十二
「オーイ、悠斗いるか?」
「あ、はい」
突如工場レーンのチーフに呼ばれ、仕事の手を止めると、何事かと懸念に駆られた。呼ばれることなど一カ月に一度、給料明細を貰うときだけだ。それがこんな時期に呼ばれるとなれは、否が応でも先日の事件が絡んでいるのではないかと深読みしてしまう。
「……ん、なんだえらく真剣な面持ちで」
「いえ、何か不祥事でもやらかしたかと思いまして……」
「はっはっは、そりゃ余計な心配ってもんだ、悠斗の働きように文句はないよ。ほら、先月の給料渡した時に話した件、覚えているか?」
「忘れるわけがないですよ、大学への援助を会社がしてくれるという話ですよね」
「それだそれだ、結果が出たかと思ってな」
昨日の件で何を言い咎められるか、親会社の娘を危険に晒したなどとのたまわれて、最悪クビになるくらいは覚悟していたのだが、強張った肩は途端に軽くなった。あまりに身構え過ぎていたようだ。
しかし突然そんな話題を振られても、ただでさえ昨日までの現実離れたした出来事が尾を引いて頭がぼんやりしているというのに、英断を望もう方がどうかしている。
慌てて取り繕うのが精いっぱいだ。
「はい、あれからずっと悩んでいるのですが、中々決めかねていて……」
「だろうな。たった今、S社の社長直々のお呼び出しがかかったんだよ。俺の想像じゃ、直接お前を口説こうってハラだろうな」
昨日にあんなことがあったばかりだというのに、いけしゃあしゃあとそんな提案をされても困るばかりだ。チーフは僕の手に、スルリとクレジットカードを滑り込ませた。これでタクシーに乗って、早急に本社に来いという事だろう。言いたいことは分かるが、それにしてもタイミングと急さが過ぎる。
大きな溜息を吐きながら仕事場へ戻ると、女音は暇そうに机に腰掛けて綾取りをしていた。
「あ、おかえりゆうちー」
「おかえりじゃなくて、仕事してくださいよ……」
「ほらほら、四段ばしごー」
今までは幼く見えるだけかと思っていたが、いざ十三と聞けば敬語で話するのも些か気がひけた。それでも昨日の予期せぬ一方的な暴露で女音の扱いを変えてしまうのも癪に障り、結局しこりを残しながらもいつも通りのやり取りを繰り返すだけだ。時間が経てば次第に当然のように慣れていくだろう。
いつもと変わらぬ調子の女音に大きな溜息を吐きかけてやると、それが嬉しいとばかりに相手は口元をほころばせた。
「いきなりチーフに呼ばれちゃってさ、こっぴどく叱られたんじゃないの?」
「そうかと思って覚悟を決めて行きましたけれど、違いましたよ。良かったやら悪かったやら……そもそも先輩のお父さんは何を考えているんですか? いや、社員を教育するのはいいことだと思いますよ、だけどバイト同然の僕にまで教育をしてくれるなんてどうかしているんじゃないですか?」
「ああ、大学の話? いいじゃん、受けなよ」
「女音先輩も知っているんですか……」
当然誰もにそんな優遇を適用するわけがない、どうして僕に白羽の矢が立ったか知れないが、この幸運を払いのけるのもいかがなものだろうか。奨学金を取りたくても取れぬ人がいるように、ただでさえ財政的に厳しい僕の家庭を見越しての処置と思えば、尚更むげに断るのも惜しい話だ。
昨日までの出来事とは対照的に、あまりに現実的なことに頭を悩ませている自分に違和感を覚え、期せずして笑みが漏れた。いっそ昨日までは夢だったと笑い飛ばしたいほどだった。
「というわけでですね、僕は本社に呼び出しを受けたんで行ってきますから、後はお願いしますね」
「了解、それじゃ私は有給使って今日はお休み……っと」
「……いえ、まぁそれでいいですが」
二人して手早く作業服を着替えて工場を出ると、道沿いには早くもタクシーが待ち構えており、僕は渋々と後部座席へ体を入れ込もうとした。
「ゆうちー、S社の本社だなんて懐かしいね」
