の濃度を形成するのだから、それに少し衝撃を加えたならば気体は次々に連鎖して動いては疑似的に回転をはじめ、理論上ではまさに自転と相違ない状態を作り上げることができる。つまり、その気体に水素を適用しさえすれば太陽と同じ要素を有する球状の物体が形成される……と、ここまでは大まかに分かってもらえるかい?」
「ええ、大まかにであれば……」
さすが教授ともなれば研究の話になった途端に身振り手振りを加え、心のこもった演説を見ているかのようだった。つまびらかに研究の話をされても当然さっぱりだろうが、ゆっくりと話題を転移していってくれたお陰で、僕でもどうにか話の内容についていける。
ここで目線を女音に移したが、彼女はこのての話は完全に僕に任せきっているようで、眉をひそめながら片手でくせ毛をくるくるといじって教授を眺めていた。ふと僕の方を向いて目が合うと、何度と黙っていろと注意したことを根に持っているのか、頬を膨らませながらツーンとそっぽを向いてしまった。
「しかしながら、元来の研究ではソフトボール程度の大きさまでしか証明されていないんだ。当然だ、太陽ほど巨大な物質を作る必要がなければ、誰も作ろうなどと考えない、そもそもそんな地球の何百倍の大きさのもの、とても発展のさせようがない。もっとも原理上は無限大に大きな球を作り上げることができるし、巨大になればなるほど自らの重力によって形は崩れにくく安定していくはずだから、成功することは間違いないと思われるが……とりあえずはシミュレーションをやっていこうと思う。えてして理論と現実は異なるものでね、シミュレーションが果たしてうまくいくかどうか、まずはそこからだ」
真剣な眼つきで握手を求められたその瞬間、僕は奈落の底へと突き落とされたかの錯覚に陥った。まるで女音という病原菌が僕の周囲で繁殖し、一人一人の脳髄を侵食していくのだ。そして気付いたら女音思考の人間ばかりが僕の周りに出現するのだ。新手のウィルスでさえはだしで逃げ出すほどおぞましい感染力に、ただただ唖然とするだけで抵抗のすべはない。
すぐに頭を振るって意味不明な幻覚を振り払うと、教授の握手に恐る恐る応えた。
「いかんせん研究自体が何十年も前のものだからね、昔のデータの中から扱えるシステムを探したり、そのシステムを改良するだけでもかなりの時間を要するだろう。仮に太陽ほどの大きさの作成に成功したとしても、それから数万年と球状を維持できるのかや、現実の宇宙空間においても適応可能な理論であるかの検証もせねばならないし、色々と錯誤する問題は山積みだ。そうだな……とりあえずシミュレーションの成功如何を返答するにも、最低一ヶ月は覚悟しておいて欲しい。実際やってみたなら年単位でシミュレーションの必要があるかもしれないし、現状ではどれくらい時間が必要そうかは語れないな」
なるほど、シミュレーションというものがどのように行われるのか知る由もないが、膨大な準備と時間が必要なことくらいは大まかにも理解できる。最低一ヶ月といったが、それはあくまで太陽ほどの大きさを作成するのが『理論上可能』だと証明するまでに有する時間といったところだろう、結局は先ほど教授自身も言われた通り理論と現実は異なるわけだし、第二段階である『シミュレーション上で可能』なことを示すだけでも何年と時間が必要に違いない。
少なくともあと二年もすれば僕は高校を卒業し、大学に進学しているはずだ。たった数年で完成する実験でないことを考えたなら、とたん肩の荷がどさりと落ちた。そうか、あえて時間がかかる旨を強調するのだから、教授だって本気で太陽を作り上げようなどとは考えていないのだろう。いざ冷静に考えてみればそうに決まっている、押しが強くて人の話を聞かない女音に渋々付き合っているだけなのだ。
教授と心が通じ合った旨を僕は心底喜び、握手する手を強く握り直した。
「いえ、何年もかかる作業になることは我々も重々承知しております。焦らなくて結構です、僕たちは待つことしかできないのですから、教授のペースで自由にやってください」
「ありがとう、理解を示してもらえると多少なり気が楽になるよ。その上で、しっかりと頑張らせてもらおう」
僕たちは言葉を交わしたことで互いの目的が一致していると承知し、抱擁して互いの苦境を分かち合った。教授も女音と知り合いだったばかりに大変ですね、いやいや君こそ仕事の同僚ひいては後輩というだけでこんな事に付き合わされていて同情するよ。教授の思考が手に取るように分かる。
「ああ、男同士の素晴らしい友情だわ……そう、そのつがいはやはりロマンであってよね、ロマン。ちょっとちょっと、私もその中に入れてちょうだい」
飛び込んできた女音を渋々輪に加え、三人で円陣を組むような形となった。外見上は三位一体と映るだろうが、実際のところ僕たちと女音との間には超えることを許さぬ深い断絶が存在するのは間違いない。僕と教授は決して真剣なわけではない、一般人として一般的な思考を持っているのだ。
……そのように割り切れたならばどれほど良かっただろう。早河教授は素振りだけで真面目に取り組もうとしていないと、僕自身がどれだけ捻くれた自己暗示をかけようとも、教授本人の真剣な眼つきは都合の良い自己解釈による逃避を一切許さなかった。
大きな溜息とともにちらと脇目で時計を窺ったなら、夜間学校へはとても間に合わぬ時間を指していた。