体を半分タクシーの中に入れたところで女音が声を出したものだから、その体勢のままで顔だけをくるりと回した。運転手には申し訳ないが、本社へ向かう気が乗らぬ僕は最後の抵抗とばかりに話に喰いついた。
「懐かしいだなんて、工場勤務募集のチラシを見て、筆記テストを受けに行った記憶しかないですよ。面接はここの工場のさびれた応接室でやりましたし」
「やっぱり……。ゆうちーさ、本社にテストを受けに行く時、女の人に道案内したの、覚えている?」
「道案内?」
言われてみると、そんなことがあった気がする。これから就職の筆記試験に向かおうと駅から降りたところに、試験会場であるS社のパンフレットを逆さまに持ってまごつく女の子がいて、気になって声をかけたなら案の定行き先が同じであり、ついでだったから案内がてら一緒に向かったのだ。
「そう言われるとありましたね。どこから見ていたんですか?」
「だから、それが私なの!」
言われてもピンとこない、何せ試験前で少なからず緊張していたし、一年以上前のことだ、やけに小さい子に道案内をした程度の曖昧な記憶だった。
しかし櫻井名誉教授に会いに大学へ向かった時、看板があるにもかかわらず明後日の方向へ向かおうとしたのだから、パンフレットの地図をくるくると回しながら悩む姿が女音だったと言われたならいやにしっくりときた。
「ゆうちーったら、積極的に私の手を取ってくれて……本当に道に迷って困っていて、泣きそうで、そんなときに手を差し伸べてくれるなんて、すっごくすごく嬉しかったんだから! 試験を受けに行くゆうちーを見て、ぜったい一緒に仕事がしたいって心から思ったものよ」
「なんだか理不尽ですが、僕がどうして面接中に採用を言い渡されたのか分かった気がします。女音先輩って、僕の家の住所の時もそうでしたが変なところで記憶力いいですよね」
「……ゆうちーのことだけだもん」
まさかいじらしそうにそんな言葉を投げかけられるとは思ってもおらず、目を見張ったが、目の前で女音は朱色の顔を俯かせてもじもじとしているだけだ。むず痒く感じた僕は、咄嗟に余計なひと言を付け加えてしまっていた。
「あれから一年以上経つんですね……で、女音先輩って身長伸びました?」
「んもぅ……いじわる」
女音は頬をふくらませてプイッと横向いてしまったので、会話が途切れ、僕はいよいよ覚悟してタクシーに乗り込んだ。この調子では女音も一緒に来る気かと懸念したが、やはり父親に会うのは気まずいのか、いつの間にやらしぼませた頬を赤く染めて、小さく手を振ってお見送りをしてくれた。
「行ってらっしゃい」
「なんの真似ですか、それ」
まるで家族かと、気恥ずかしくて素気無い返事を返すとドアを閉めて、運転手にS社へ向かってもらうように伝えた。
車に乗りながら目を瞑ると、うとうとと、うつつになりながら今一度この平穏に違和感を覚え、昨晩の事を回顧していた。
あの後、サングラスをかけたいかにも裏の筋関係だろう人たちによって、愛梨さんと早河教授、そして徹博士は取り押さえられた。
しかしその場において、徹博士だけはナイフを突きつけられて震えながらも、しわがれた声で反論を続けていた。このまま絶対に研究を続けさせないぞと。取り押さえている者がダガーナイフを彼の喉元にあてがいながら、どうしますかと女音に聞いたが、女音は何も言葉を出せなかった。
掠れ掠れでいながら腹の底から絞り出した命の宿った声に、兄の暴挙を必死に止める愛梨さんの悲痛の叫び声。室内は耳を塞ぎたいほど騒然となり、緊張の糸が張り詰めていた。一歩間違えれば人が死んでしまうのだろう、あまりに現実離れしている、それでいて明確な恐怖に怯えながらも、兄を守ろうと必死に主張を繰り返す愛梨さんがまた痛々しくて息が詰まった。僕など人が傷つくかもしれないと思うと迂闊な言動をとれず、ただ情けなく体中を震わせて全員が無事でいてくれることを祈るだけが精一杯だった。
そしてとうとう女音は観念し、櫻井名誉教授に謝りながら、研究はもうこれっきりで打ち切ると信念を折った。好奇心で触れてはいけない領域であることは、重々承知していた。だからこそ夢やロマンが溢れていたのだろうが、徹博士にとっては命を賭けてでも看過できぬほど重大なことだったのだ。人が命を失う事にロマンも何もないとは、その時の女音の言葉だ。
「いやいや、謝らないでくれ。この歳でまだなお夢を見させて貰ったことに感謝したいくらいだ。一夜限りの夢だったのかもしれない、それでも老体にはちょうどいいくらい、いや、これでも刺激が強すぎるくらいの夢だった」
櫻井名誉教授は僕たちに気を使ってか、それでもさっぱりとした顔でそう告げてくれたことは救いだった。言葉とともに、最後には初めて屈託ない笑顔を見せてくれた名誉教授は実に理解があり、男振りが良かった。出会った当初よりかなり難しい人であり、怒られたり不機嫌にしてばかりだったが、ここにきて優しさを見せられては、感謝のあまり女音はわあわあと泣き出してしまった。
早河教授についてはなるほど、そもそもN大学自体がS社そのものと深い係り合いが存在したのだ。工学分野をリードするS社自らが、共同研究や財政的援助を行っている大学こそがN大学であり、女音が今計画を打ち立てるとすぐに早河教授とコンタクトをとれた理由がそんなところにあったのだ。どこで教授と繋がりを持っていたのかや、どうして理学や天文学の人ではなく工学系の教授なのかと疑問だったがようやく氷解した。だからこそ僕が奨励金を貰う上で、会社から推されている進学希望大学もN大学なのだ。一連が繋がればなんとも簡単なことだった。
愛梨さんと早河教授は一度捕まえられはしたが、女音が協力を無理強いさせられていたのだと黒服に度させればそれ以上の危害は加えられず、今回だけはと難を逃れたが、さすがに徹博士まではそうもいかなかった。
女音が何を言っても取り押さえている人たちは聞く耳を持たず、主犯格ともいえよう徹博士だけは厳しく痛めつけねばと、断固として譲らない。
しかしそんな最中、突然女音は僕の方を向いた。
「ゆうちーはどう、あいちーのお兄さんはそんなに痛めつけなければならないのかな? ね、私たちがもう太陽を作ることを諦めたんだから、二度と手を出すはずがないじゃないの。なのにどうしてこの期に及んで暴力的に解決しないといけないのか、さっぱり意味がわからないと思わないかな?」
僕の希望はこれ以上物騒なことが何も起こらず、穏便にこの場を済ませることだった。徹博士にしても私利私欲ではなく、人類の行く末を慮った上で強情となっているのだし、何よりも痛めつけるというなまじか生易しい響きは取り押さえている人たちと相まってあまりに非現実的で、その片棒を担ぐかのように推薦することは憚られた。
首を振る僕を見て、女音は力強く頷いた。
「ほら見なさい、私だけでなくゆうちーだってそう思うそうよ。なのにどうしてあなたたちはこれ以上ことを荒だてようとするの? 私たちは見ての通り無傷なのに、どうしてそうも強情となる必要があるの?」
そう言ったなら、彼らは驚くほど潔く身を引いて徹博士を解放した。
こうして僕たちは二度と太陽作りに関わらないことを誓って、名残惜しくも団体を解散した。まあ解散と言っても、また機会があれば個人的に会って食事くらいしたいし、一年後くらいには同窓会のように皆で集まりたいとも思っている。あれだけの苦楽を共にした仲間じゃないか。もっとも愛梨さんと女音に関しては、これからも毎日といっていいほどしげく顔を合わせるのだから名残惜しむ必要もなかったが。
しかし……最後まで一つ、分からないことがあった。女音をこんな工場に追いやっており、かてて加えて女音自身も言っていたように心配の素振り一つ無いにもかかわらず、実際には沢山の人を使って僕たちを助けてくれたという、女音の父親の頓珍漢な行動についてだ。危険から助け出すだけの心配や大切に思う気持ちがあるのであれば、もう少しでも女音を可愛がってやればいいものなのに。
しかしながらそれは子を持つ親としての最後の良心なのかもしれないと、子を持たぬ僕には分からぬジレンマであろうと、無理矢理結論付けることにした。
……だが、改めて考えるとそんな情けをかけるような人でなさそうなのにと、やはり疑問が顔を覗かす。結局人の考えなど分からない、気まぐれだったとしてそれを理論で解決しようなどこの上なく馬鹿げた話だ。
ふと、ポケットで震える携帯電話に気付いて現実に引き戻された。うつらうつらとしていたようだ、寝ぼけ眼で腕を動かして携帯電話を手さぐりで探し当てる。確認すれば愛梨さんからメールが届いていた。
『昨日はいろいろとご迷惑をお掛けして、ごめんなさい。思い返せば私は自分の考えなんて持たずに、ただ言われるがまま動いて、悠斗くんには迷惑をかけましたね。あれから一晩考え、私は家族に決められた道ではなく、しっかりと私の進みたい道を決めようと思いました。まだしばらく時間が掛かると思うけど、頑張ります。改めて昨日はありがとう。おかげさまで私はこうして元気にしています。ただ、兄の調子が思わしくないので、本日の夜間学校を休むことを先生に伝えておいてもらえると助かります。こんなことで使ってしまって、重ね重ねごめんなさい。』
愛梨さんなりに、昨日の出来事について色々と思うところがあるのだろう。彼女らしくも無い、混乱交じりの長い文章に返信するのも億劫となり、メールを読み終わるや愛梨さんに電話をかけた。
「もしもし愛梨さん? メールありがとう」
「……もう、私がそのメールにどれだけ悩んで時間を使ったか……悠斗くんは意地悪なんだから」
「ついさっき、別の人にも同じことを言われたばかりだよ。僕は意地悪するつもりはないんだけどなあ」
言うと電話越しに相手が肩をすくめたのが分かった。
「今って仕事じゃなかったの?」
「仕事だったけれど、本社に呼び出しを受けて移動中」
「本社って、確か……」
「そう、S社。今から女音の父親にどじかられるかもしれないと戦々恐々(せんせんきようきよう)だよ。それより愛梨さんこそ、体は大丈夫? なんともなかった?」
「うん、私は大丈夫。だけど兄の精神状態が依然不安定だから、大事をとって見守ってる」
「そっか、早く良くなるといいけど……」
挨拶ついでに軽く現状報告を交わしたなら、昨日のしこりが残っているかのように互いに無言となってしまった。仮にも騙した側と騙された側なのだ、愛梨さんにとっては申し訳なさで楽しく会話など適わないのだろう。気を遣うというと上から目線ではあるが、相手の意向を汲み取っているつもりだし、僕自身愛梨さんと素っ気ない話をしあうなんてまっぴらごめんだと、こちらから話の続きを切り出した。
「愛梨さん、さっきのメールだけどさ。愛梨さんの将来の夢って決まってるの?」
「……笑わないでね。保育園の先生」
「あー、似合いそう。っていうかだから保育所で事務の仕事をしているなんて言っていたんだ」
「うん。だから大学は、家族は反対するだろうけどN大学の教育学部に行こうかなって思っているの。ほら、N大学ってこの界隈だと教師育成に力を注いでいるって聞くじゃない。悠斗くんや女音ちゃんを見て、やっぱり私の人生だから私のやりたいことを見つけて多少の無理は承知で突っ走らないと、なんて思ったのよ」
「反面教師だよそれは、また愛梨さんのお兄さんから何と怒られるやら……」
おどけて言うと、電話越しに笑い声が漏れた。やっぱりこうでないといけない、この音楽のように朗らかな声こそ、僕の知っている愛梨さんだ。
将来愛梨さんに先生をしてもらえる園児たちに嫉妬心を燃やしながら、感慨深くお遊戯なんかを教えている彼女の想像に耽った。
「あ、そういえば今日は昼の学校も休んだの?」
「うん、今日は一日まるまるお休み。……あのさ、悠斗くん。私は昼にも学校に通っているんだけど、そこってほとんどの人が小学校からエスカレーター式に進学してくる、進学校なの」
「なるほど、どおりで愛梨さんに解けない問題がないわけだよ」
僕も自分なりに真面目に勉学に取り組んでいるつもりだが、宿題にはどうしても解けない問題がいくつもある。ところが授業前の見直しで愛梨さんと一緒になれば、それらは余さずに美しく解かれてしまうのだ。
「でもね、進学校ってすっごくみんな真面目なの。それで頭の悪い人とは付き合わない、逆に賢い人には影口ばかり……とてもじゃないけど、高校から合流した私はすでにできているグループの中に入れなかったんだ。ううん、別に私が正義だとかいい子面するつもりはないけれど、正直一緒になりたいと思えない人たちだったの」
そんなものなのか、僕はただただ頷くばかりだ。だが小中高と同じグループで進学してきたなら、愛梨さんの言う通り固定されたグループや派閥が幾つもあるだろう。進学校で皆が賢いとなればプライドも高そうだし、そんな所へ高校から突然放り込まれた愛梨さんを思うと、不憫でならない。
「中学の頃は塾に通わされていたんだけど、塾の友達と遊びに出ることが増えてね。両親も黙認してくれていたんだけど、宿題を忘れちゃったときに目いっぱい怒られたの。勉強以外のことにかまけているなんて何事だって、高校はあえて知り合いのいない小中高の一貫校に入れられちゃって……お陰で一人ぼっち。塾も信頼できないだなんて代わりに県内で一番レベルの高い夜間学校に通わされたんだけど……学歴のために通っているような人たちばかりで、同年代もほとんどいない。家族の目論見通りだけど、なんだか私とは違うんだって、すごく疎外感を感じたの」
「うん、一緒だ」
「だからね……悠斗くんとこうして話ができるようになって、私、すっごく嬉しかった。同年代の男の人と話すのが慣れていなくて、普段なんてカタコトになっちゃうのに、不思議と悠斗くんとだけはこうやって自然に話ができちゃうの」
「それは奇遇だ、僕も愛梨さん以外の女性と話すとなれば、どぎまぎしてばかりで何も話せなくなるんだよ」
「女音ちゃんは?」
「あれは女性じゃない」
「もう、また調子のいい事言って……ね」
おかしなやり取りだなんて、電話越しに笑い合った。なるほど僕と愛梨さんは本当に相性が良かったんだ。愛梨さんがお兄さんにけしかけられる以前より、僕と彼女は似た者同士で、最高の相性だったんだ。
愛梨さんのどこに惹かれたのか、それは容姿や性格もあるが、なによりもその雰囲気だったのかもしれない。僕と彼女は出会うべくして出会ったんだなんて、女音ばかりを馬鹿にできない陳腐な想像をしている自分に気付いて苦笑した。
「悠斗くんと一緒に小説の舞台に行ったよね。休みの日に同年代の、しかも男の人と一緒に出かけるなんて……兄からは太陽を作る計画に関して、悠斗くんと親密になるため致しかたなくだなんて言われていたんだけどね……不謹慎ながらすごく嬉しかったしすごく楽しかった。あの時だけは普通の女の子らしくいられたんじゃないかなって思うと、今でもあの日だけがすっごく輝いて思い出せるんだから」
愛梨さんの声は少し震えていた。嬉しさかそれとも自身への憐憫か、真意は分からなかったが、涙ぐむ彼女の姿が電話越しに覗けるようだった。
一緒に出かけたあの日の愛梨さん、無邪気でいつもと違うようにも感じられたが、あの時の愛梨さんは間違いなく一人の女の子であり、今までのどの彼女よりも可愛かったことだけは間違いない。そんなあざとい褒め言葉は、とても口にできなかったが。
「あと……その、悠斗くん。あの、すごく勝手で、その……心苦しいんだけど、もし、許されるのなら、改めて返事をしたいなんて……」
「返事?」
「あ、ごめん、今の忘れて! いいから!」
柄にも無く突然取り乱した愛梨さんは、そのままの勢いで「また明日」と言うと電話を切ってしまった。
「返事か……勿体無いことをしたかもなぁ」
愛梨さんの突然の言葉に、実際何の返事だろうかと一瞬頭を悩ませはした。しかしすぐにもそれが何の返事であるかと分かれば、一度愛梨さん自身が断った返答をこの場で改めたいと言うのだから、つまりは逆に訂正するのだろう。
タクシーの後部座席で大きく伸びをすると、どうして返答を聞こうとしなかったのだろうかと自問した。しかし所詮は気まぐれだ、気まぐれに理由を求めることほど無意味なこともないだろうと結論付けて、僕はある一つの決心をしていた。
S社が負担してくれる大学の補助だけれど、謹んで受けよう。会社からの気遣いを無駄にできないと綺麗ごとをぬかすわけでもなく、このチャンスを受けることで家計も助かるし、愛梨さんとも同じ大学になるのだ。愛梨さんからの返事はその時に、改めて尋ねでもすればいいじゃないか。
もっとも今の僕では少し頭が足りない、これから相応に勉学に勤しむ必要はある。
しかし大学のお金を丸々負担してくれるなど、未だもって信じられないことだ。しかもその主が女音の父親だというのだからまったく世の中分からない、まるでS社の子供となったみたいだ。だったら女音と兄妹になるのかなどと考えて口元が引きつった。一人っ子の僕には妹のいる環境というものは想像できなかったし、実際の妹など口うるさいだけとは良く耳にする話だが、ああもうるさく扱いに困る妹も珍しいだろう。
「……ん?」
冗談半分でそんなことを考えながら通話の終わった携帯電話を眺めていると、突然頭が明瞭となり、違和感という欠片がパズルのように一つ一つ合致していく。
女音を快く思っていない父親がどうしてあのときに助けを出したのか。女音にボディーガードなどついていなかったことは愛梨さんのお兄さんが確認済みだった、つまり、女音以外の誰かを見張っていた者が存在したのではないだろうか。女音の父親は男の子が欲しかった、しかし子供として生まれたのは女の子だった、そしてあの時女音が放った「でも……それでも私はお父さんの娘なのよ」という一言。僕の同意によって黒づくめの男がすぐに愛梨さんの兄を開放した事。そして最後に、僕に大学支援をしてくれるという事実。
とても共通点を見つけられない、それこそ人の気まぐれと片付けてしまいそうな一連の出来事であったが、これらすべてがある一つの前提を置くことで道理付けられるのだ。つまり、兄妹とは別の意味でS社の社長、もとい女音の父親は僕を子供にしようというのだ。そう、チーフはN大学経済学部への進学を支援をしてくれると言ったが、当の大学にあったのは、経済ならぬ経営学部だったではないか。
女音の『家庭』を太陽系とするのであれば、大黒柱である父親が太陽そのものであり、そして太陽になり得る可能性を持った木星の位置に僕を据え置こうというのだ。僕たちが太陽を作ろうなどと奔走している傍らで、僕自身は木星として作られつつあったのだ。
そうか、今にして思えば僕が愛梨さんと一緒に出かけたあの日、女音は偶然僕たちを見つけたなどと言っていたが、冷静になればそんな偶然が起こるなど天文学的確率だろう。僕が誰かに監視されていたと思うほうがよっぽど納得できる。そう、支給された携帯電話のGPS機能によって、会社は常に僕の居場所が分かるはず――
「運転手さん……!」
紙一重この事実に気付いて僕は叫んだ。本社にたどり着いてからでは遅かっただろう、まだ間に合う。
しかし顔を上げた僕の目に飛び込んできたのは、バックミラーに映る、黒塗りのいかにもな二台の車であった。
見張られていたのは他の誰でもない、そう、僕ではないか。
血の気の引いた顔で、しかし引くに引き返せず、僕はただタクシーに揺られながら恨めしそうにまぶしい太陽を睨んだ。
(了)




